9月のことだったか、10月だったか。AATAのシングル「Airport (ESME MORI Remix) / Day 1」の発売をSNSで知り、視聴して軽く驚いた。
以前の名義はひらがなの“あーた”で、シンガー・ソングライターつるうちはなは主宰するレーベル“花とポップス”に所属していた。ファンキーな曲もいくつかあったが、音楽もイメージもアコースティックでポップでガーリーだった。
「Airport」は前年のアルバム『BLOWING』にも収録されていた曲だが、R&B〜ヒップホップというかシティ・ポップというか、かなり大胆に変貌した。ESME MORIといえばdaoko、chelmico、iriなどの楽曲で耳にしてきたトラックメイカーだし、リミックスと謳ってはいるが歌もうたい直している。
その後「One Summer's Day」「Blue Moment」「Blowing (Shin Sakiura Remix)」と、相次いで先行公開された曲もどれもいい。なんでも彼女はディスクユニオンが主催するオーディション“DIVE INTO MUSIC”に合格し、12月11日に同社のレーベルKissing Fish Recordsからアルバム『Blue Moment』をリリースするという。あーたからAATAへの跳躍はなかなか大きい。
そのいきさつはもちろん、新しいアルバムの詳細から音楽的なバックグラウンドまで、たっぷり時間を拝借してじっくり話を聞いた。
――今日は初めてのインタビューだそうですね。
――責任重大ですね(笑)。それでは、まず“あーた”という名前の由来からおうかがいできますか?
「大学2年生の夏休みに中高の親友とひさしぶりに会ったときに、わたし本名は内田あゆみっていうんですけど、“うっちー、もうすぐ誕生日じゃん。新しい1年、なんか挑戦しないの?”って言われて、ふと“YouTubeにカヴァー動画とか上げてみようかな”って口をついて出たんです。医療系の大学で臨床工学を専攻してて、音楽の部活には入ってたけど当時は病院に就職することしか頭になかったので、本名はまずいかもしれないなって思ったときに、祖父母から“あーちゃん”って呼ばれてたのを思い出して。あーちゃんだとあからさまだし、あーたんだとかわいすぎるし……そうだ、“ん”を取っちゃおう、って。それであーたと名乗り始めました」
――ウィキペディアにAATAの項目があるんですよ。
「すごいですよね。すごく詳しいし、どうやって調べたのか不思議です。大学時代からずっとブログをつけているので、それを1ページ1ページ読んでくれたのかな(笑)」
――一つひとつあてていきますね。ギターを手にとったのは高校時代だとか。
「はい。父と『TVチャンピオン』のエアギター選手権を見てたんです。それで、エアギターなのに“ギターってかっこいいね”って(笑)。そしたら父が“近所のおじちゃんがくれたクラシック・ギターならあるよ”って言って、埃をかぶったのを出してきて、ネットにあった“テツ&トモの曲を弾き語ろう”みたいなページを印刷してくれて。最初はそれを見ながら♪なんでだろう〜ってやってたんですよ」
――“なんでだろう”があーたの始まりなんですね(笑)。
「そうなんです。そしたら、小学校いっぱいまでヴァイオリンをやってて弦楽器に慣れてたせいか、初日にFが押さえられたんですよ。ネットで見たら“Fが難しい”って書いてあるのに、全然難しくなかった! 才能ある! と思ってうれしくなっちゃって(笑)、家でコソコソと弾き始めました。ただ練習するのがあんまり好きじゃなかったので、いきなり自分で曲を作り始めたんです。そのうち、4つ上の姉が高校でDTMの授業があって、そこで使った教材みたいなのをくれたんですけど、そのなかにCoccoさんのスコアブックがあって。姉の影響でずっと聴いてたので、好きな曲や簡単そうな曲を選んで弾いてみて、add9って響きがきれいだな、とか思って、徐々にギターにハマっていきました。あと、そのころYUIさんがめちゃめちゃ売れてたんですよ。アコギを弾いて歌う人のイメージって、父の影響でフォークに寄ってたんですけど、ポップスなのにアコギを弾いてる女の子がいる!って驚いて、YUIさんの曲も聴くようになりました」
――YUIさんの影響で音楽を始めたという人は多いですね。
「弾き語りというものを意識し始めたのはそこかもしれないです。そうしてちょっとずつ自分の根っこができていった気がするんですけど、当時はまだ人前で弾こうとか自分が作った曲を聴いてもらおうとかは全然思ってませんでした。でも高校3年の終わりごろに、さっきの親友が大学受験に失敗して、卒業間近までずっと頑張ってたんですね。わたしはもう大学が決まってぼーっとしてたので、彼女を元気づけたいなと思って〈ホントの気持ち〉っていう曲を作って、携帯のボイス・メモで録って送ったんです。誰かのために曲を作ったのはそれが初めてですね。彼女は“これ、すごく好きなんだ”って言って、ずっと覚えててくれました」
――すてきなエピソードです。それが生まれて初めてひとに聴かせた曲?
