大石始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC
第8回:柳家小春新内『明烏夢泡雪』柳家小春+テニスコーツ
ライヴ〈小春の逢瀬〉@東京・高円寺「円盤」より、新内『明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)』の上段・下段の演奏から下段を抜粋。この動画のライヴはCD化も予定されています。
端唄、俗曲、新内と聞いて、ピンとくる読者はどれぐらいいるだろうか? ジャパニーズ・ルーツ・ミュージックにハマって間もない僕にとってもこれらの演目はまだまだ未知の領域に入るものだし、この言葉自体初めて目にする方も多いはずだ。
だが、三味線を手にそれら江戸音曲(江戸の流行歌)を弾き語る柳家小春の唄に小難しさは一切ない。独特のタイム感で軽やかにスウィングする三味線。肩の力を抜いた小粋な歌唱。ふたつの音が並走し、絡み合うときに生まれるスリル――。
2007年からは東京・高円寺のディープ音楽スポット、円盤で月イチの定例会をスタートさせ、邦楽以外のさまざまなミュージシャンともコラボレート。杉作J太郎監督『怪奇!幽霊スナック殴り込み!』や井口昇監督『ロボ芸者』で劇中の三味線音楽を担当するなど、邦楽界を飛び越えたユニークな活動を展開中の彼女は今回アルバム『小春』をリリースしたばかり。これがまた、江戸音曲の楽しさと新鮮な驚きが詰まった素晴らしい内容だ。美しい着物姿で取材現場にやってきた小春さんの言葉に耳を傾けてみよう。 撮影/芝田文乃
「目の前で師匠(柳家紫朝)の芸を観たかったんですよ。ほとんどストーカー(笑)。それでお稽古場に通うようになったんです」
柳家紫朝『粋曲』
――小春さんが音楽の世界に入ったのは、1991年に柳家紫朝(注1)さんに入門したのがきっかけだったんですよね?
注1:柳家紫朝/1929年生まれ、2010年没。祖父である三代目・鶴賀喜代太夫のもとで修行を始め、その後1969年に二代目・柳家紫朝を襲名。三味線の弾き唄いによる寄席音曲「粋曲」を確立した。
「そうですね。ハタチちょっと過ぎぐらいのころ、日本の文化に触れてみようと思って、歌舞伎を観たり、寄席に行ったりしてたんですど、たまたま行った落語会に色物として(紫朝さんが)出てたんです。なにせそのとき初めて観たので、“なにコレ!? こんなものがあるんだ!”って驚いちゃったんですよ。インターネットもない時代だったので、帰宅後に百科事典で調べて、そのとき師匠がやっていたのが都々逸(注2)や大津絵(注3)というものだということが分かって」
注2:都々逸/七七七五という定型詩で唄われる出し物で、男女間の関係を唄った情歌が多い。「よしこの節」や「名古屋節」をルーツとする説も。
注3:大津絵/古くから滋賀県大津で描かれていた追分絵、大津絵の画題を読み込んだもの。江戸後期から江戸にかけ、各地の寄席や宴席で大流行した。
――それで寄席に通うようになった?
「情報誌を半年ぐらいチェックしてたんですけど、どこでやってるのかも分からなくて。師匠はその前に身体を壊したこともあって、当時あまり寄席には出てなかったんですね。それで、とりあえず近所の三味線教室に通い出したんです」
――お生まれは東京の目黒ですよね?
「そうです」
――子供のころから三味線や日本の昔の唄に触れていたんですか?
「いや、触れてなかったんです。邦楽をやってる方は子供のころからやってる方が多いんですけど、私はそういう下地がほとんどなかった。もちろんどこかで三味線の音色は耳にしていたと思うんですけど、むしろ“格好悪いよね”っていうイメージしか持ってなくて。私が子供のころ、日本のものに対する一般的なイメージってそんなものだったと思うんですよ。若い人は見向きもしないものっていうか。私もそれまでまったく興味なかったんですけど、師匠の芸を観て“なにコレ!? すごくイイ!”って思っちゃったんです(笑)」
――それまで日本の古い芸能を“格好悪いよね”と思っていた小春さんにとって、そのときの紫朝さんの芸のどこが新鮮に映ったんでしょう?
