近年はプロデューサーとして注目の久保田麻琴だが、70年代には夕焼け楽団を率いてめざましい活躍をくり広げていた。ライヴでの彼らの豊潤な音楽はその場に居合わせた者に幸せな開放感を味あわせてくれた。ロックが自由を求める気持ちの発露だとすれば、彼らの音楽はまさにその体現だった。まだロックが商業的には認められにくかった時代に高く評価され、語り継がれてきたトリオ・レコードでの『サンセット・ギャング』『ハワイ・チャンプルー』『ディキシー・フィーバー』(2者には『メイド・イン・アイランド』つき)が最新マスタリングで再発されるのを機に、ご本人に思い出を語ってもらった。
――『サンセット・ギャング』はどんなふうにはじまりましたか。
「裸のラリーズと並行して、ドラムの正田(俊一郎)くんと吉祥寺のOZなどでセッションをはじめた。ベースのキンちゃん(恩蔵隆)とギターの洋ちゃん(藤田洋麻)が加わって、小さいライヴ・ハウスに何回か出演した。RCサクセションの前座でドラムレスでやったこともある。そのうちトリオの長能連さんから話があった。そのころにはケンちゃん(井上憲一)も一緒にセッションするようになっていた。1974年の5月か6月くらいにレコーディングが終わった。アルバムは10月に出た」
――アルバムは久保田さんのソロ名義ですが、歌詞カードのクレジットには夕焼け楽団の名前があります。
「73年夏の7月か8月かな。正田くん、キンちゃん、洋ちゃんと4人で石川県の白山のふもとの廃校で2週間くらい合宿した。そのとき夕焼けがめっちゃきれいで、練習をやめて校庭で夕焼け見みながら遊び呆けていたので、夕焼け楽団になった(笑)」
――タイトルの『サンセット・ギャング』はバンド名の翻訳ですか。
「そう。ライヴ・ハウスによっては久保田麻琴とサンセット・ギャングだったり、夕焼けバンドだったりしてたね。事務所もなかったんで、ゆるい感じだった(笑)」
――プロデュースは吉野金次さんと久保田さんですね。
「実質、吉野さんですね。吉野さんが渋谷の小劇場ジアンジアンの地下にヒット・スタジオを持っていた」
――いくつかのスタジオのほか、ライヴ・アット・ジアンジアンというクレジットも入っています。
「いまでいえば無観客ライヴです。聞き直すと、歌のトラックにバックの音が入っていて、歌も同時にやっていたことがわかります。まだそんなうまくなくて、ブルース・セッションみたいな形になったのかな。いまの言葉で言うと、ジャム・バンドみたいなものかもしれない。ブルース・ギタリストのレイジー・キム、彼のバンドの妹尾(隆一郎)ちゃん、井出(隆一)くんなどもOZで知り合った。ドラムの正田くんはその後デザイン会社の社長になりましたけど、当時は実験魂が強くて、向う側にいってたような感じで、レコーディングに向かない曲もあって、吉野さんに相談したら、松本隆を呼ぼうと。元はっぴいえんどのドラムが『サンセット・ギャング』を叩いてた」
――林立夫さんも入ってますね。
「〈小舟の旅〉〈ルイジアナ・ママ〉に関しては、吉野さんがまずアレンジで細野(晴臣)さんや矢野誠さんを呼んだ。林くんは細野さんと一緒にやってたからね。コーラスの(吉田)美奈子と(大貫)妙子も吉野さんが呼んだ」
――スパイダースの「バン・バン・バン」をニューオーリンズ / ボ・ディドリー風にやっていたのが新鮮でした。
「典型的なパブ・ロックですね。ヒッピーのスタイルって、固定観念を捨ててその時点で新鮮な好きなものを選ぶことだから。垣根を作る発想とかどのジャンルだからダサいとかという考えがもともとなかった」
――ジャケット・デザインが石丸忍さんです。
「OZのスポンサーの川内夫妻のところで知り合って頼んだら、ゴジラの絵を描いてきた。いまだったら東宝が許可しないですよね。石丸くんもすごいけど、トリオもユルかった(笑)」