「家族以外だとそうですね。姉はけっこうほめてくれてたんですよ。姉はDTMの授業で“君、すごく才能あるね”ってほめられたぐらいの人なので、“お姉ちゃんにほめられた!”ってうれしかったし、親友が喜んでくれたのもうれしかったです」
――歌はずっと好きだったんですか?
「どうなんでしょう。自分ではうまいと思ったことはないですね。友達とカラオケに行ってもみずから歌おうとはしなかったし。いまでこそ“度胸あるね”と言われますけど、当時は恥ずかしがり屋で緊張しいだったんです。家族にはめちゃめちゃ愛されて育ったので、家族の前では冗談を言ったりとか、ちょっと口が悪かったりとかするのに、外に出ると急におとなしくなっちゃうみたいな。家族や親しい人には“いつも元気だね”って言われて、よく知らない人には“まじめでいい子だよね”って言われるみたいな(笑)」
――典型的な内弁慶じゃないですか。
「転機は高校時代で、非常勤の音楽の先生が面白い人だったんです。教科書に載ってるような曲をやるんじゃなくて、ポップスや洋楽の曲をいくつかピックアップして“このなかから好きな曲を選んで練習して歌いなさい。それがテストだ”って言って、わたしはプリンセスプリンセスの〈M〉を歌ったんです。先生の伴奏で、みんなの前で。たまたま同じ学年に歌のうまい子が何人もいて、その子たちが合唱祭でも活躍してたんですけど、先生は学年で一番の成績をくれたんです」
――才能を見出してくれたんですね。
「“君は本当にいい声をしてるね”って言ってくれて。勉強もスポーツもそれなりにできたけど、一番になった経験があんまりなかったから、本当にうれしかったです。その経験から初めて“人前で歌ってみてもいいかも”って思って、大学で部活に入りました。プロになりたいなんてまったく思ってなかったし、カヴァーしか歌わなかったですけど」
――曲は作っていた?
「気が向いたときに家で好きなコードを並べて歌詞を書いたりしてました。いつだったかは忘れましたけど、たまたま部室にひとりでいたときに、置いてあるアコギを手にとって、自分が作った曲を歌ってみたことがあるんです。そしたら歌い終わったころにいきなりドアが開いて、同級生でいちばん仲のよかったはるなっていう子に“うっちー、すごいいいじゃん。誰の曲?”って言われて。その部室はめちゃめちゃ音が漏れるので、彼女は外で聴いてたらしいんですよ。まさか聴かれてるなんて思わなかったから“あああああ”ってなっちゃって(笑)、“じ、自分で作った”って言ったら“わたしそういうの好きよ。ピアノつけてもいい?”って。そこからアコギとピアノのデュオを組み始めたんです」
――“ぱんだふるらいふ”ですね。ウィキペディアに書いてありました(笑)。
「それです。活動のメインは部活の定例イベントでしたけど、ある年に文化祭の野外ステージに出られる機会があって、出演者はいろんな部活からオーディションで選ばれるんですよ。そのために音源が必要だって話になって、横浜のレコーディング・スタジオを借りて、ぱんだふるらいふの唯一の音源を作って応募したら選んでもらえて」
――何曲録音したんですか?