「まずは“なにコレ!”っていう感覚があって、それが何なのか知りたくて歌いはじめたような感覚はありますね。“自分も芸人になりたい!”と思って始めたわけじゃなくて、それが何なのか知るために自分でやってみるしかない、と。私が最初に師匠を観たときも、会場は普通の寄席やホールじゃなくて普通の町会会館。そこでやってた立川流の落語会の合間に出てきたんですね。狭い会場だったので、舞台から客席を通って楽屋に帰っていったんですけど、そのときにもう“わあ、この人スゴイ! どうしよう!”みたいな感じ(笑)。一瞬で好きになっちゃって、いてもたってもいられなくなって……」
―― 一目惚れしてしまったわけですね(笑)。
「そうですね(笑)。そうしたら半年ぐらい経ったころ、国立演芸場で年に1回やってた〈紫朝の会〉のお知らせをやっと見つけて。それで演芸場に行ってみたんですね。それがまた、やっぱりすごく良くて(笑)。客席に若い人はほとんどいなかったんだけど、涙が出るぐらい素晴らしかったんです。〈紫朝の会〉のお知らせが載ってた『東京かわら版』(※日本で唯一の演芸の情報専門誌)に連絡先が載ってたんですよ。電話をしてみたらご自宅だったんです。まず女将さんが出て、“じゃあ、代わります”っていきなりご本人が出てきちゃって(笑)。で、次の年の新年会にお邪魔したとき、弟子を取っていることを知って。地元の三味線教室では然物足りなくなってたし、あの人に習わないと、と思って……というか、目の前で師匠の芸を観たかったんですよ。ほとんどストーカー(笑)。それでお稽古場に通うようになったんです」
撮影/宮一紀
――憧れの紫朝さんはどんな方でした?
「ものすごく優しい方でしたね。私が習いはじめたころはまだおじいさんという年じゃなかったんですけど、クモ膜下出血で倒れたときの麻痺が残っていたので、“優しいおじいさん”という印象がありました」
――最初はどういったものを練習するんですか。いきなり都々逸?
「都々逸はすごく難しいんですよ。師匠が最初に半紙数枚にいくつかの歌詞を書いてホチキスで綴じたものをくれたんですけど、そこには〈縁かいな〉(注4)とか〈春はうれしや〉みたいなポピュラーな俗曲(注5)が書いてあって、そのなかに都々逸も入ってましたね。それを渡されて“じゃあ、これを稽古していこう”と」
注4:縁かいな/明治20年前後、徳永里朝が寄席で唄いはじめて流行した俗曲。
注5:俗曲/流行歌や一部の三味線音楽を総称するもので、先述した都々逸や大津絵も俗曲のひとつとされる。明治に入ってからは寄席の定番演目となった。
――素朴な質問なんですけど、俗曲の場合、譜面ってあるんですか?
