大石 始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC - 第23回: 盛島貴男[東京編]
掲載日:2016年06月17日
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大石 始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC
第23回: 盛島貴男 [東京編]
 60歳を過ぎてデビュー・アルバムを発表し、話題を集めているひとりの歌い手が奄美大島にいる。その声はまるでブルース歌手や浪曲師のようなガラ声。手にするのは他の奄美大島の唄者のような三線ではなく、ハープのような音色を奏でる竪琴だ。しかもレパートリーには奄美の島唄だけでなく、菅原文太美空ひばりのナンバーも含まれる。
 ――彼の名は盛島貴男。90年代後半に突然竪琴の演奏を開始。現在は竪琴の制作 / 販売および演奏指導を行っており、かねてから奄美大島では知る人ぞ知る存在だったが、昨年デビュー・アルバム『奄美竪琴』をリリースすると、奄美大島出身の伝説的唄者、里 国隆の再来か?と大きな話題を集めた。
 そんな彼にインタヴューすることができたのは2015年10月、東京での初ライヴのために上京した際のことだった。そのときは度重なる脱線のため、多くを聞くことができないままタイムアップ。“やはり彼の本拠地で話を聞かないうちには何も分からないだろう”ということで、最初の取材から約2週間後となる11月の初旬に奄美大島を訪れて再インタヴューを試みた。
 まさに異才中の異才、御年66歳のニュー・スターの実像に迫るロング・インタヴューをお届けしよう。まずは2015年10月、東京での会話から。
もっと早く気付いていれば、あの人の歌をもっと録音できたはず。もったいない!
盛島貴男 奄美竪琴 Takao Morishima Amami Tategoto
――盛島さんは現在、(鹿児島県大島郡)龍郷町(註1)にお住まいですよね?お生まれも龍郷なんですか?
盛島貴男(以下 盛島) 「いや、違う。生まれは名瀬市(註2)。高校卒業まではいたかね。龍郷に来てからは25年ぐらい」
註1: 龍郷町 / 奄美大島東部の町。奄美大島の伝統産業である大島紬の発祥の地ともされている。
註2: 名瀬市 / 名瀬合同庁舎や大島支庁などの行政機関が集中する、奄美大島の経済・商業の中心地。
――盛島さんは1960年代前半、小学校6年生のときに名瀬の路上で竪琴を弾く里 国隆さん(註3)をご覧になってるんですよね。そのときのお話をもう少し詳しく聞かせていただけませんか。
盛島 「ああ、そうですか。(初めて見たときは)ちょっと不気味な雰囲気があったし、竪琴の音色も変わってて、そこに惹かれたんだろうな。もう、迫力満点。僕はそう思った。いつも決まった場所でやってたんだろうけど、僕は名瀬でも山のほうで育ったもんだから、街のほうにはあまりいかなかったのよ。たまたま観たんだね」
註3: 里 国隆 / 1918年に奄美大島で生まれた盲目の唄者。奄美大島や沖縄本島の路上で竪琴を弾き語りながら行商を行う放浪芸人だったが、1975年に東京で行われた〈琉球フェスティバル〉に出演すると、一躍全国的に知られるように。1985年の逝去後も生前の音源が発表されるなどたびたび再評価されてきた。
奄美の歌者 里 国隆 「あがれゆぬはる加那」
――1960年代当時、里 国隆のように町中を流してる人っていたんですか?
