創業100周年を迎えるレコード会社から、アルバム2枚を同時リリースしてデビューする大型新人――こんな謳い文句に、皆さんはどのようなヴァイオリニストの姿を想像するだろうか?
彼女の名前は
花井悠希。ぬいぐるみの付いたヴァイオリン・ケースを背負い、こちらを振り返って微笑むジャケット写真の印象は、あたかも“隣の女の子”。そう、現役音大生である彼女は、クラシック音楽を学びながらも、ファッションや文学、料理、街角のカルチャーにも広く興味を持ち、なにげない毎日を素敵に過ごすことが得意な21歳。いたって普通の女子大生だ。
ではなぜ、数多の中から花井悠希に白羽の矢が立てられたのだろう? ゆるふわっとした佇まいの奥に潜む“スター性”を探ってみたい。
デビュー・アルバムは
さだまさしとクラシック曲集
「自分からヴァイオリンを取ったら何も残らないな、と幼な心に思ったのが小学校高学年のとき」
そう語る彼女の目に力強い光が宿ると、確固とした意思の存在を感じる。
母親の希望で3歳からヴァイオリンを始め、将来はヴァイオリニストになるものと心に決めながらも、高校は音楽学校ではなく、普通科に進学した。
「中学時代から、部活では弓道をやっていました。友だちは皆、私の音楽を聴いて、応援してくれたりして、普通科に行ってよかったなと思います。音大を目指して本格的に勉強するようになったのは、高校1年の頃からですね」
故郷の三重を離れ、東京音楽大学に入学。現在4年次に在学し、東京交響楽団のソロ・コンサートマスターとしても活躍する大谷康子らに師事している。
「先生に将来について相談したところ、コンサートの企画をやっていらっしゃる方と会ってみれば? と言われ、高嶋さん(高嶋音楽事務所の社長)にお会いしました。それがきっかけで、コロムビアさんからデビューさせていただく話になり……最初は本当にもう、信じられない気持ちでした!」
こうして、瞬く間にデビューへの階段を駆け上った花井悠希は、4月21日に2枚のアルバムをリリースして華々しく楽壇に登場する。そのアルバムの内容も、非常にユニークだ。
1枚は
『主人公〜さだまさしクラシックス』。その名の通り、
さだまさしの名曲をヴァイオリンで奏でたカヴァー集。ピアノとチェロも加わり、渡辺俊幸による巧みな編曲によって、“さだメロディ”の新鮮な魅力を味わうことができる。
「さださんの音楽は、私の世代には親しみがないと思っていたのですが、聴いてみると不思議と耳に馴染んで、すーっと入ってきました。それもそのはず、親がさださんと同世代で、ファンだったそうなんです。私が小さい頃、家でずっとさださんの音楽が流れていたので、耳が憶えていたのですね。メロディをヴァイオリンで弾くので、歌詞がないわけですが、そこで“さだメロディ”の素晴らしさに気づいていただけたらと思います」
「好きな曲を挙げていったら、いつの間にかこういったプログラムになりました。ほの暗くて、哀愁を帯びたメロディに魅力を感じます」
イメージは“森ガール”
素顔は“おじさんマニア”!?
花井悠希は、デビュー前から“森ガール系”ヴァイオリニストと呼ばれて話題になっていた。それは彼女のファッションだったり、ナチュラルな雰囲気に由来するわけだが、実際に会って話を聞くうちに、ふんわり可憐な“森ガール”とは正反対な部分とのギャップこそが魅力だと気づくことに……。それは、音楽の趣味にも表われている。
おぉ、なんと渋いこと! 若い女性というよりも、クラシック音盤歴何十年の玄人というイメージさえあるラインナップである。
「明るく燦燦とした曲よりも、暗くて、内へ内へとこもるような音楽が好きなんです。今回、さださんの音楽に惹き付けられたのも、そういった部分があるからかもしれません」
なるほど。音楽以外でも、ファンタジー小説が好きというところも、かなりマニアック。
「中学生のとき、ハリー・ポッター・ブームの真っ最中で、それをきっかけに、本当にたくさんのファンタジー小説を読みあさりました。音楽でもそうですが、幻想的な世界に惹かれるみたいです」
そしてきわめつけは、料理。ひとり暮らしで自炊する彼女が、twitterに公開しているメニューには、“男のガッツリ料理”がかなり多いとの噂だが……?
「え〜、肉豆腐とか手羽先とかですか? そればっかりじゃないですよ。ちゃんと野菜も食べてるし、ケーキも作りますよ!」
おっと、失礼。それはともかく、この“森ガール”の内面には、じつは“おじさんマニア”にも通じる世界があるような気がしてならないのでした。
自分だけの世界
ハイブリッドな感性
『主人公〜さだまさしクラシックス』
『光の風〜ヴァイオリン・クラシックス』
そんなイメージと素顔のギャップがキュートな彼女だが、もちろん“等身大の音大生”としての横顔も魅力的だ。
趣味はショッピングとカフェめぐり。服のコレクションにも自信がある。雑誌の表紙撮影の日にも、自前の“森ガール”風のファッションでやって来た。
「ファッションは、出かける場所やその日の気分によって変えています。たとえば六本木に行くときは大人っぽい服装で、吉祥寺へはゆるふわな格好で。だからテイストは“森ガール”だけじゃないんですよ。お休みの日は一人でカフェめぐりをするのが好き。中目黒は憧れの街で、行くといつも背筋がぴんと伸びますね」
音大生というと、ひたすら練習に明け暮れ、クラシック以外の世界は何も見えないというイメージだった。たしかに、巧いだけのヴァイオリニストならほかにもたくさんいるだろう。だが、花井悠希は違う。ひたむきに音楽と向き合いながらも、あらゆる文化を吸収し、確固とした“自分だけの世界”を持っている。そしてファッションやライフスタイルさえも、しなやかに自己の表現手段に変えていく――そんなハイブリッドな感性が、これからのクラシック界に必要な“スター性”なのかもしれない。
取材・文/原 典子(2010年4月)
【Report】
fur fur 2010−11 AW COLLECTION
花井悠希は、音楽界だけでなくファッション界からも注目されている。
世界的に有名な東京コレクションの3日目、3月25日にラフォーレミュージアム原宿で行なわれたfur furのファッション・ショーに出演した彼女は、ステージ全編をヴァイオリン独奏で彩った。
蝋燭の明かりに照らし出された円形のランウェイ。中央には、木でできた教会の模型が宙吊りになっている。
ショーの開幕前、ほの暗いステージに一人登場した花井悠希は、厳かにバッハの無伴奏曲を奏ではじめた。
シャンデリアが灯り、モデルたちが登場。真っ白な服に身を包んだ一群の次に、真っ黒な服の一群が出てくる。ひたすら白と黒の世界だ。
ステージ全体が幻想的で厳粛な空気に包まれ、そのバロック的な雰囲気にはバッハがよく似合う。
白と黒の入れ替わり、最後に全員が出てくるクライマックスなど、モデルたちの動きに合わせて曲調も変わる。臨機応変に演奏速度を調整する必要もあったそうだ。
ショーの最初から最後まで、たった一人でステージの中央に立ち、ヴァイオリンを奏で続けた花井悠希。オール・ブラックの衣装に身を包み、文字通り“黒子”としての役割を果たしながらも、その存在感は圧巻だった。
ただ演奏するだけでなく、その“場”を作り出すことができる実力。まだデビュー前にもかかわらず、その度胸たるや並大抵のものではない。やはり、ただ者ではないようだ。
取材・文/原 典子(2010年3月)