松永良平ライター。音楽雑誌、CDライナーなどを中心に執筆。本誌で『CDじゃないジャーナル』を連載中。近刊に『音楽マンガガイドブック』(DU BOOKS刊)。d.hatena.ne.jp/mrbq 松永 「この『メモリースティック』は本当に待望の一冊でしたけど、タイトルはどういう意図でつけたんですか?」
九龍 「DU BOOKSの編集者がつけてくれたんです。僕は“九龍ジョー”ってライター名もそうなんですけど、重要なものはだいたい人につけてもらうことが多くて」
松永 「自分なりの案はなかったんですか?」
九龍 「ひとつありました。
ブルース・スプリングスティーンの初期に〈都会で聖者になるのは大変だ〉っていう
デヴィッド・ボウイとかもカヴァーしてる名曲があるんですよ。何年か前から“自分が本を出すならあの邦題をもらおう”と思ってたんですけど、そしたら一昨年、スプリングスティーンのインタビュー集の日本語版がそのタイトルで出ちゃったんですよ」
松永 「ああ! 出ましたね!」
九龍 「原題は『Springsteen On Springsteen』だったのに(笑)! あと、本にも収録した
GOMAさんの映画『フラッシュバック・メモリーズ』について書いた文章のタイトルでもある“つぎの歌の名前”というのも候補でした。でも音楽だけの本に思われるんじゃないかという意見があって。それでほかの案も出してるうちに、編集者から『メモリースティック』というのが出てきたんです。ちょうどそのとき彼がメモリースティックを買わなきゃいけなかったみたいで、手に“メモリースティック”ってメモ書きしててたんですよ(笑)。それを見ながら、彼がふと提案してきて。メモリースティックって記憶媒体であり、いろんなところに持ち運ぶものでもあるし……」
松永 「本当に絶妙なタイトルですね。九龍ジョーの本らしい」
九龍 「案が出た瞬間は2人で興奮しました(笑)」
松永 「この言葉自体によけいな主張がないというか、“おもしろい本ですよ”って過剰に説明してないところもいいんです」
九龍 「
ボブ・グリーンの『チーズバーガーズ』みたいな(笑)。あれはたしかグリーンが、自分の好きなモノについていろいろ書いた本だから、一番好きなモノをタイトルにしたってことらしいですけど」
松永 「そういう意味では、『メモリースティック』もシンプルな言葉だけど、九龍ジョーという書き手と結びつくことによって、意味が変わっておもしろくなる。それはサブタイトルの“ポップカルチャーと社会をつなぐやり方”と呼応したアイディアでもあると思えたし」
九龍 「たしかにメモリースティックって、それを何に使うのか? って話ですからね。僕はやっぱり音楽も映画も演劇も、その作品そのものについて書くというよりは、それをどこで誰が体験して、どこに持ち出したときに、どんな化学反応が起きるかを書きたいんです。今は音楽でも映画でもポータブルなものになってきている。生活の場面とポップ・カルチャーが昔より密接に結びついてるんだけど、そのぶん意識されづらくなっているというか。でも、作家や作品が想像もしないようなミラクルがいろんな場所で起きてると思うんですよ」
松永 「一冊にまとめるにあたっての構成はどういうものにしようと思ってました?」
九龍 「さまざまな媒体にいろんなことやいろんな人について書いた原稿が入っていますけど、たぶんいちばん大きな軸は
松江哲明という存在なんです。彼は映画監督で、