「5曲ぐらいだと思います。ほとんどわたしが書いた曲で、当時はクリックとかも知らなかったから、“いっせーのせ”でひたすら歌い続けるみたいなレコーディングでした。その文化祭で別の軽音部にも知り合いができて、そのなかのひとりから“オダサガ(小田急相模原)のT ROCKSっていうライヴハウスで企画ライヴがあるから出ない?”って誘われて、たぶんそれが初めてのライヴハウス出演です。そこのブッキングの人とかスタッフの人に“声もいいけど、曲がいい。音楽勉強してんの?”とか言われてその気になって(笑)、何回かそこでライヴをしました。そのうち、ひとりでも出させてもらえるようになって」
――徐々に後のあーたの姿に近づいてきました。
「でも卒業が近づいてきて、はるなは就職で“もう音楽を続けられない”って言われたんですよ。自分もそろそろ進路を考えないといけなかったんですけど、気持ちが入りきらなくてフワフワしてたのか、病院実習のとき技士さんに“君は技士に向かないね”って言われて(笑)。こんな状態で人の命にかかわる仕事をしちゃいけない、ここは2年間の猶予期間を設けよう、と。それで大学院の修士課程に進んで研究を続けながら、あーたとしての音楽活動をちゃんと始めた感じです。すごくいい先生で、音楽活動をやってるのもわかってくれてて、“内田さん、そろそろ研究しないと大変だよ”っていつも言われてました」
――研究室に籍を置きつつも、気持ちは音楽へ、という感じ?
「そのへんからはもうそうですね。クリニックで週に何日か働きながら研究もして、音楽もして、3足のわらじっぽい感じで。そうこうしてる間に、LONG SHOT PARTYっていうバンドが解散して、ドラマーのPxOxN(渡部寛之)さんが新たにバンドを組みたくてヴォーカリストを探してる、という話がきたんです。何のコネクションもなかったんですけど、その少し前にわたしのYouTube動画を見てバンドをやろうって誘ってくれた人がいて、そこで出会ったギターの子(吉原淳)が前からつながりのあったPxOxNさんに紹介してくれて、3人でバンドを組んだんです」
――Star Crochetですね。2014年1月結成、2015年3月に活動休止、とウィキには書いてありました。
「すごい(笑)! いま思うとPxOxNさんは音楽の基本を徹底的に叩き込んでくれました。歌詞とリズムにすごくうるさかったですね。ただ言い方がことごとく否定的だったので、どんどん自信を失ってダメになっちゃって……。リハに行くんだけど、気がつくとスタジオのトイレで吐いてるみたいな。メンバーと一緒にいると声が出ないんですよ。家とか友達と一緒なら歌えるのに、喉が詰まったみたいになっちゃって。彼らはその姿しか見てないから、ヘタクソじゃんって思いますよね。ダメだ、ダメだってすっごい言われて、きつかったです。そのうち、PxOxNさんに“おまえらを見てると、一緒にやっていく覚悟が俺にはできない”みたいに言われて」
――バンドは活動休止、と。
「めちゃめちゃショックで、音楽をやめて就職しようかとも思いました。でも、なんか悔しくて。“いい”って言ってくれた人たちの顔も浮かんだし、何よりこのままやめちゃったら、自分の音楽は“ダメ”で終わるんだな……って思って、バイト中に泣きそうになって、トイレに行って“音源を作ろう。この音楽を残そう。それを作ってから続けるかやめるか決めよう”と思ったんです。そのときにふと浮かんだのが、直前に出会ってたつるうちはなさんの顔でした。それで連絡をとって“こういうことがあって、音楽を続けるかどうか悩んでるんですけど、最後に一枚音源を作りたいんです。力を貸してもらえませんか”って話したんです。はなさんも当時は未経験だったそうなんですけど、“わかんないけどやってみようか”って言ってくれて、一緒に作ったのがファースト・ミニ・アルバム『あーた』(2015年6月)でした」