盛島 「いや、いないいない。田舎のほうにいけば三味線を片手に集落を回る“道弾き三味線”の若い青年なんかがいたけど、名瀬の町にはいない。名瀬の繁華街の飲み屋で流しみたいな格好で弾いておったり、そんなことをやってるのはこの人(里 国隆)だけ。だから、あんまりいい印象じゃないわけよ。当時の名瀬の町中には物乞いしてる人もたくさんいたし」
――そのころの里 国隆さんは奄美でも“知る人ぞ知る”存在だったわけですね。
盛島 「まったく知られてない。(島の外でも本格的に知られるようになったのは)亡くなった後の話だから。昭和30年代の後半まで沖縄でずっと大道(芸人)をしてメシを食うてるわけよ。そのあと奄美に戻ってきたら、竹中 労さん(註4)という人が沖縄の嘉手苅林昌登川誠仁山里勇吉という錚々たるメンバーを引き連れて昭和50年に〈琉球フェスティバル〉をやったわけ。そのとき奄美から唯一呼ばれたのが里 国隆。竹中 労という人は素晴らしいんじゃないの?僕はそう思うな。里 国隆のレコードやCDが出てから、奄美の人はようやく気付いた。それでも遅いわけよ。もっと早く気付いていれば、あの人の歌をもっと録音できたはず。もったいない!」
註4: 竹中 労 / ルポライター、評論家。沖縄民謡を本土へと紹介する役割も果たしており、1974年、75年の〈琉球フェスティバル〉を企画・プロデュースした。1991年に死去。
最初はマネしてたんだけど、やってるうちにおかしくなってくるわけや(笑)
――里 国隆さんの前に竪琴を弾いてる人はいたんでしょうか。
盛島 「いや、奄美にはいない。里 国隆が13、14歳のころ、彼は自分の爺さんから三味線を徹底的に習ったわけ。ところが、名瀬の町中には鹿児島からやってきた樟脳売り(註5)がたくさんいて、彼らは樟脳を売りながら竪琴を弾いていた。里 国隆はそんな樟脳売りのひとりに弟子入りして、17歳で沖縄に渡っている。放浪の始まりよ」
註5: 樟脳(しょうのう)売り / クスノキの木片などから取られる結晶。衣類の防虫用品として親しまれてきたほか、香料や医薬品として使われてきた。かつての鹿児島では竪琴を弾きながら路上で樟脳を売る行商人がおり、彼らが奄美大島に樟脳売りの文化を持ち込んだとされている。
――なるほど、奄美の竪琴は鹿児島から渡ってきたわけですね。
盛島 「そう。だから、(盛島のアルバム・タイトルは)『奄美竪琴』ってなってるけど、僕が付けたんじゃないよ(笑)。奄美のみんながそう呼んでるわけじゃない。僕は“半琴”という名前をつけたことがあるわけよ。半分の琴だから“半琴”。読み方は“ハンゴトゥ”」
――ハンゴトゥ?
盛島 「ハンゴトゥ。そのほうがモンゴル語みたいで格好いいがな(爆笑)」
――そういえば、盛島さんは高校時代、ベンチャーズをバンドでカヴァーしていたそうですね。
盛島 「そうそう、ドラムを叩いてた。そんなに難しいことはできないけど、スウィングできればいいわけ。当時、ドラマーになりたいヤツは多かったけど、盛島くんが試しに叩いてみたら手と足が合った。ヘッヘッヘ。他の連中は手と足がバラバラだったけど、たまたま勘が良かったわけ」
――島唄はやってなかった?
盛島 「とんでもない!60年代の名瀬では方言も喋っちゃいけなかったし、やっちゃいけないことだらけ。厳しい時代だった。田舎におった人は代々島唄を歌ってるという人もおったけど、僕の家族親戚で島唄を歌う人なんてひとりもいなかった。名瀬では“標準語を喋れ”いうて教えこまれていた」
――当時の名瀬では島唄を耳にすることさえなかった?
盛島 「なかった。それと、今みたいに有名な島唄の歌手がいたわけでもない。地元の集落の催し物や人の家で歌っていただけ」
――なるほど。では、盛島さんが98年に竪琴を弾き始めたきっかけを教えてください。それまで音楽をやっていなかったのに、なぜ?
盛島 「オフノートから出た里 国隆のCD(『あがれゆぬはる加那』)を聴いて、“これだったら俺にもできるんじゃないか”と思ったわけ(爆笑)。子供のころから聴いていたわけじゃないから、三味線は弾けない。でも、琴はペロちゃんだから(=簡単に弾けるから)。ヘッヘッヘ。歌と竪琴を徹底的に練習しまくったわけよ。里 国隆の真似一筋!そんなことを1年やっていたら、なんとかなってきた。竪琴は作るのも簡単なの」
――どうやって竪琴の作り方を学んだんですか?