前野健太の『ライブテープ』や『フラッシュバック・メモリーズ 3D』を監督してますけど、もともと音楽に詳しい人ではないんですよ。そこがよくて。音楽ファンではないけど、すごく鋭敏な感覚を持った映画作家が音楽と出会った。音楽ファンの映画監督が撮る音楽映画だとなんとなく内容が想像がつくんだけど、彼は音楽を知らないがゆえに、余計な知識に振り回されず、音楽の本質みたいなものをすっと映像に結びつけてしまうんです。いまテレビ番組の『山田孝之の東京都北区赤羽』も話題になってますけど、今のこのポスト・メディウム状況の中で、彼の表現はホントいろんな場所に連れてってくれるし、メディアというものについて考えさせてくれる。だから、AVから始まる、ここ十年の松江哲明の動きをまずはひとつの軸に置こうと。あともうひとつは非正規雇用が普通のことになった社会のあり方ですね。単純に言っても、会社員は会社員、ミュージシャンはミュージシャン、映画監督は映画監督、というあり方が以前よりも崩れてきてますよね。以前もミュージシャンが成功するまでバイトするってことはあったかもしれないけど、今はどちらが“本当の姿”ということではなくて、自然と両立してることが多い。みんな“自分が何者か”という部分で複数の自分を持ってる。そういうアイデンティティのあり方は、演劇なんかを見ると顕著なんですよ。俳優と演じる役が一対一でないことが、わりと自然というか。その“変化”を、環境から身体までいろんなレイヤーで見るための流れは意識しましたね」
松永 「本の導入部にあたる『ライブテープ』をめぐる何本かの原稿が、まさにそうですよね。映画の内容や成り立ちを解き明かしていると同時に、吉祥寺という街のなかにある場所や人をつぶさにレイヤーとして見ていって、どんどんいろんな場所と人との関係性が変化していくのを書いている。しかも自分も動きながらそれを記録しているスピード感が最高なんです」
九龍 「『ライブテープ』に関わっていた人たちも、映画専門のスタッフはほとんどいなくて、ただよく僕と一緒に遊んでいたそのへんの若い子たちだったってことが、客観的にも重要だったなと。本にも書きましたけど、撮影の途中で帰っちゃったヤツとかもいましたからね(笑)。2章で書いているフリーター問題や子供たちについての文章も僕にとってはいちばんコアな部分で」
松永 「2章は
坂口恭平さんの登場なども含めて、重要なところですよね」
九龍 「どこから読んでもいい本ではあるけど、最初から読むといくつかの流れや変化を発見したり、感じたりしてもらえるような構成を目指したところはあります」
松永 「そうなんですよ。バラエティブックの体なんだけど、全体にストーリーがある。たとえばそれは九龍さんが演劇や落語が好きで、スクラップブックというよりはひとつの流れを重んじる志向があるからかなとも思ったり」
九龍 「それはあると思いますね。演劇は席に座って幕が開いたら、中断できないし、確実に終わりがくる。いろんな場所で起きてることを同時多発的に書こうと思っても、順番に見せるしかないんですよ。ただその流れは実際の時間軸とはシンクロしてるわけではなくて、あくまで僕や本や読者のなかでの時間軸なんですけどね」
松永 「いわゆるカルチャー・ブックなのに、参考図版がぜんぜんないのも驚きました。唯一あるのは本の真ん中に挟み込まれた松井一平さんのアートワークだけ」
九龍 「ブックデザイナーの田部井(美奈)さんがホント素晴らしくて。とくにあの松井一平さんの挿画は最高でしたね。図版に関しては、僕がパッケージにそんなにこだわりがないっていうのと、あと書いていることも作品をめぐる人や場所だったりするので、作品のジャケットだとちょっとズレるかなと。代わりに松井さんの最高のイラストが入ったので、僕としては大満足です(笑)」
松永 「図版を集めたページで参照してもらうより、その先に見に行っておもしろがってる九龍さんと一緒に読者の意識も追っかけていくっていうのが、いいんじゃないかと思います」
九龍 「逆にコレクターの人たちへの憧れもありますよ。でも、ホント僕の家には何にもないんです(笑)。本ぐらいかな、多いのは。レコードもCDもほとんどないですからね」
松永 「まさに自分が“メモリースティック”状態(笑)」
九龍 「パッケージを所有する欲がないんですよ」
松永 「むしろパッケージにとらわれないことで、自分が書くことでいろんなことを作品に対して上書きしていけるというのはありますよね」