――4年前にたまたまライヴを見たときにあーたさんから直接買ったのを覚えています。2人とも模索しながら作ったんですね。
「アレンジの大枠を2人で考えて、はなさんが集めてくれたメンバーと一緒に、バンドみたいに作っていきました。いま聴くとギターが本当に弾けてないし、クリックに合わせられなくて、自分でも、これじゃドラマーに怒られるよって思います(笑)。声はツルッとしてて、いまよりも少女感があってきれいだなって思うんですけど」
――その流れで、つるうちさんが主宰するレーベル“花とポップス”に入って……というか、立ち上げメンバーのひとりですよね。
「そうです。花ポの最初のリリースがはなさんのシングルとChaki(畠山智妃)のミニ・アルバムと『あーた』でした(2016年3月)。わたしの作品は完全自主制作だったんですけど、在庫に番号をつけて流通をかけてもらった形です」
――なるほど。次のミニ・アルバム『naked』(2016年8月)はあーたさん自身がアレンジのアイディアも出したそうですが……。
「はなさんに任せるんじゃなくて自分でやってみたいなって思ったんです。参考音源も自分で探したし、口とか鉄琴とかピアニカとか自分でマイクで録れる楽器を使って、サウンドのイメージを再現したデモを家で作って、サポートの方たちに送ったりして」
――その次のEP『HAPPY TAPES』(2017年7月)は聴けていないんですが、フル・アルバムの『BLOWING』(2018年9月)ではファンキーな曲が格段に増えましたよね。
「ファーストはいちばんJ-POPだったと思いますけど、〈ソーダ水〉のアレンジをどうしようかって相談してたときにはなさんがフリッパーズ・ギターを教えてくれて、めちゃめちゃはまったんです。そこから渋谷系と呼ばれるような音楽を漁ったり、その元ネタになる洋楽曲を探っていって、ボサ・ノヴァやアシッド・ジャズが好きになったりして。“ボサ・ノヴァ コード”でYouTubeで調べて練習したりしました」
――渋谷系経由だったとは。
「そのうちに、ご一緒した先輩たちが“これ聴いてみ”って教えてくれたり、お客さんが“あーたには絶対にソウルやファンクが合う”って言っていろんな音源をくださったりして、たくさん教わりました。あと、2015年に“モナレコ女子”っていうオーディションで準グランプリになったときにウルトラ・ヴァイヴの高(護)さんが気に入ってくださって、何回か打ち合わせしたんですよ。そのときに70年代ソウルのコンピ盤とかをくれて、いろいろ聴いてるうちに、積もり積もったものが『naked』あたりで開花し始めたんでしょうね。それがだんだんと濃くなっていって、自分でも認識できるようになってから加速度がついたと思います。わたしのいちばん根っこにあるのは荒井由実さんとサザンオールスターズなんですけど、両方とも洋楽の要素があるじゃないですか。“あ、わたしが好きだったのここだ!”って腑に落ちた瞬間があって、そこから完全に振った感じですね。だから『BLOWING』は過渡期っていうか、J-POPっぽい曲からR&Bっぽい曲までいろいろあって、当時の自分のおすすめを全部入れた感じです」
――短期間に大きく変化してきたんですね。
「1年ごとに音源を出して、そのたびに変わるから、お客さんも喜んでくれたんじゃないかなって(笑)。『HAPPY TAPES』を聴くと変化をより明確にわかっていただけると思います」
――『naked』と『BLOWING』はかなり違いますもんね。
「その途中が『HAPPY TAPES』なんです。あれは参考音源がJ-POPなんですけど、そこに入ってる〈スノードーム〉から『BLOWING』につながる感じ。我ながらちゃんと段階を踏んで変わっていってるんだなって」
――新作はディスクユニオンのレーベルからですよね。花とポップスを抜けたのはどうしてですか?