「今は“文化譜”っていう譜面が使われることが多くて、それはギターのタブ譜みたいに三本の線で書かれたものなんです。ただ、ウチの師匠は譜を使わなかったんです。自分では“読めないから”って言ってたんですけど、たぶん読めないということはなかったと思うんですよ。家で譜面に起こしたものを稽古の時に出そうものなら“そんなの引っ込めろ!”って言われて」
――それはなぜだったんでしょう。
「うーん、自分がそうやって譜面を使わずにお稽古してきたからじゃないですかねえ……」
――民謡の場合、もともと譜面のないなか芸人じゃない普通の人々が口伝してきたものだったわけですけど、それが明治以降譜面化されることでメロディが固定化されてしまって、本来唄のなかにあったはずの揺らぎとか譜面化できない部分が削ぎ落とされちゃったわけですよね。
「うん、その通りですね」
――民謡と俗曲は違う部分もあると思いますけど、紫朝さんはそういった譜面化に際しての問題を避けるような意識もあったんでしょうか。
「感覚的にあったのかもしれないですね。師匠ももちろん歌詞を書いた床本は使いますけど、譜面は使わなかった。私も書かないですね。耳コピして譜面に書いていた時期もあったんですよ。でもね、譜面に書いて覚えていくと、歌うときに(頭のなかに)譜面が出てくるんです。“なんかコレは違うな”と思って、それからは譜面を使わないで、とにかく身体に覚え込ませていくようになりました」
――譜面に書かれたものを頭のなかで追いかけていくのはちょっと違う、と。
「そうそう。まあ、師匠から習っていない曲を覚えるときは仕方なく売ってる譜面で覚えたりはしてますけど、なるべく譜面から離れるようにはしてます」
撮影/宮一紀
「(俗曲を)繰り返し歌っていると、表に出てこない、“タンッ”とお腹のなかに溜め込んだリズムがあるということが分かってきて」
――なるほど。で、1991年に入門されて、はじめて俗曲や新内(注6)に触れたわけですが、実際にご自分でやってみていかがでした?
注6:新内/新内節。初代・鶴賀新内(1714〜1774年)が興した浄瑠璃の一流派。
「最初は〈縁かいな〉を習い始めたんですけど、どう覚えればいいのか、さっぱり分からなかったんです。師匠が目の前で歌ってくれて、“一緒に歌え”って言われるんですよ。でも、どういうリズムになっているのか、まったく掴みどころがなかった。だから、カセットテープに録音して何回も何回も聴いて丸覚えしてみたんです。そうしたら、あるときに“ここにはリズムがあるんだ!”っていうことに気づいたんですね」
――そのときの“リズム”っていうのは、例えば4/4拍子のように分かりやすく割りきれるものではない?
「いや、実は割と分かりやすいリズムだったんです。ただ、表に出てこない部分があるんですね。俗曲はだいたい二拍子というか、表と裏の二拍なんですけど、唄のはじまりに“ンッ”みたいなタメがあって、最初はどこから拍を取っていいのか分からないんです。“ターンターンターンターン”という三味線のフレーズだけだったら表と裏の二拍なんですけど、頭の“ターン”に対して少しズレて唄が入ってきたり。でも、繰り返し歌っていると、表に出てこない、“タンッ”とお腹のなかに溜め込んだリズムがあるということが分かってきて」
――そういうリズムって、明治の前と後で違うものなんですか。曲が書かれた時代によって、そういうリズム感覚に変化はあるんですか?
「私も研究者ではないので詳しく調べたりはしてないんですけど、違いはあると思いますね。端唄(注7)や俗曲が唄われてきたのは江戸中期から明治、大正、と長い期間ですけど、古いものはゆったりとしたリズムのものが多くて、明治以降の俗曲ははっきりしたテンポのものが多いんですね、やっぱり」
注7:端唄/歌舞伎の伴奏音楽として発展した長唄に対し、1曲が短い歌謡を端唄(はうた)と呼ぶ。
――先ほどおっしゃってた“お腹のなかに溜め込んだリズム”は明治以前のものが多い?