九龍 「あと軽々しく別のものに結び付けたり(笑)。だいたいうろ覚えで、原稿書く段階になって買い直したりすることも多いですから」
松永 「そういう勝手な結びつけでいうと、僕はこの本読みながら
ベックの『ミッドナイト・ヴァルチャーズ』が猛烈に聴きたくなって」
九龍 「最高のアルバムじゃないですか! 賑やかだし、官能的で」
松永 「ベックこの本に合うなと思ってて。もともとベックは情報の集積と上書きみたいなことが音楽の基本にあるけど、あのアルバムにはもっと“踊る”とか肉体性もあるから、この本のなかで街をうごめく人々と九龍ジョーの視点の交錯にもすごくフィットする気がしたんです」
九龍 「ベックには世代的にもすごくシンパシーがありますね。ヒップホップ的な感性でカントリー・ブルースをやる感じとか。しかもそれをどんどん上書きして変容していきますからね。あと、この本には、ほかの人の声も差し込みたいと思ったんですよ。松永さんと『CDジャーナル』誌上でやった対談“あたらしい日本のおんがく”も収録させてもらいました(2012年8月号)。振り返ると、あの対談シリーズの一番最初に呼んでもらえたのはすごく光栄なことだったなと」
松永 「最初に話すのは九龍さんがふさわしいと思ったんです。今も“あたらしい○○シリーズ”は不定期でやってますけど、あたらしさの始まりとそれまでの俯瞰を提示できたのはすごくよかったと思ってます」
九龍 「あのシリーズ、つねにおもしろいですもん。こないだの柳楽(光隆)さん、
吉田ヨウヘイさんとやっていた“
あたらしいジャズ”なんかも、話していくそばからいろんなものが誕生していく喜びとスリリングさにあふれてました」
松永 「今あらためて、九龍さんが“あたらしいな”とか“おもしろいな”と思うバンドやミュージシャンって誰ですか?」
九龍 「もうね、なにが“あたらしい”とか“おもしろい”とかはわからない(笑)。ただやっぱり、僕は
どついたるねんからは目が離せないし、Nature Danger Gangにもずっとドキドキしてる。既存のジャンル“音楽”をありがたがってない人たちが好きなのかもしれない。そういう人たちが、まだ大手レコード会社にも拾われてなくて、音楽雑誌にも取り上げられにくいのであれば、僕が原稿化することにも意味があるんじゃないかなって。もちろんその前提として彼らは本当に才能のあるミュージシャンだと思ってますし」
松永 「どついたるねんについての九龍ジョーの原稿はどれも大好きです」
九龍 「こないだNature Danger Gangに取材したときも、10人ぐらいがみんな好き勝手にわあわあしゃべるんですよ(笑)。でも、そこでメンバーの誰かにオピニオン・リーダーとしてしゃべってもらってしまうと、インタビュアーとしてはラクだけど、その時点でグループの魅力を大幅に減じてしまうことにもなるじゃないですか。ネイチャーなんて、そのばーっと大勢がしゃべってるカオス感がいいわけで」
松永 「でも、混沌としゃべってるだけでいいんだったら、ユーストとかニコ動で垂れ流ししてたらいいだけじゃないですか。その混乱を整理しないで、ひとつ変換させて伝える文章なんだと思う」
九龍 「そうなんですよ。何年かライターをやってきて、ついたスキルはそこぐらいですね(笑)。あと、本にも書きましたけど、いまの日本の状況の中で、
ceroや前野健太の存在はますます重要に感じられるし、
大森靖子もまだまだ伸びしろがあると思ってます。あと、最近注目してるのは、のろしレコードっていうのを立ち上げた若いブルースマンたちがいて、その周辺ですね。そのなかに
松井 文っていう女性がいて、彼女の歌声や、歌っている内容がいいんですよ。古くて新しい。これが今の歌だなって感じがするんです」
松永 「ceroの〈Orphans〉と〈夜去〉って、震災後の都市をめぐる妄想を経て、ぐっと若者たちのリアルライフにフォーカスしたひとつ先に行けた表現だと思うので、僕もすごく楽しみです。松井 文さんも今度聴きに行ってみます。そうだ、こないだ