盛島 「里 国隆が弾いていた現物を借りてきて、それを見ながら。見たら作り方が分かる。里 国隆のものは妹さんの旦那(義理の弟)が作っていて、僕はその人のことを知ってるの」
――盛島さんは“里 国隆の真似一筋”とおっしゃいましけど、盛島さんと里 国隆の歌はまったく違いますよね。
盛島 「全然違う。似たようなドス声かもしれないけど、まったく違う。最初はマネしてたんだけど、やってるうちにおかしくなってくるわけや(笑)」
流行る流行らない関係なく、そういう時代の歌を歌いたい
photo: MIKI KAGAMI
――どこからこの歌い方が出てきたわけですか?浪曲というかブルースというか……。
盛島 「前から聴いていたモンゴルのホーミー(註5)なんかがぐるりぐるりと回って、あんなんなっちゃったわけ(笑)。僕は誰からも教わってないわけ。自己流。ホーミーを試しにやってみたら、なんかできたわけ。これを島唄に合わせたらいいんじゃないかと思って、やってみたの。あとはレイ・チャールズの〈Unchain My Heart〉。あの曲のリズムなんて島唄の〈稲すり節〉(のリズム)と同じわけ。いろんな音楽を聴くから、へんな風になってくるわけよ(笑)。僕は誰からも教わってないから、そういうことができる。でも、何から何まで師匠に教わってる人は、(島唄を)そういう風に崩そうと思ってもなかなかできない」
註5: ホーミー / モンゴルやウイグルに伝わる、喉歌と呼ばれる歌唱法。倍音に似た独特の音を出すことができる。
――盛島さんは島唄も歌うわけですね。
盛島 「分かりやすい歌だけ。いろんな歌がいっぱいあるけど、内地の人が理解できるぐらいの分かりやすい歌でいいと思ってるわけ。僕はそう思う」
――盛島さんは奄美の島唄のほか、内地の民謡も歌いますよね。今回の『奄美竪琴』にも「安来節」(島根民謡)や「田原坂」(熊本民謡)などが入ってます。
盛島 「それは里 国隆が亡くなる3年前、63歳のときに宮里千里さんが街頭録音したアルバム『路傍の芸』に入っていたから。(今回のアルバムに入ってる)〈製糸小唄〉も〈食料についての歌・豆地獄〉も里 国隆のレパートリーで、〈食料についての歌・豆地獄〉は豆腐屋と豆屋の押し問答の歌」
――普段はフォークの楽曲も歌われるそうですね。
盛島 「歌うよ。高田 渡の〈生活の柄〉とか。あれがまた〈十九の春〉も歌ってるっちょ(曲名は〈よろん小唄〉)。それと、井上陽水の若いときの歌も歌う。〈傘がない〉とか。それと、有名な歌があるだろ……加川 良の〈教訓〉。あれは戦争の歌みたいに聴こえる。友部正人も素晴らしい。あの人は僕の汚い家に一度来たのよ。遠藤ミチロウが連れてきた」
――そういったフォークは70年代、リアルタイムで聴いてたんですか?
盛島 「確かにフォークは流行っとったけど、僕は聴いてなかった。でも、浅川マキはその頃から好きだった。それと、高倉 健。『東京流れ者』とかや。ヤクザ映画とアングラ。ああ、素晴らしいなと」
――じゃあ、今後はそういうフォークの歌もライヴで歌っていくわけですか。
盛島 「歌う歌う。三上 寛の〈夢は夜ひらく〉も歌うよ。曾根幸明という人が作って、緑川アコが歌った歌。時代背景が『あしたのジョー』と一緒。流行る流行らない関係なく、そういう時代の歌を歌いたい」
――本当にいろんな音楽がお好きなんですね。
盛島 「片っ端からや(笑)。僕の家に来たら分かる。大きなステレオがあって、それでガンガン鳴らしてる。浅川マキ、寺山修司も好きっちょ。新宿・花園神社の黒テント(註6)!だから、僕は黒テントに影響を受けて、自分の家には“青テント”を建てとる」
註6: 黒テント / 60年代後半から70年代にかけてのアングラ演劇ブームを牽引した劇団。かつては黒いテントで移動しながら公演を行っていた。
――そうなんですか!じゃあ、今度お邪魔してもいいですか?
盛島 「ああ、いらっしゃい。寝るところもあるから、心配しなくていい」
[奄美大島編]につづく
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