兄とは一味違う味、エドガー・ウィンターが誕生
エドガー・ウィンターが米国テキサス州に生まれる。兄はブルース・ギタリストのジョニー・ウィンター。もともとは兄と音楽活動をはじめ、サックスやキーボードをプレイする。70年にソロ・デビューを飾ると、ジャズやR&Bの要素も注入したサウンドを聴かせ、兄とはまた違った評価を受けた。エドガー・ウィンター・グループではあのリック・デリンジャーを擁してチャート的にも成功、70年代のアメリカン・ロック・シーンを語る上では欠かせない重要人物である。
−2006年11月28日作成−
リチャード・クレイダーマンが誕生
ピアニストのリチャード・クレイダーマンがフランスはパリに誕生。6歳でピアノをはじめ、パリ音楽院に12歳で入学を認められた天才である。卒業後はセッション・ミュージシャンとして活動し、76年に「渚のアデリーヌ」でデビュー。この曲は欧州からやや遅れて日本でもヒットし、80年に化粧品のCMに使用された「愛のコンチェルト」でその人気が確立した。クラシックの素養を得ながらも、一般層に受け入れられるポピュラリティも持った才人である。
−2007年11月28日作成−
吉井和哉がTHE YELLOW MONKEYに加入
吉井和哉、THE YELLOW MONKEYに加入。イエモンは以前から存在していたが、本田恭章に似ていたという証言もある当時の吉井は、いくつものバンドを経てイエモンに出会う。当初べーシストだった吉井は、『ジギー・スターダスト』のビデオでデヴィッド・ボウイがレスポールをかきむしる姿に感動。いてもたってもいられなくなって100万円以上もするベース機材を売り飛ばし、ギタリスト兼シンガーを務めるようになったという。絶大な人気を誇った彼らの活動停止(2001年1月)が残念でならない。
−2000年11月29日作成−
ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンが水死
不滅のサーフ・ミュージック・バンド、ビーチ・ボーイズのドラマーであるデニス・ウィルソン、マリーナ・デル・レイの沖合いでサーフィン中に水死。事故当初、デニスは酒に酔っており、葬儀は海を愛したデニスにふさわしく水葬だった。1961年、当時オリジナル曲のなかった彼らはグループ内で唯一サーフィンをするデニスの発案により、その名もズバリ「サーフィン」という曲を書き上げレコード会社に持ち込み、リリースが即決定。その後のバンドの輝かしい未来が幕を開けることとなった。
−2001年11月26日作成−
俳優業も板についてきた? トータス松本、誕生
『竜馬の妻とその夫と愛人』でスクリーンデビューも果たした、ウルフルズのトータス松本、兵庫県に生まれる。小学校の時は、でしゃばりすぎて皆に嫌われたこともあったらしい。専門学校卒業後、喫茶店のバイトで出会ったウルフルケイスケに誘われバンドを結成。'92年にデビューするも不遇の時代を送り、「ガッツだぜ」で大ブレイク。しかし、その後やや売り上げに翳りが見え始めるも「明日があるさ」で、再びブレイクした。
−2002年11月25日作成−
スパイダーマンの生みの親、スタン・リーの誕生日
“超人ハルク”、“X-メン”、“スパイダーマン”……誰もが知るアメリカン・コミック・ヒーローたちを生み出したスタン・リーが1922年、ニューヨークに生まれる。1962年、完全無欠のヒーローによる勧善懲悪ストーリーが主流の中、“普通の青年”ピーター・パーカーを主役に据えた「スパイダーマン」をマーヴェル・コミックスより刊行。アメコミ界に新風を吹き込む。“苦悩を抱える主人公”“ダーク・ヒーロー”といった現代のアメコミ像はスタンなくしてはあり得ない。作品のほとんどが映画化/アニメ化されており、ここ日本でも放映されたもの、また日本オリジナル作品が制作されたものも多く、高い人気を誇る。
−2008年12月12日作成−
『芋たこなんきん』藤山直美が生まれる
“あほの寛ちゃん”こと昭和の大スター・藤山寛美の娘、藤山直美が大阪府に生まれる。『おんなは度胸』『大阪で生まれた女やさかい』で一気に認知度は広まり、阪本順治監督作品『顔』(2000年)では数々の映画賞を総なめ。2006年の連続テレビ小説『芋たこなんきん』では最年長の主役を射止める。芝居に対する真摯な姿勢は、父親ゆずりの“芸人魂”を感じさせる。
−2007年11月30日作成−
ビートルズ365:BBCテレビにて『ア・ハード・デイズ・ナイト』放映。
午後4時5分から、BBCテレビにてビートルズの初主演映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』が放映された。ジョンはアスコットの自宅でこの放送を見て、のちにリンゴに提供することになる「アイム・ザ・グレイテスト」を書く気になったそうだ。ちなみに、この翌29日にジョンは「アイム・ザ・グレイテスト」の最初のデモ・テープを制作。翌年7月に行なわれたセッションでもこの曲のデモ・テープを録音したが、ジョンの曲として発表されることはなく、73年にリンゴのアルバム『リンゴ』にて陽の目を見ることになった。
−2006年11月28日作成−
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