「花ポには本当にお世話になったし、勉強もさせていただきましたけど、去年の初めぐらいから外の世界に目が向き始めたんです。もっといろんなところに出てみたい、オーディションとかも受けてみたいと思うようになって。そのときにちょうどディスクユニオンのオーディションを見つけて、受けたら受かって。そのオーディションの少し前にWWWでワンマン・ライヴをやって……」
――WWWでワンマン! すごい。
「去年の9月に『BLOWING』のリリース・イベントとしてやりました。ツテがあればイベンターが入らなくても借りられるギリギリの規模がWWWだったんです。仲間たちが手伝ってくれたおかげでなんとかできました。集客がすごいプレッシャーで、SNSで毎日“今日はチケットが何枚売れました”みたいな動画を更新してたんですけど、だんだん顔が死んでいってるんですよね(笑)。いまじゃ自分では見れないです」
――『Blue Moment』には“NEO CITY POPの新たな歌姫”というキャッチがついているし、ESME MORI、Mikeneko Homeless、Shin Sakiura、Sho Asano、SHUNといったヒップホップ/R&B畑のトラックメイカーたちと組んでいます。曲はどんなふうに作っていったんでしょうか?
「クリックに合わせて弾き語りしたパラデータと、レーベルのプロデューサーと相談して選んだリファレンス音源を一緒に送って、トラックを作っていただきました。彼らの仕事としてはアレンジャーに近いと思います。一部コードを変えてもらった曲もありますけど、基本的に原曲どおりが多かったですね」
――「トロピカル・プレイボーイ」はクニモンド瀧口さんの提供曲ですね。
「プロデューサーのアイディアです。流線形は好きだったのでめちゃめちゃうれしかったですね。ただ、ひとの曲を歌った経験が浅いので、解釈が難しくて。最初、かなり抜いて歌ったら“それは違うかも”って言われて、元気めに歌ったらいい感じになじみました。まだ歌い慣れてなくて、若干しっくりこないところもあるんですよ。発売日にリリース・パーティがあって、そこで初披露するので歌詞を覚えないと(笑)」
――HONNEの「Day 1」のカヴァーはあーたさんの意向?
「これもプロデューサーですね。アルバムを作ろうって話になったときに、参考としていろんな音源を聴かせてくれたんです。それきっかけでHONNEにめちゃめちゃはまって、そのこともあったのか彼のなかで決まってたのかはわからないんですけど、この曲をやってみないかと提案してくださいました。英語で歌ったのも初体験に近いんですけど、読んじゃうとダメだなと思って、耳でコピーする感じでした」
――先日、久しぶりにライヴにお邪魔したときにデモCD-Rを購入して聴いたんですが、曲と歌がとにかくよくて、弾き語りでも十分いけるのが強みだなと思いました。ギターと歌さえあれば成立するという。
「わたしもそう思ってます。ほんっとにいろんな現場でライヴしてきてよかったなって。ギターとわたしがいれば、モニターの返しがなくても平気みたいな」
――歌詞は音優先で作っている印象を受けたんですが……。
「音優先です! わたしは曲を作るとき絶対メロディが先なんです。そのときに言葉が一緒に出てきたりとか、口の形で母音が決まってたりするので、そこから歌詞の辻褄を合わせていくこともよくありますね」
――ここは口の形が“オ”だから、とオの段の音をはめていこう、みたいな?