ラッキーオールドサンのライヴのときに会いましたよね?」
九龍 「そう、ラッキーオールドサンを聴いてると
ロウとか
アイダとかのサッドコアな感じを思い出すんですよ。でもけっして古くはない。すごく雰囲気ありますよね」
松永 「映画の『ゴーストワールド』的というか、不思議なタイムレス感と不器用さの両方があるんですよね。あと、九龍さんの音楽原稿についても思うことですけど、能動的に欲しいものを見に行くだけじゃなく、偶然に居合わせた状況から何かを拾い上げるおもしろさがいいんですよ。たとえば、どついたるねんを見たとき、大森靖子を見たとき、そのいちばんの反応がいい言葉として記されてる」
九龍 「Nature Danger Gangなんかも、その後、グループについて詳しく紹介する原稿や、インタビューした原稿も書いてるんですけど、あえて、よくわからないまま初めて目撃したときの原稿を収録したんですね。調べて書くことは誰でもできる。でも“よくわからないもの”を喰らった瞬間に、それでも必死で言葉にしたことが、あとあといちばん、重要なものを掴んでいたなってことがよくあるんです」
松永 「そういう見方に九龍さんの仕事を通じて気づかされる部分はいっぱいあるんですよ。僕が自分の身の周りで起きている音楽のおもしろさを伝えることにシフトしていったことにも、それはすごく影響してます」
九龍 「たぶん僕はプロの音楽ライターじゃないんです。昔、
マッスル坂井ってプロレスラーにも言われたんですけど、ある種のピュア・アマチュアなんじゃないかと(笑)。毎号レギュラーでディスク・レビューを書いたりってことをぜんぜんやってない。スタンスとしてはブロガーの人たちに近いのかも。ただ、商業媒体で書くと原稿料がもらえるし、媒体ごとのアングルや制約に合わせて書くっていうことは好きなんです」
松永 「この本に収められた文章によって、初めてちゃんと雑誌で言語化されたようなバンドや人がいっぱいいるじゃないですか。それをあらためて読むと、そのときに九龍さんが受けた初めての衝撃を、今また僕が受けている、みたいなところはあります。そういうのって大事じゃないですか。何年か経ってその文章を読んで“ああ、昔こういうことがあったんだな”って思われるより、昔のことを題材にしてはいても今読まれる文章としてちゃんと生きてたいというか」
九龍 「そこは意識しますね。いつ読んでも動的というか。もちろん音楽の成り立ちをアカデミックに解説する作業もすごく重要だと思います。ただ、僕の場合は、そのミュージシャンとどう出会って、どう聴いたか、そういった経験を、個人的な話にとどめずに、そのバンドのすごさや本質が引き出されるような言葉にしたいっていう気持ちがあるんです」
松永 「あとがきにも書いていた、ポップ・カルチャーと社会のつながりを書いているわけだけど、論旨を時代のせいとかに寄せないという姿勢にもうならされます」
九龍 「“この音楽を聴けばいまの社会がわかる”とか、そういう見方が一番つまんないじゃないですか(笑)。思わぬかたちで自分のなかでつながるのがおもしろいんであって、“社会の貧困を読み解くためにこのバンドを通して考える”とか、そういうふうに音楽の可能性を切り詰めてしまうのはもったいない。むしろ僕の書くことって、本人たちがまったくそんなこと思ってもないようなことばかりだと思うんですよ。でも、それでいい。松永さんとやった
坂本慎太郎『ナマで踊ろう』対談のときもそうでしたよね(2014年6月号)」
松永 「あれはおもしろかった」
九龍 「僕は勝手にワキ語りがどうこうとか言いましたけど、そんなことは坂本さんは露ほども思ってないですよ、たぶん(笑)。でも、そこで僕のなかでは『ナマで踊ろう』と複式夢幻能が重なってしまう共時性について思いを馳せたいんです。現実を追認してもしょうがないわけで、それよりも思わぬかたちで未来が招き寄せられてしまう、そういうことをちゃんと言葉にしたいんです」