ポップス職人、ドナルド・フェイゲンが誕生
スティーリー・ダンをはじめ、ソロとしても成功を収めているドナルド・フェイゲンが米国ニュージャージーに生まれる。71年にウォルター・ベッカーとともにグループを結成、後に2人のプロジェクトとして大成功を収める。80年代に入るとソロとしても才能を発揮。82年の1stソロ『ナイトフライ』はリリース当初から高い評価を獲得し、後年も名盤として親しまれることになった。どことなくジャズっぽい雰囲気も漂わせる、洒落たポップ・センスは天才的だ。
−2006年12月26日作成−
マイケル・シェンカーが誕生
“神”の異名を取るギタリスト、マイケル・シェンカーがドイツに生まれる。彼のトレード・マークといえばフライングVだが、そのギターを手にしたのは、兄のルドルフが家に持ってきたことがきっかけだそうだ。スコーピオンズの一員としてデビューを果たしたのは、弱冠16歳の時。その後、UFO加入のために渡英した時点でもまだ10代だった。この頃の孤独感が後の不安定な精神状態に影響している、との声もある。が、そのプレイの素晴らしさは誰もが認めるところだ。
−2007年12月18日作成−
ロッド・スチュワートが誕生
ロッド・スチュワートがロンドンに誕生。サッカー選手を目指しプロのチームと契約したが、ベンチの日々が続きミュージシャンへ転向。67年にジェフ・ベック・グループへの加入以降、グループとソロの両方で活動し、71年のソロ作『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』で不動の地位を築く。「スタイルは金じゃ買えない。オレはわずかだが自分のスタイルを持つことができた。それは違ったものを見つけたいと努力したからだろう。ほかの誰とも違ったものをね」。だがロッドは、スタイル以上に脂肪も持ち合わせてしまったようだ。
−2000年12月22日作成−
MY LITTLE LOVERのAKKO、誕生
'01年2月の「shooting star」で、約2年半ぶりに活動を再開したMY LITTLE LOVERのVo.Akko(本名:小林〈赤松〉亜希子)、東京都に生まれる。5歳からピアノをはじめ、小学校ではモダンバレエ、中学校では新体操に打ち込む。その後、国立音楽大学音楽部教育学科に現役合格し、大学4年の時、ミュージカル女優を目指してオーディションを受けた際にプロデューサーの小林武史に見い出され、デビューに至った。'95年に小林武史と結婚。主婦業もバリバリやってるようで、得意料理は筑前煮。
−2001年12月25日作成−
TOKIOの山口達也が誕生
TOKIOのB.山口達也が埼玉県に生まれる。男3人兄弟の次男で、視力は両眼2.0。好きな食べ物はラーメン&チャーハン。好きな言葉は「命がけ」……と、すべてがアツいTOKIOの兄貴的存在だが、慢性的な風邪っぴきという弱い一面も。'88年10月にジャニーズ事務所に入り、少年隊のバックバンドとしてデビュー。TOKIOのなかでも、『長男の嫁』『フレンズ』『同窓会』とドラマへの出演数は多く、役者にもっとも近い男と言える。色恋沙汰で騒がしい他メンバーの相談役にもなっているとか。
−2002年12月25日作成−
サンライズのヒューマンコメディ『ママは小学4年生』放送開始
ロボット・アニメの印象が強いサンライズが手がけたヒューマンコメディ『ママは小学4年生』の放送が開始される(1992年1月10日)。同年12月25日まで日本テレビ系にて全51話を放送。小学4年生の少女の前に、15年後に生まれる自分の赤ちゃんが突然タイムスリップしてくる……という設定とシナリオが当時評判に。天真爛漫な赤ちゃんに振り回される人々を描いたコメディなのだが、主人公のなつみが直面する問題は、どれも普通の母親が直面するものばかりで、劇中では育児に関する豆知識やアドバイスも盛り込まれている。監督は『魔動王グランゾート』『魔神英雄伝ワタル』の井内秀治。
−2009年01月05日作成−
どーかひとつ!ながーい目で見てください!小松政夫が生まれる
コメディアン/俳優の小松政夫が福岡県で生まれる。植木等の付き人を経て『シャボン玉ホリデー』でデビュー。伊東四朗との掛け合いで、「電線音頭」「しらけ鳥音頭」などのヒット曲を生み出し、コメディアンとしての人気を確立、“どーかひとつ”“ながーい目で見てください”などの名フレーズを産出している。80年代以降は俳優としても活躍、コメディからシリアスな役柄までこなす、確かな演技力は高い評価を得ている。
−2008年01月07日作成−
ビートルズ365:ポールとジョージがレコーディング中に大喧嘩し、ジョージは一時グループを脱退。
ゲット・バック・セッションのさなか、ジョージがビートルズを一時脱退。理由はポールとの衝突が原因と言われている(ジョンとの衝突が原因とも)。ジョンはジョージがスタジオを去った後、ザ・フーの「クイック・ワン」(タイトルを訳すと:彼がいない間に早くやってしまえ)を演奏したり、「戻ってこなければクラプトンを入れればいい」と発言したり、かなり攻撃的な姿勢をとっていた。15日にジョージはテレビ番組制作のセッションをアルバムと映画制作に変更することを条件にバンドに復帰した。
−2006年03月08日作成−
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