TOP
ニュース
リサーチ
インタビュー
CDJ WEB SHOP
連載
検索
CDJ_staff
CDJ_audio
新刊案内
10月3日
R&R黎明期のスター、エディ・コクランが誕生
(
エディ・コクラン
/ 1938年)
「カモン・エヴリバディ」「サマータイム・ブルース」などで知られるロックンローラー、エディ・コクランが米国ミネソタ州に生まれる。従兄弟のハンクとともに“コクラン・ブラザーズ”として活動を開始したのは17歳の頃。50年代後半に数々のヒットを飛ばした、ロックンロール黎明期を代表するミュージシャンのひとりだ。先述の2曲は様々なアーティストがカヴァーしており、コクランの名を知らずとも楽曲を聴いたことはあるはず。60年、21歳の若さで死去している。
−2007年09月27日作成−
史上最もハデなドラマー、トミー・リーが誕生
(
トミー・リー
/ 1962年)
モトリー・クルーのドラマー、トミー・リーがギリシャに生まれる。すぐに米国カリフォルニアに移住し、初めてドラムに触れたのは4歳の時だったとか。本格的にドラマーを志したのは10代になってからで、キッスやレッド・ツェッペリンでロックに目覚めたという。ドラマーというと地味な印象がなきにしもあらずだが、この人は完全に別格。80年代には、空中で360度回転するドラム・キットをライヴで用い、ファンを仰天させたのは有名な話だ。
−2006年09月28日作成−
大沢誉志幸が誕生
(
大沢誉志幸
/ 1957年)
大沢誉志幸、東京都杉並区高円寺に生まれる。高校生のときに結成したR&Bバンドは〈コンテスト荒らし〉の異名をとり、プロ・デビュー後は沢田研二の「おまえにチェックイン」、中森明菜の「1/2の神話」などのヒット作を手がけて依頼が殺到。1984年の「そして僕は、途方に暮れる」は、カップラーメンCMとの相乗効果で大ヒットした。99年に一旦シンガーとしての活動を停止した大沢。そのラスト・ライヴではアンコールが4回も起こり、照明が明るくなってセットが解体されても誰1人会場を出ようとしなかったという。その後、2001年に復活を果たしている。
−2000年09月26日作成−
九段下の駅を降りて坂道を……日本武道館開館
(
日本武道館
/ 1964年)
武道の殿堂・日本武道館が開館。武道館を有名にしたのは、東大入学式でも24時間テレビでも、はたまたディープ・パープルやチープ・トリックの伝説のライヴでもなく、やはり'66年6月29日のザ・ビートルズ来日公演。当時、皇室の関係もあって批評家や政治家からは猛反対。1階は警官隊のみで、2階の客も立ち上がることを許されずに計6520人もの若者が補導された。その嵐の過ぎ去った現在、武道館では年間約110のコンサートが行なわれている。
−2001年09月26日作成−
バックストリート・ボーイズのケヴィンが誕生
(
ケヴィン(バックストリート・ボーイズ)
/ 1971年)
バックストリート・ボーイズの、ケヴィン・スコット・リチャードソン、3人兄弟の末っ子としてケンタッキー州に生まれる。グループ内で最年長であるケヴィンは、厳格なクリスチャンの両親の元、何不自由なく育ち、社交ダンスのインストラクターの資格なども取得。そして、'93年ディズニーワールドでアラジン役を演じていたところを、才能ある新しいメンバーを探していた、同グループ(当時はニック、AJ、ハウィー・Dの3人)に誘われ、従弟のブライアンとともに参加することとなったのであった。
−2002年09月27日作成−
『ちびまる子ちゃん』 友蔵心の俳句でおなじみ、さくら友蔵誕生
(
富山敬
/ 1898年)
アニメ『ちびまる子ちゃん』の登場人物。主人公・まる子の祖父。1898年10月3日生まれ(作品上は76歳の設定)。まる子は自分の一番の理解者だと思っているが、実際は脳天気でまる子にとても甘いだけ。よく勘違いを起こすがなぜか憎めない。何かあることに心の中で俳句を読む。山口百恵がまる子と共に大好きでテレビで応援しているシーンがたびたび目撃される。原作者の祖父をモデルとしているが、実際は作者の「理想のおじいちゃん」を描いたものである。声優は初代富山敬、現在は青野武。
−2008年10月02日作成−
映画『サイレン』がクランクアップ
(
堤幸彦
/ 2005年)
人気ホラー・アドベンチャー・ゲーム「サイレン」を、ドラマ『ケイゾク』『トリック』で知られる堤幸彦が市川由衣主演で映画化。孤島を舞台に、サイレンの音とともに訪れる恐怖を描く。テーマ曲を石野卓球が担当。
−2007年09月28日作成−
ビートルズ365:ポール、「ロケストラ」のレコーディングを行なう。
(
ザ・ビートルズ
/ 1978年)
ロックとオーケストラの融合という、ポールが長年温めていたアイデアを実現した「ロケストラ」のレコーディングが行なわれた。 ポールが自ら電話してミュージシャンを誘い、セッションにはピート・タウンゼンド、デイヴ・ギルモア、ジョン・ボーナムら総勢23人が参加。エンジニアのマイク・ヴィッカーズはレコーディングをこう回想する。「1週間前になって撮影もあると知らされた。ポールは懸命に、カメラは見えない位置に置いてほしいと言ったんだけど、そうもいかなくて。映画会社はいろんな高さでカメラ用の仮設の壁をスタジオの端に作ったから、ラインを臨時で引いて。全部で約60本のマイクを使わないといけなかったし、レコード用と映画のサウンドトラック用に24トラックのテープ・マシンが2台ずつ必要だったし。スペースの関係で、それぞれのドラムにはマイク4本つけるのがやっと。できるだけのことをするしかなかったけれど、そのわりにはよくやったと思う」
−2006年09月28日作成−
※ 掲載記事は基本的に作成時の内容のまま掲載しております。作成後に生じた動向、および判明した事柄等は反映しておりません。
他の日を見る
翌日をみる
前日をみる
今日に戻る
ページを戻る
前のページに戻る
TOPに戻る
Copyright © CDJournal All Rights Reserved.
[ 会社案内 ]