カート・コバーン、自ら命を絶つ
ニルヴァーナの中心人物、カート・コバーンが散弾銃で自殺した。享年27。一介のアンダーグラウンドな存在だったバンドが瞬く間に世界的な人気を獲得し、自らの発言は望まなくとも大々的に報じられ、キッズからはヒーローとして崇められる……。そんな状況の急変に耐えられなかった彼のドラッグ癖は有名だったが、人気絶頂期の自殺はあまりにもショッキングだった。悲劇・伝説とされる一方、自ら命を絶ったことは美化するべきではない、という声もある。
−2006年03月29日作成−
超売れっ子プロデューサー、ファレルが誕生
ヒップホップ/R&B界の売れっ子プロデューサーにして、N.E.R.D.やソロとしても活躍するファレル・ウィリアムスが米国ヴァージニア州に生まれる。ネプチューンズでの盟友、チャド・ヒューゴとは中学生の頃に出会い、お互いマーチング・バンドに在籍していたそうだ。当時、ファレルの担当はスネア・ドラム。多数のプロデュース作品、一筋縄ではいかないN.E.R.D.の音楽性などからもわかる通り、才能の塊のような男で、デザイナーまでこなしている。
−2007年03月28日作成−
スピッツが「ロビンソン」を発売に
スピッツの超ロングヒット曲「ロビンソン」が発売。91年にメジャー・デビューし、一部で注目を浴びつつもセールス的には芳しくなかった彼らが、同曲でやっとミリオンを達成、大ブレイクに至る。同曲は、一応テレビ番組(『今田耕司のシブヤ系うらりんご』)とのタイアップであったが、まったくそれとは関係なく発売して少し経った頃から、有線・ラジオを通じてゆっくりとチャートを上昇。結局一度もトップにはならないままであったが、確実に売れ続けミリオンセラーに至った。
−2001年03月26日作成−
渡り鳥ドラマー、コージー・パウエルが自動車事故で死去
大御所バンドを転々としたドラマーのコージー・パウエル、愛車を時速145kmで運転中に事故を起こし即死。50歳だった。ジェフ・ベックに見初められ、彼のグループに在籍。その後レインボーでハード・ロック・ドラマーとして不動の地位を築き、マイケル・シェンカー・グループ、ホワイトスネイク、エマーソン・レイク&パウエル、ブラック・サバスなどのグループを渡り歩いた。コージーのスピード狂は有名で、他のメンバーが飛行機で移動するところを自分だけ車で移動し、しかも飛行機組より早くホテルに到着したこともあったという。
−2002年03月27日作成−
永遠不滅のバンド、BOΦWY東京ドームにて解散
今なお伝説として語り継がれる最強のロックバンドBOΦWYが解散。ヴォーカルの氷室京介とギターの布袋寅泰という二人のカリスマにドラムの高橋まこと、ベースの松井常松の4人で結成。'80年代爆発的な人気を誇り、BOΦWYの名は日本中を席巻した。しかし、人気も絶頂の'87年に解散宣言を出す。理由については、氷室と布袋の音楽観の違いや仲が悪化したという説、何を出しても売れる状況に納得いかなかった説など。氷室がBOΦWYで全てを出し切ったため、違う刺激が欲しくなったという説もある。
−2003年03月25日作成−
漫画家の鳥山明が生まれる
1955年4月5日、漫画家の鳥山明が愛知県に生まれる。80年代?90年代の「ジャンプ黄金時代」を支えた最大の立役者。代表作は、「んちゃ!」「バイちゃ!」などの“アラレ語”を大流行させた『Dr.スランプ』、コミックの総売り上げが全世界で3億5000万部を超えるという国内外で絶大な人気の『ドラゴンボール』。いずれもTVアニメ化され、国民的アニメとして今もなお高い人気を誇る。なお、鳥山明は「ドラゴンクエスト」シリーズをはじめとするゲームのキャラクター・デザインも手がけている。
−2009年03月31日作成−
ブラピとジョリーの出会いのきっかけ? 映画『Mr.&Mrs.スミス』がDVD化
ハリウッドのトップを走るブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーが夫婦役で共演した、意外とコメディ寄りな作品。これにより二人の仲は親密に、そしてめでたくゴール・イン。劇中では結婚から数年、倦怠期を経てお互いの秘密を知り壮絶なバトルが繰り広げられるが、実生活ではそんなバトルもないようで、世界中行く先々でラヴラヴぶりを発揮している。
−2007年03月30日作成−
ビートルズ365:ビートルズ・ファン・クラブ発足。
ブライアン・エプスタインはビートルズ・ファンクラブをリヴァプールのキャヴァーン・クラブにて発足。ファンクラブ発足当日に届いた手紙はわずか2通だった。ファンクラブは63年8月から『ビートルズ・マンスリー・ブック』を発刊、また63年から69年にかけて毎年クリスマス・レコードを無料配布した。72年2月8日にファンクラブは正式に解散。イギリス国内では最盛期には10万人の会員がいた。ファンクラブは海外にも40ほどの支部があり、日本でも64年8月に発足されたファンクラブが66年7月に日本支部として認められた。最盛期には8000人もの会員がいた。
−2006年04月01日作成−
※ 掲載記事は作成後に生じた動向、および判明した事柄等は反映していない場合があります。