「そうですね。俗曲で明治以降の流行唄、例えば
添田唖蝉坊(注8)の曲なんかも演奏しますが、三味線のための曲ではないので、他の楽器でも演奏しやすいんです。古くからの端唄はただの伴奏楽器としてじゃなく三味線と唄がつかず・離れず両方で成り立っているような部分があるので難しいんですよね」
注8:添田唖蝉坊/明治〜大正の演歌師(1872〜1944年)。90年代以降はソウル・フラワー・モノノケ・サミットが唖蝉坊の「ラッパ節」や「ああわからない」などをカヴァーしたことにより、“元祖レベル・ロッカー”として再評価された。
――民謡の場合、津軽など一部の地域を除いて“三味線は唄をバックアップするもの”という位置づけですよね。
「そうですよね。端唄の場合は三味線は独立したフレーズを弾いていながら、そこに唄が少しズレて入ってくる。そのなかにもリズムがちゃんとあるんですね」
――なるほど。あと、このインタビューを読んでいる人のなかには端唄と俗曲、新内の区別が付いていない人も多いと思うんですよ……僕も含めて。
「端唄/俗曲と新内の区別ははっきりしてるんですよ。三味線音楽は大まかに言って“歌物”と“語り物”に分けれられるんですけど、歌物には長唄や端唄、小唄など、語り物には新内節をはじめ清元(注9)、常磐津(注10)、義太夫節(注11)などが含まれます。語り物のほうは物語に節を付けたものですね。歌物は物語を語るものではなくて、長いものが長唄、短いものが端唄や俗曲と呼ばれます。確かにパッと聴いただけでそれが何に分類されるものなのか、ちょっと分かりにくいかもしれませんね」
注9:清元/清元節。江戸時代後期に生まれた三味線音楽で、歌舞伎の伴奏音楽として発展してきた。創始者は清元延寿太夫。
注10:常磐津/ときわづぶし。豊後節の分派として1747年に常磐津文字太夫が江戸で開流。
注11:義太夫節/江戸時代初期の成立。人形浄瑠璃や歌舞伎の伴奏音楽として受け継がれてきた。なお、以上の清元と常磐津、義太夫節、新内はすべて浄瑠璃のひとつとされる。
――俗曲は1曲が短いんですよね?
「短いですね。新内は30分ぐらいありますから。師匠からは“声を作るためには新内をちゃんとやらないとダメだ”って言われてたんですけど、最初“こんなのできるわけない!”って思ったんです。声も出ないし、師匠は細かい部分は一切口で説明してくれないし……“できるようになるんだろうか?”っていう実験を今も続けているような感じがしますね」
――小春さんはそのうち端唄や俗曲、新内を中心にやってるわけですが、昔から小春さんのようにいくつもの演目をやるものなんですか。
「今はあまりいないですが、五目の師匠と呼ばれるような、何でもやるような人もいたはずです。ウチの師匠にしても“これはどこどこの芸者さんに教わった唄なんだ。その人は清元も新内もなんでもできた”なんて言ってましたね。師匠はもともと新内の人で、子供の頃から新内をおじいさんにしっかり仕込まれて、その後、寄席の世界に入っていって、それから都々逸なんかを自分でようです。私はさっきも言ったように最初は〈縁かいな〉のような端唄を習ってたんですけど、そのあとはずっと新内を習っていました」
月琴を演奏する柳家小春
――それと、小春さんは三味線だけじゃなく月琴(注12)も弾かれますよね。月琴はどれぐらい弾いてるんですか?
注12:月琴/中国や日本、ベトナムに伝わる弦楽器。日本には長崎経由で全国へ伝わり大流行。坂本龍馬の妻、お龍も月琴を習っていたとされる。
「4、5年前からですね。月琴は中国から入ってきたもので、すごくおもしろい楽器なんですよ。〈さのさ〉(注13)は好きでライヴでもよく唄っていますが、この曲ってリズムがちょっと四拍子ぽいんですね。〈さのさ〉の元になったとされる〈法界節〉にも不思議な音の運びがあって、月琴はその〈法界節〉で使われていた楽器なんです」
注13:さのさ/さのさ節。明治30年ごろから流行。そのルーツとされる“法界節”もまた、幕末に流行した清楽の“九連環”を元にしている。
「昔から思ってたことなんですけど、明治以前の端唄や俗曲と現在の歌謡曲の間に鉄のカーテンみたいなものがあって、音楽的に分断されている気がしてならなかったんですよ。だいたい明治の流行歌と江戸のものにしても、そんなに時代は経過していないにも関わらず、かなり違う。それが〈法界節〉を聴いていたら、ちょっとピーンときたところがあったんです。“もしかしたら江戸の流行歌と現代の歌謡曲の間に、中国から入ってきた音楽が存在してたんじゃないか?”と」
――中国の音楽?