「そうそう。たとえば〈Sway〉は当時恋愛してた相手との話をモロに描いてるんですけど、本当に夜中2時に変な感じで目覚めちゃって、“help me help me ここに来て”ってそのままサビが出てきたんです。〈Airport〉の“平行線だな 会いに行くよ/白羽の矢がたつ コンマ一秒”も完全に言葉と一緒に出てきました」
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――僕はこのサビ大好きなんですよ。“平行線”とか“白羽の矢”ってあんまり歌詞で耳にしない言葉がきれいにはまっていて。
「彼の住む街から羽田空港に帰ってきたときに出てきたんです(笑)」
――“行くよ”と“一秒”もガッチリ踏んでいるわけじゃないけど、いい塩梅に音が揃っていますね。
「なんとなく口の形は一緒みたいな。このまんま出てきたからこそのまとまりじゃないかなと思います。2回目のサビは辻褄合わせをしているので、けっこう理屈っぽいんですよ。“緊急事態なら 来てくれるの?/いちいち角たつ そんな一行”っていうのは意識的に合わせてます。パズルみたいで、作り方が理系っぽいんですよ、たぶん」
――「Sway」や「Blowing」では実際にラップしていますけど、それ以外でもラップっぽさを感じる箇所がそこここにありますね。ラップは好きなんですか?
「〈Blowing〉を作る前にたまたま、たぶんSNSで、黒人のミュージシャンがバケツかなんかを叩きながら言葉遊びをしてる動画を見たんです。それがすっごくかっこよくて、もしかしたら音楽ってメロディがなくてもリズムだけで事足りるんじゃないか? って思ってヒップホップに興味を持ちました。それからいろいろ聴くようになって、さっき話に出た彼と出会って、その影響でPUNPEEさんとか鎮座DOPENESSさんを聴くようになって。このアルバムにはけっこう好きなラッパーをイメージして歌った箇所があるんですよ。〈Sway〉の“半年端々に亀裂 日々クタクタに”は鎮さんだし、その前の“注意 届くわけないね”はchelmico、“あまりあるwhy だけど今はまだstay”はiriさん、みたいな。chelmicoにはすごく影響されました。ラップとメロディのバランスが絶妙じゃないですか。ヒップホップに寄りすぎちゃうのもわたしっぽくないから、サビはめちゃめちゃわかりやすいメロ、ラップもガチのラッパーからは“そんなのラップじゃないよ”って言われるぐらいがちょうどいいみたいな。〈真夜中のテレポーテーション〉の“A-B repeat”はリスペクトを込めた(〈ずるいね〉からの)引用です」
――「Blowing」は歌詞のストーリー的にも、ラッパーの自己言及っぽい口吻を連想させるものがあります。
「そうかもしれないですね。100パーセント自分だと聴かせられるものにはならないと思ってるので、作品としてアウトプットするために多少のお化粧をしたり、物語を入れたりは必ずするんですけど、基本的に発想の基本になるのは自分の生活が多いです。シンガー・ソングライターの子にはたまに起こったことや自分の感情をそのまんま歌う人もいて、完全に自己表現として歌ってる人はそれでもいいのかもしれないけど、わたしは聴き手の存在を前提に考えるから、絶対にやらないようにしてます」
――エンタテインメントあるいはコミュニケーションという意識ですかね。
「絶対にそうです。“わたしがわたしが”っていうよりは“あーたをよろしくお願いします”って感じなんですよ。だから本名を使いたくなかったのかもしれないです」
――「One Summer's Day」は一人称が“僕”ですもんね。
「これは完全に物語ですね。“あのとき好きだった男の子ともう一度会えたら……”って想像しながら書きました。電車の中で、住んでるところはすごく近いのにこうも会わないか、って思ったことがあって。そのときにもし会えたらどうだったかな、とか」
――さっきちょっと出てきた「真夜中のテレポーテーション」もいいですね。
「〈Airport〉ともども遠距離恋愛丸出しですよね(笑)。これは破滅しそうなときに書きました。別れた後わたしはどうするのかな、きっと懲りずにまたやんちゃな人のことを好きになっちゃうんだろうな……って自虐しながら(笑)。これもサビのフレーズがこのまんまツルッと出てきたんですよ。“真夜中、高層ビル登って きみとしたいなテレポーテーション/衝動的なやつだって いじられても たいそうな愛も 最初は些細なきっかけから”って」
――アルバム全体がひとつの恋愛の記録みたいな……。
「彼がいなかったらできなかったアルバムですね。通い続けてたけど、時間的にも金銭的にも限界だし、頑張って行っても冷たくされたりして悲しすぎたので、もうやめようみたいな感じで別れちゃいました。おかげでいいアルバムができました。彼に送っちゃおうかなって思うぐらい(笑)」
――最後の「Silhouette」「Blue Moment」のバラード連打が効果的です。
「〈Silhouette〉はAATAのなかのR&Bに寄せた曲って感じです。作り始めたときはR&Bっぽさのかけらもなくて、自分ではそのヴァージョンも気に入ってたんですけど、プロデューサーに送ったときに“コードの感じはいいが、違う”って言われて、参考曲としてR&Bとかソウルの曲をたくさん送ってくれたんです。それらの参考曲を、なるほどこっちか、確かによさそう、面白い……と聴いていくうちに“おー! わかったぞー!!”と閃いて、ばーっと書き直しました」
――ちなみにいちばん参考になった曲は?
