5月23日

モーグ・シンセの生みの親、ロバート・モーグ博士が誕生
ロバート・モーグ / 1934年)
モーグ・シンセサイザーを発明したロバート・モーグ博士が、米国ニューヨークに生まれる。実はテルミンも彼の手による電子楽器で、10代の頃に発明したんだとか。さまざまな大学で理学士の博士号を取ったインテリで、22歳の時には自分の会社を設立していた。60年代からモーグ・シンセはミュージシャンに重宝され、数々の名作にフィーチャーされている。ちなみに、30代以上の方は“ムーグ”として馴染んできたと思われるが、モーグが正しい発音だとのこと。
−2006年04月24日作成−
作詞家のサトウハチローが誕生
サトウハチロー / 1903年)
作詞家・作家のサトウハチローが東京都に生まれる。本名は佐藤八郎、父親は作家の佐藤紅緑。その名を知らずとも、彼の作った並木路子の「リンゴの唄」、童謡の「ちいさい秋みつけた」の歌詞は、日本人ならば誰もが覚えているはずだ。叙情的な作風は古き良き日本の姿を映しているかのようで、ファンも多い。ただ、本人は一筋縄ではいかない性格だったらしく、父親の女性関係に起因する非行にはじまり、晩年も放蕩癖は有名だったとか。73年に死去。
−2007年04月26日作成−
Great3の片寄明人が誕生
片寄明人 / 1965年)
Great3の片寄明人が誕生個性派バンド・Great3のVo.片寄明人が東京都に生まれる。高桑圭、白根賢一とともに'94年にバンドを結成、翌年「Fool&The Gang」でデビュー。片寄はほとんどの曲の作曲・作詞を担当。独特の暗く、女々しくも男の精神を的確に表わした詞や、ビーチボーイズ的サウンドで熱狂的ファンが急増。その後、プロデュースも手がけたショコラと結婚し、Great3の楽曲にも変調が見られている。
−2001年04月23日作成−
笑顔が素敵なリーダー、ウルフルケイスケ誕生
ウルフルケイスケ(ウルフルズ) / 1965年)
ウルフルズのリーダー・ウルフルケイスケ、大阪府吹田市に生まれる。バイト先の喫茶店でトータス松本と出会い、セッションを通じてバンドを結成。その後一緒に働いていたジョン・B・チョッパーと、ただの観客だったサンコンJr.が加わり、'92年デビューを果たす。〈スマイル〉というあだ名がつくほど、いつもニコニコ素敵な笑顔。根っからの大阪人であるケイスケ氏の好きな食べ物は、たこ焼き、お好み焼き、うどん。彼いわく、「東京のたこ焼きでおいしいのに出会ったことがない」とか。
−2002年04月24日作成−
ロージーことローズマリー・クルーニー誕生
ローズマリー・クルーニー / 1928年)
ロージーことローズマリー・クルーニー誕生ジャズシンガー、ローズマリー・クルーニー、米国ケンタッキー州メイヴィルにて生まれる。'45年、妹ベティとクルーニー・シスターズの名で歌手デビュー。'49年からソロシンガーとなり、'50年代には「カモナ・マイ・ハウス」が大ヒット、人気歌手となる。同曲は日本では江利チエミがカヴァー、日本語で軽快に歌ってヒットさせた。ちなみに、同曲はばかばかしい内容だったため、クルーニー自身歌うのを嫌がったが、プロデューサーのミッチ・ミラーに強要されて歌ったとか。
−2003年04月25日作成−
声優の飯塚昭三が生まれる
飯塚昭三 / 1933年)
声優の飯塚昭三が生まれる1933年、声優の飯塚昭三が福島県に生まれる。数多くのアニメーション作品、特撮作品に携わるベテラン声優。低音の利いた声質で、主に悪役や怪人、地位の高い役を演じる名バイプレーヤーとして活躍。特に、“戦隊”シリーズの怪人や、一連の“宇宙刑事”もの、『巨獣特捜ジャスピオン』、『機動刑事ジバン』といった“メタルヒーロー”シリーズの“首領”役で人気が高い。声優養成所の講師として、後進の育成にも力を注いでいる。
−2009年05月20日作成−
映画『影武者』がカンヌ国際映画祭でグランプリ獲得
黒澤明 / 1980年)
映画『影武者』がカンヌ国際映画祭でグランプリ獲得1980年公開の黒澤明監督『影武者』がカンヌ国際映画祭グランプリを獲得。黒澤を敬愛するフランシス・フォード・コッポラ、ジョージ・ルーカスが外国版プロデューサーに就任した。主演を演じる予定だった勝新太郎が撮影直後に監督と衝突し降板、『乱』の主演が内定していた仲代達矢を武田信玄役として起用。山崎努、萩原健一、大滝秀治と豪華出演陣のほかに、当時無名だった電撃ネットワークの南部虎弾、山田五郎などがエキストラとして出演している。
−2007年04月25日作成−
ビートルズ365:ジョージ、ダーク・ホース・レーベル設立。
ザ・ビートルズ / 1974年)
ビートルズ365:ジョージ、ダーク・ホース・レーベル設立。ジョージ、ダーク・ホース・レーベルを設立し、ロサンゼルスにオフィスをかまえ、A&Mレコーズと契約。条件はEMIとの契約が終了後ダーク・ホースへ移籍し、アーティストを積極的に提供すること。74年9月、レーベル第1回目の作品としてスプリンターとラヴィ・シャンカールのアルバムが発表された(2枚ともにジョージのプロデュース)。しかし、76年7月にEMIとの契約が切れたジョージは、A&Mと交わした契約の1つ(自身のアルバム制作)を遂行することができず、A&Mに違約金を請求される。そこでジョージは違約金の肩代わりを条件にワーナーにレーベルごと移籍。以降ワーナーからすべての作品が配給されることになった。
−2006年04月24日作成−
※ 掲載記事は基本的に作成時の内容のまま掲載しております。作成後に生じた動向、および判明した事柄等は反映しておりません。
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