Photo by 津田 充
――次が細野さんと共同プロデュースの『ハワイ・チャンプルー』です。
「『サンセット・ギャング』で細野さんとウマが合って、喜納昌吉の〈ハイサイおじさん〉をおみやげに持っていったら、他の人は誰も喜ばなかったけど、細野さんはショックを受けて、『ハワイ・チャンプルー』への流れができてきた。ハワイに行く前に八ヶ岳の別荘で合宿しました。ペダル・スティールのコマコ(ガース駒沢)が入った理由は、グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアがペダルスティール弾くのがいいなというような感覚だったかもしれない。ピアノの国府(輝幸)くんはぎりぎりにパスポートがとれて、羽田にビーチ・サンダルと短パンで来た(笑)。〈初夏の香り〉は大学でボサ・ノヴァ・バンドをやってたときに作った曲で、ハワイに行った勢いでやってみるかと」
――「ハイサイおじさん」のアレンジはどんなふうに。
「細かなところは覚えてないけど、〈てぃんさぐの花〉を引用したり、〈スティール・ギター・ラグ〉の前に〈ビヨンド・ザ・リーフ〉をつけたりしたのは、たぶんコマコが現場で出したアイディアじゃないかな。このときはまだ作者の喜納昌吉には会ってない。75年の沖縄のカウントダウンで、コンディション・グリーンと紫の間にはさまれて夕焼け楽団が出演したとき、はじめて沖縄で〈ハイサイおじさん〉をやったんですが、終わってから彼に会った。彼に“名曲だね。世界的になるよ”って言ったのを覚えている」
――「ウォーク・ライト・イン」や「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」はフォーク時代からのレパートリーですか。
「学生時代からやってた曲ですが、夕焼けでやるのもいいなと。ラヴィン・スプーンフルがお手本だった。彼らはエレキ・バンドだけど、ジャグ・バンドぽいところがあったでしょ」
――ジャケット・デザインのアイディアは?
「コマコが描いた絵とぼくのアロハの柄をクイックフォックスにいた田中汪臣さんがデザインした。門の絵はハワイのスタジオの通り一本隔てたところにあったハワイ初の中国式教会の門」
Photo by 小川よしのぶ
――『ディキシー・フィーバー』ではバンドがタイトになり、南部のロックなところも感じます。
「イーグルスのコンサートを見た影響もあったな。なるほど、ぼくらもかっちりしたバンドらしい音にしなくちゃと。それでもドラムはいなかったんだけど(笑)。75年ごろからコンサートの数も増えて、エリック・クラプトンの前座をやったんです。武道館のときはアンコールも受けた。担当のミキサーさんから後に聞いた話では、引っ込めコールじゃなくてアンコール受けたのは前座史上はじめてだと、プロモーターのウドーさんに褒められたって(笑)」
――アメリカのミュージシャンも参加しましたね。
「このときは『ラグーン』の鈴木茂チームと夕焼け楽団でひとつのスタジオを昼夜使い回してたんだ。6時間ずつ。細野さんは両方ともプロデュースだから12時間。茂くんチームに林くんがいるので頼もうと言ってたら、林くんが熱を出して全部は手が回らなくて、トラヴィス・フラートンに頼んだ。彼はその後MTVの副社長になった。正田くんからはじまって夕焼け楽団のドラムはみんな大成功してるんだ(笑)。ロニー・バロンは茂くんがデイヴ・グルーシンを呼びたいとコーディネーターに相談したら、デイヴは空いてないけど、ロニー・バロンなら空いてると言われたのを耳にして、ドクター・ジョンと一緒にやってた奴だ、夕焼けに呼びたいと言って2日後に来てもらった。ま、そんなふうに、夕焼け楽団はフラフラやってたわりには、ラッキーとアンラッキーの狭間を独特のやり方で歩むことができたように思いますね」
取材・文/北中正和