「Brandt Orangeの〈Damn Moutains〉です。どこまで音数を少なくシンプルにできるか、その上でグッとくるメロを、というのを自分なりに追求しました。ほかの曲はプロデューサーにテコ入れされることってほぼなくて、最初は少しふてくされたんですけど(笑)、結果的に作曲の幅をひとつ広げてもらったなって思いますね。シンガー・ソングライターはどうしても自分のなかで完結しがちだけど、第三者からの客観的なアドバイスは本当に大切だなって。個人的にはアルバムの中でいちばん気に入っている曲です」
――「Blue Moment」でも“頭ごなしのNGが じつはヒントかもね”って歌っていますもんね(笑)。
「そこもプロデューサーとのちょっとしたやりとりで浮かんだ言葉です(笑)。さっき話した恋愛や花ポを抜けたことをきっかけに、自分自身のことや人間関係を見つめ直したり、自分と対話したりっていうことをたくさんしたんです。そのなかで、自分が本当にやっていきたいことは何なのかとか、どんな人たちと一緒にいたいかとか、ずっと流してきたけど引っかかってたのは何だったのかとか、心の奥深くにあったことがやっとわかった、みたいなことがいっぱいあって。その気づきの過程を忘れないために、いつかちゃんと曲にしたいなと思ってたんですよ。わたしの当たり前が誰かの当たり前とは限らないし、あの人たちの当たり前だってわたしの当たり前とは限らない。それは状況によっても変わってしまうし。“いま・自分は”どうしたいのか。信じられるのはそれだけなんじゃないか?って」
――なるほど。
「そうしてぐるぐる考えて、試して、間違えたら修正して、また試して……という過程って、生きていく上で本当に重要だと思うんですね。きっと死ぬまでその繰り返しだろうし。数字にすれば成功とはほど遠いように見えるかもしれないけど、タイミングが違ったり、あと一回の修正と挑戦で夜明けが来るかもしれない。こうして奮闘してるいまは、夜明け前のブルー・モーメントかもしれない――そう思って、一気に書き上げました。たくさんの方に聴いてもらって、自分と同じように奮闘してる誰かの“あと一回”を応援できる曲に成長してくれたらいいなと思います」
――“ブルー・モーメント”をググッてみると“夜明け前と夕焼けの後のわずかな隙に訪れる、辺り一面が青い光に照らされてみえる現象”とありますね。
「母が教えてくれた言葉です。母の口癖は“大丈夫大丈夫”で、わたしにとって魔法の言葉なんですよ。曲ができたときに母の笑顔が浮かんで、歌いながら少し泣きました。大切に大切に歌っていきたい曲ですね」
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――これまでとは違う作り方を通して、何か発見はありましたか?
