Anything is possible(なんだってできる)――“左手のピアニスト”ニコラス・マッカーシーがデビュー・アルバムをリリース

ニコラス・マッカーシー   2016/03/07掲載
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 “Anything is possible(なんだってできる)”。彼ほどこの言葉が似合う人間もいないだろう。ニコラス・マッカーシーは、生まれたときから右腕が半分ほどの長さだった。音楽が好きな少年だったが、ピアノに目覚めたのは14歳のとき。友人が弾くベートーヴェンの「ワルトシュタイン」に感動して、「コンサート・ピアニストになる!」と決意する。そこから独学で練習をはじめ、17歳でロンドンのギルドホール音楽演劇学校のジュニア部門に入学。まわりは幼少時からクラシックの英才教育を受けてきた生徒ばかりという状況のなか、並外れた努力と才能によって左手のみの演奏を体得する。そして名門、英国王立音楽大学に進学し、同校の長い歴史の中で初めて左手の演奏でピアノ科を卒業した。
 以来、“左手のピアニスト”として注目を浴びた彼は、2012年のロンドン・パラリンピックの閉会式でコールドプレイと共演し、一躍母国のスターに。“Anything is possible”をモットーに、世界へと活躍の場を広げている。このたび、デビュー・アルバム『ソロ〜左手のためのピアノ編曲集』のプロモーションのため、初来日した彼に話を聞いた。
――アルバムの冒頭にルドヴィコ・エイナウディ(註)の「I Giorni」が入っているのが、個人的にはとても嬉しかったです。
註: イタリアの作曲家 / ピアニスト。映画『最強のふたり』の音楽を手がけたことで知られる
 「私がピアノをはじめて3曲目ぐらいに習ったのがエイナウディの曲で、以来すっかり夢中になりました。彼の音楽はとてもエモーショナルで、いろいろなことを想起させてくれます。とくに〈I Giorni〉を聴くと、亡くなった祖父のことを思い出すんですよね。夏の日に、おじいさんの家の庭で一緒に遊んだこと、そんな楽しくも懐かしいひとときがよみがえってきます」
――マッカーシーさんは坂本龍一の作品もお好きだそうですが、エイナウディと共通したものを感じます。
 「そうですね、どちらもシンプルで美しいメロディを持っていながら、現代的でクールな手触りもある。エイナウディと同じ理由で、坂本の音楽にも惹かれます。アルバムの最後に入れたナイジェル・ヘスの作品もそう。とても内省的な音楽で、弾きながら幸せな思い出が次々と頭をよぎっていきます。ヘスはイギリスではとても有名な作曲家なのですが、この〈夜想曲〉は私が委嘱して書いていただくことができました」
――アルバムの前半にはオペラ・アリアやリストの「愛の夢」第3番といった親しみやすく美しいメロディが並んでいますが、中盤にさしかかるにつれ技巧的な曲が増えていき、左手のみで演奏されていることをすっかり忘れて聴き入ってしまいました。なかでもスクリャービンの3曲は圧巻!
 「スクリャービンの〈夜想曲〉(2つの左手のための小品 作品9 第2番)は、私が習ったはじめての“左手演奏のための作品”でした。それまでは“リトル・アーム”と呼んでいる右手で一音のメロディ・ラインを弾いていたんですよ。17歳でこの作品に出会って、左手のみで演奏するために作・編曲されたレパートリーが世の中にはたくさんあることを知り、一気に世界が広がりました」
――スクリャービンというと官能的でミステリアスなイメージがありますが、マッカーシーさんはこの作曲家のどんなところに惹かれたのでしょう?
 「作品9の〈夜想曲〉に出会ってからというもの、私はすっかりスクリャービンの音楽の虜になりました。すごく情感的で、悲喜こもごも、すべてが一曲のなかに入っているような音楽。とくにこの曲は、スクリャービンが学生時代に右手を痛めたことがきっかけで書かれたのですが、思索的な曲でありながら、中間部に嵐のような、怒っているような箇所があるんですね。それは右手が使えないことへのもどかしさや苛立ちなのではないかと。私にはそういった彼の気持ちが、音楽の中から聞こえてくるのです。たしかにスクリャービンの後期のソナタなどは非常に難しく、親しみにくいかもしれませんが、初期の作品は私にとっては受け入れやすく、彼と繋がることができるように感じます」
――同じく初期の作品として、2つの練習曲(作品8の第12番〈悲愴〉と作品2の第1番)が収録されていますね。
 「これらはアルトゥール・シミーロに編曲を頼んで録音しました。彼とはよく仕事をしているのですが、私の音楽をよく理解してくれて、とても良いパートナーシップを築いています。ただ彼はブラジルに住んでいるので、やり取りはすべてメールやSkype。一度も会ったことがないんですけど(笑)」
――マッカーシーさんの音楽にとって、“編曲”というのは非常に大切な要素ですよね。
 「自分で編曲することもありますが、アレンジャーと一緒に編曲作業をしていく、そのプロセスも好きです。自分はこの曲のどんなところが好きで、この音楽からなにを受け取ったのか、それをアレンジャーにきちんと伝えることが大切ですね。両手で演奏する曲を左手用に編曲すると、どうしてもサウンド自体は小さくなってしまいます。けれど、その失われたぶんのサウンドを、音楽性やフィーリングで豊かにすることができると私は思っています」
――驚くほどの跳躍や、速いパッセージも見事に弾きこなしていらっしゃいますが、マッカーシーさんにとって“難しい曲”とはどんな曲ですか?
 「今回のアルバムにも入っていますが、ショパンの〈大洋〉(練習曲 作品25 第12番)。ゴドフスキーによる左手用の編曲は、どうしてこんなことをやろうと思ったのだろう? というぐらい難しいんです(笑)。音符も多いし、めちゃくちゃ速いし……。けれど技術的なこと以上に、お客さんとコミュニケーションできなければならないところが難しい。すごいスピードで音符が流れていくなかで、私が感じていることをきちんとお客さんに伝えることができるか。そこが私にとっての課題でした」
――マッカーシーさんはペダルを駆使されていますが、なにか特別なテクニックがあるのでしょうか?
 「以前、ロシアの有名な先生にレッスンを受けていたことがあって、彼女からいつも“耳と一緒にペダルを使いなさい”と言われていました。当時ティーンエイジャーだった私には理解できなかったのですが、あれは“ペダルを感じなさい”という教えだったんですね。今の私は、どこでペダルを使うべきか、ペダル記号を見なくても自然に分かります。息をするのと同じように、ペダルを使う。ペダルが私の右手のような役割を果たしているとも言えるでしょう」
――デビュー・アルバムでは、リリカルで美しいメロディから華麗な超絶技巧まで、ヴァラエティに富んだプログラムでマッカーシーさんのいろいろな面を見せてくださいました。今後の展開がますます楽しみです。
 「録音したい曲の組み合わせを考えたり、委嘱作品だけでアルバムを作ってみたいと思ったり、自分で作曲した作品もお聴かせしたいです。それから、ラヴェルの左手のためのコンチェルトもいつか日本で演奏できたらいいなあ……。まだまだやりたいことはいっぱいあります!」
取材・文 / 原 典子(2016年2月)
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