“サディスティック・ロックの女王”、スージー・クアトロが誕生
女性ロッカーの元祖、スージー・クアトロが米国デトロイトに生まれる。父親がジャズ・ミュージシャンだったとのことで、幼い頃から音楽的環境には恵まれていたようだ。70年代初頭にジェフ・ベックを手掛けた敏腕マネージャー、ミッキー・モストの目に留まりデビュー。ベースを掻き鳴らし、ワイルドに唄う様は男勝りの迫力に溢れており、1stアルバムのとんでもない邦題『サディスティック・ロックの女王』も納得? 当時は日本でも大人気を博した姉御である。
−2006年05月26日作成−
モット・ザ・フープルのイアン・ハンターが誕生
モット・ザ・フープルでの活動で知られるシンガー、イアン・ハンターが英国オスウェストリーに生まれる。本名はイアン・ハンター・パターソン。彼の音楽キャリアがスタートしたのは、とあるホリデイ・キャンプで、バンドをやっていた2人の人間と偶然出会ったことがきっかけだったという。50年代後半から本格的にミュージシャンとして活動し、数々の苦難を乗り越え、モットで成功したのは70年代。決して上手いシンガーではないが、いかにも英国的な声を持っている。
−2007年05月29日作成−
スペインの名ギタリスト、アンドレス・セゴビアが死去
20世紀のギター音楽の土台を築いたスペインのギタリスト、アンドレス・セゴビアがマドリード市内で死去。94歳だった。ギターを愛し、愛好家たちへの指導も惜しまなかったスペインの国民的英雄は、14歳で初舞台を経験。さまざまなクラシック曲をギター用に編曲する発想は“ルネサンス”とまで呼ばれていた。初来日は“ギターの黒船が襲来”と称され、後の昭和の大作曲家、故古賀政男も大いに影響を受けたという。
−2001年05月25日作成−
豪華生活でリフレッシュ、貴水博之誕生
元accessのhiroこと貴水博之が埼玉県に生まれる。'92年にソロで音楽活動をしていた浅倉大介と出会い、ゲスト参加する形でaccessを結成。「シンクビート」と名付けた打ち込み中心のメロディ&ハイトーン・ヴォイスで注目を集める。'94年の紅白歌合戦で活動休止してからは、ジャマイカでプール&メイド&庭師付きのゴージャスな生活を送っていた貴水。帰国後はソロ活動を中心に行ない、ライヴやミュージカル、Vシネマ出演と多方面に活躍している。
−2001年05月25日作成−
死の間際までラヴ&ピース。カーティス・メイフィールド、誕生
多くのミュージシャンに愛され続けたシカゴ・ソウルの重鎮、カーティス・メイフィールド、シカゴに生まれる。独特のハイテナー・ボイスと、ラブ・ソングやメッセージ・ソングの書き手として常に観客を魅了し、'70年代のニュー・ソウル運動の中心人物となったカーティス。しかし'90年8月、リハーサル中に照明が落下し、半身不随の重傷という悲劇が発生。一時は音楽活動を停止するも、'96年にカム・バック。その後'99年の他界直前まで、ラブ&ピースを忘れなかったカーティスを慕うミュージシャンは今でも多い。
−2002年05月27日作成−
元ミス原宿、元L-Rの嶺川貴子生まれる
中学時代は「ミス・原宿」に選ばれた経歴をもつ嶺川貴子が誕生。大学時代に音楽に目覚め、デュオのメンバーとして活動開始。彼女が知られるようになるのは、コーラス参加をきっかけに加入したL-Rからだろう。紅一点として、ファースト・アルバムの『Lefty in the Right〜左利きの真実』から参加。'94年に脱退し、翌年にソロ・デビュー。コーネリアス(小山田圭吾)によるプロデュース作も記憶に新しく、その後、彼の夫人に。なおL-Rは、彼女の脱退後の'95年5月「KOCKIN' ON YOUR DOOR」で大ブレイクを果たした。
−2003年05月27日作成−
アニメ『はいからさんが通る』の放映が始まる
(1978年)
『週刊少女フレンド』で連載されていた大和和紀の作品をアニメにした。大正時代を舞台に幕府の旗本の子孫である花村紅緒と公家から華族となった伊集院家の跡取りである伊集院忍との出会いが繰り広げられる。主人公の紅緒は当時では珍しい自転車通学をしていた「はいからさん」だった。79年3月31日まで全42話放送されたが、物語は完結せず中盤で打ち切りとなってしまった。
−2008年05月29日作成−
計算されたカメラワークと美しい画で魅せる映画監督、アラン・レネ誕生
映画監督のアラン・レネが生まれる。『ヴァン・ゴッホ』『ゲルニカ』等の美術映画から出発、1961年の映画『去年マリエンバードで』で最高の表現に達した。長い廊下を動いていくカメラの視点や、左右対称のフランス式庭園を映したカットなどは、モノクローム映画史上最も美しい作品と言われている。アウシュヴィッツ収容所の過去と現在を対比させながら、戦争犯罪を訴えた短編ドキュメンタリー『夜と霧』も代表作の一つとして名高い。
−2007年05月22日作成−
ビートルズ365:リンゴ、扁桃腺炎の悪化により入院
午前中のフォト・セッションの最中、リンゴが体調不良を訴え病院に向かうと、扁桃腺炎の悪化のために入院を余儀なくされた。そのため、翌日からのツアーにリンゴは参加不可能となり、急遽セッション・ドラマーのジミー・ニコルが呼ばれた。この日の予定は変更され、ジミーを含めたリハーサルを行ない、午後5時半からジョン、ポール、ジョージの3人はデモ・テープ制作を開始。67年に発売されたアルバム『サージェント・ペパーズ・・・』に収録されている「ゲッティング・ベター」は、ジミーがこのワールド・ツアーの最中に発した言葉「だんだんよくなってくるよ」がきっかけのひとつとなって作られている。ちなみにジミーは66年、スプートニクスのメンバーとして来日を果たしている。
−2006年05月26日作成−
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