「Mikeneko Homelessさんはけっこうコードを変えてくれたんですけど、弾き語りだったらまずしない進行なんですよ。でも彼のなかのトラックだとこの和音、この音使いで正解なんだなと思って、めちゃめちゃ勉強になりました。ESMEさんはいちばん緻密な感じがしましたね。効果音の使い方ひとつとっても、すっごい性格出てるんだろうなって。彼はトラックメーカー勢のなかで唯一、ヴォーカル録りに来てくれたんですよ。あとは瀧口さんはもちろんですけど、Sho Asanoさんも。Shoさんは12月11日のワンマンからバンマスを務めてくださるんですよ」
――アルバムのジャケットがイラストなのも初めてですよね。
「satsukimさんっていう画家さんに頼んだんです。わたしが仲のいいチヂマツミキ with カスタムっていうアコギとドラムの男女ユニットのジャケを“かわいいなぁ”と思って見てたときに、たまたまその人がデザインしたっていうのがわかって(『two do』と『ando』)。いろんな解釈ができるジャケがよかったんです。だから写真はあんまり使いたくなかったんですよね」
――ここで得たものを次につなげていきたいですね。
「シンガー・ソングライターのシーンからなかなか出られなかったんですけど、これから新しい世界に飛び込みたいですね。そうしたらまた歌い方とかギターのプレイとか作る楽曲とかも少しずつ変わっていきそうだし。もしかしたらまたJ-POPに歩み寄るかもしれないし、もっとR&Bに振るかもしれないし。それはまだわかんないけど、とにかく新しいところには行きたいです。刺激をいっぱいもらいたい」
――ところでご家族は音楽好きなんですか?
「家業が電気屋なんですけど、父は高校時代から軽音部のPAみたいなことを手伝ったりしてたらしくて、その流れかわかんないですけど、家にレコードがあったりしました。母はヴァイオリンが好きで、自分が習わせてもらえなかったからってわたしに習わせてくれたり。あと、幼稚園のころに川崎病っていう心臓の病気になって長期入院して、大学を出た少し後ぐらいまで通院してたんですよ。いつも母が運転する車で小児科に通ってたんですけど、車に乗ってる間ずーっとユーミンのアルバムが流れてて、意味がわからないながらも一緒に歌ってたらしいです」
――ユーミンは原体験に近いというか、刷り込まれちゃっている感じですね。
「もう荒井由実さんには会えないけど、松任谷由実さんにはいつかお会いしたいです。歌詞のきっかけもたくさん拝借してたりするし、〈ミルク〉(『BLOWING』収録)は完全に“あーた的荒井由実”で作ったんですよ。〈ソーダ水〉もそうだし、〈サマーラヴァーズ〉(同)の“紙ナプキンにさ アドレスを書いて そっと君に渡そうなんて考えてた”っていうくだりも〈海を見ていた午後〉の山手のドルフィンのイメージですし。自分の描く物語だったりとか温度感、空気感みたいなものは、100パーセント自分の生活から生まれるものじゃなくて、やっぱり空想が入るじゃないですか。その部分は完全にユーミンが作ってくれたものって気がします。わたし、曲のなかではちょっとカッコつけたいんですよね。みんなも音楽を聴いてるときぐらい現実を忘れたいじゃないですか。そういうシンガー・ソングライターとしての考え方の根っこはたぶんユーミンなのかなって思います。恋愛の曲が多いのも、もしかしたらそうなのかもしれない。
――リリースの後に決まっていることは?
「3月12日に初めてホールでワンマン・ライヴをやるんです。あと、2月の2日と28日に自主企画のスリーマンを組んでて。いわゆるシティ・ポップのフィールドの人たちに“こんにちは、AATAです。よろしくお願いします”ってご挨拶できたらなって思ってて、そのつもりでブッキングを組んでます」
――最後に、AATAさんの理想のアーティスト像ってありますか?
「声だけで完結する人になりたいです。トラックメイカーの方たちにも“わたしの声を素材として使ってもらえませんか?”って言ってて。もちろん曲を書くことも好きなんですけど、何がうれしいって、顔も曲もなんにも知らない状態で声を気に入ってくれるのが最高なんですよ。曲作りはスキルを磨けばそれなりにできちゃうものだけど、声をほめられると、人柄含めて自分そのものを認めてもらえてる感じがするんですよね」
取材・文/高岡洋詞