「そうそう。琴は明治時代にものすごく流行ったそうで、そのころ同時に明清楽(注14)っていう音楽も中国から入ってきたんですね。そのあと月琴が廃れちゃって、同じように明清楽も消えてしまった。でも、その音階の影響はどこかで残っていて、〈法界節〉にもそういう響きがあるんですよね。で、端唄や俗曲の時代と歌謡曲の時代の間に明清楽があったのかなあ、と。そうやって月琴に興味を持っていたら、月琴を研究してる人が都内にいることを発見したんですね。その星野さんという方は古道具屋さんにあったバラバラの月琴を修復したりしてるということで、すぐ連絡して譲っていただいたんですね。今の中国の月琴はもっと進化しちゃって、フレットがもっと増えてるんですね」
注14:明清楽/江戸時代初期〜中期に明朝から伝えられた音楽、明楽と、その後清国から入ってきた清楽の総称。
――月琴はなんの木で作られてるんですか?
「桐です。中には鋼でできた“響き線”が入ってるんですね」
――それが振動してビリビリというサワリみたいな音が出るんですね。この楽器、昔は法界屋(注15)が弾いていたそうですね。
注15:法界屋/“法界節”などを唄いながら街中を流す書生および書生崩れ。明治の中頃まで流行。
「そうですね。まずは中国から長崎に明清楽と一緒に入ってきて、そのうち法界屋さんが弾くようになって広まっていったそうです。さっきも言ったように月琴は明治時代にかなり流行ったみたいなんですけど、日清戦争を境に急激に廃れちゃった。国会図書館に行くと、月琴の教則本がたくさん残ってるんですよ。三味線はそういうものがなくて、基本的に口承で伝わってきましたけど、月琴はそういう本を観ながら自分で勉強してたんでしょうね。そういうこともあって爆発的に流行ったみたい」
撮影/本間直子
「音曲をやってる人間と一緒にやることってなかなかないじゃないですか。それでおもしろがって皆さん(月例会に)出てくれるんだと思います」
――なるほど。高円寺の円盤とライヴ会場限定で発売されている小春さんのアルバム『小春』についてもお聞きしたいんですが、これ、歌詞が入った手ぬぐいとセットになってるところがおもしろいですよね。
「おもしろいですよね。これはデザイナーの宮一紀さんのアイデアなんですよ。円盤の田口史人さんが円盤の他の作品も作ってる宮さんにお願いしてくれたんですけど、田口さんが“柔らかい感じがいいね”とおっしゃって、それをヒントに宮さんが形にしてくださいました」
――収録曲は普段のライヴでやってるもの?
「そうですね、一番スタンダードなものを選びました。師匠から教わったものであるとか、基本的なものが中心です」
――一番驚いたのは「両国」なんですよ。ラップみたいに早口で喋っていくパートがあるじゃないですか。あれも俗曲の一部なんですか?
「これは寄席の曲なんですよね。俗曲のなかにも寄席で演じられるものがあって、〈両国〉はそう。柳家枝太郎さん(注16)という人が作ったそうで、それを先代の橘家圓太郎さん(注17)という方がやっていたのをウチの師匠が教わって、二級酒2本で譲り受けたそうなんです」
注16:柳家枝太郎/1876年生まれの音曲師。1945年5月の東京大空襲によって死去。
注17:橘家圓太郎/噺家。「両国」を柳家紫朝に譲り渡したのは7代目(1901〜1977年)。
――昔はそういう風に特定のネタはそれぞれの専売特許だったんですか。今のように誰もが歌っていいものではなくて。
「橘家圓太郎さんは師匠に〈両国〉を教えたあと、ご自分ではもうやらなかったそうなんですよ。“お前にやる”っていうことだったと思うんです。ただ、今はそうきっちりしてなくて、一門みなやってますし、他の方もやってます。昔は“これはあの人がやってるから遠慮しておこう”みたいな無言のルールがあったんでしょうね」
――あのラップのパート、かなり長いですよね。
「しかもだんだん早くなっていきますからね」
――ああいう舞台芸みたいなものは他にもあるんですか?
「いやー、ああいうラップみたいなのは〈両国〉しかないかもしれませんね。あと、〈とっちりとん〉(注18)や〈たぬき〉みたいに三味線を派手に聴かせる曲なんかはありますけど。ウチの師匠は相撲の櫓太鼓を三味線で弾いていましたけど、寄席の場合はそういう風にいろいろ工夫するなかで生まれてきた芸も結構あると思います」
注18:とっちりとん、たぬき/江戸時代後期の俗曲。伝説の女流音曲師、立花家橘之助の十八番でもある。
――聞くところによると、この後もリリースを控えているそうですね。
「以前、
テニスコーツと一緒に〈明烏〉という新内を円盤でやったんですけど、それをたまたま録ってて。とても不思議な感じでおもしろい内容なので、それを出そうかと思ってます」
――それも1曲30分ぐらいあるんですか。
「いや、それは1時間もあるんです。田口さんから“テニスコーツと一緒に新内を”と言われたんですけど、新内は結構大変なんです。ちょっとした俗曲なら他の方ともぶっつけ本番でできるんですけど、新内はなかなかそうも行かないので……。でも、忙しくて何の打ち合わせもできないまま当日になっちゃったんですよ。そんな感じでいざ始めてみたら、すごく良かったんです。でも、そっちの音源はかなり変わってるので、そんなものを新内として出していいのか分からないんですけど(笑)」
――円盤では2007年から毎月月例会を開いていらっしゃいますが、毎回さまざまなゲストとコラボレーションされてますね。
「そうですね。ゲストの人選はほとんど田口さんにお任せしてるんですが、打ち合わせもほとんどしないで本番に臨む場合もあれば、前もってスタジオに入ることもあります。音曲をやってる人間と一緒にやることってなかなかないじゃないですか。それでおもしろがって皆さん(月例会に)出てくれるんだと思います」
――邦楽以外のミュージシャンと交流するようになったのは円盤以降?
「そうですね。円盤がなかったらやってないでしょうね。その前にホーメイをやりたくて
巻上(公一 /
注19)さんのところに習いに行ったりしてたので、そこでいろんなかたと出逢いましたけど、それまでは師匠の会や落語会、寄席に出たり、十数年間そのなかだけでしかやってなかったので、(邦楽以外のミュージシャンとの)接点もほとんどなかったんです」
注19:巻上公一/ヒカシューの創始者として70年代後半から活動を続ける一方、トゥバ共和国に伝わる喉歌のホーメイの研究者としても国際的に活動するミュージシャン。
――小春さんのようなスタンスの人は邦楽会にはあまりいないんですか?
「どうなんでしょうね。義太夫の太棹三味線の
田中悠美子(注20)さんは随分前からいろんなジャンルのミュージシャンとやってらっしゃいますね。田中さんとは円盤10周年イベントで3月31日に共演しますよ」
注20:田中悠美子/4世野澤錦糸に義太夫三味線を、竹本駒之助に義太夫節を師事。渡辺香津美、坂田明、大友良英、ジョン・ゾーンなど邦楽外のミュージシャンとのコラボレーションも多数。
[田中悠美子+柳家小春ら出演、「円盤」10周年記念企画]
〈方法の体〜主役は“楽器”です〜〉日程:3月30日(土)、31日(日)
会場:東京・渋谷「O-NEST」
時間:OPEN 16:00 / START 16:00
料金:ADV 2500 / DOOR 3000(ドリンク別)
※2日間通し券:3900(ドリンク代別)
※田中悠美子(太棹三味線、大正琴)+柳家小春(三味線、月琴)は31日に出演
■「円盤」
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