2008年リリースのファースト・フル・アルバム
『フリート・フォクシーズ』が世界中で絶賛され、一躍インディ・ミュージック界でもっとも注目を集めるアーティストとなった
フリート・フォクシーズ。アコギやマンドリン、ダルシマーなどと卓越したヴォーカル・ハーモニーが紡ぎだす美しいサウンドで唯一無二の音世界を築きあげた彼らが、3年ぶりとなるニュー・アルバム
『ヘルプレスネス・ブルーズ』をリリースしました。ここではその新作『ヘルプレスネス・ブルーズ』と、彼らをはじめとした新世代の“オーケストラル・ポップ”勢の魅力に追ります。
01. フリート・フォクシーズ、待望の2ndアルバムに迫る
文/中川五郎
茫漠とした“ヘルプレスネス”(やるせなさ)から救ってくれる 2008年夏のデビュー・アルバム『フリート・フォクシーズ』からほぼ3年ぶりとなるフリート・フォクシーズのセカンド・アルバム『ヘルプレスネス・ブルーズ』は、見事なコーラス・ハーモニー、さまざまな楽器を活かして緻密に作り上げられた華麗なサウンド、古いフォーク・ソングにインスパイアされたと思われる純朴なメロディなど、このバンドの最大の特色にして魅力が、ますます大きく豊かなものとなっている、期待をまったく裏切ることのない傑作だ。しかし歌われている歌詞にもしっかりと耳を傾けてみると、そこには変化があることに気づかされる。
ぼくの印象を一言で言うなら、新しい作品はデビュー作以上にパーソナルで、どの曲もサウンドはまさにフリート・フォクシーズならではの、練り上げられ纏め上げられたものなのだが、それ以上にシンガー・ソングライター、ロビン・ペックノールド個人の存在感が強く伝わって来た。
そのロビンが歌う言葉だが、1986年3月生まれ、まだ25歳の若者にしては、どこか諦念に満ち、老成しているように思える。生きるとは何なのか、いつか近い将来、自分の力で答を出すと「ヘルプレスネス・ブルーズ」の中でロビンは力強く歌いながらも、同時にほかの曲では、“いつか死ぬだけなのになぜ人は生まれてくるんだろう?”“生まれた時と同じ裸のままでいつかは泥に還る”“変わってくれると期待していたことは何もかもそのままの形で僕の中に残っていた”と、悟りきったようなことを歌っている。しかしこの早すぎる諦めのようなものこそが、逆に彼の若さを証明しているようにぼくには思えてならない。
やはり「ヘルプレスネス・ブルーズ」の中で、ロビンは“どういうわけか自分はほかの人とは違うと信じながら僕は育てられた”と歌い、それに答えるかのように「ローレライ」という曲で、“今の僕には分かる / 自分たちは窓を覆う埃みたいなものだってことが / たいしたものじゃない、大きな意味はないんだ / すべては盗んだか、もしくは借りたもので / その頃にはすでに僕は君にとって昔の話に過ぎなかったんだね”と歌っている。
歳をとるということは、畢竟するに、自分は特別な存在だと思っていた傲慢さや自信が打ち砕かれ、自分もみんなと一緒のただの存在だと気づくことのようにぼくには思える。そしてそれに気づいて初めて、人は誰も優しくも切ない、あたたかくも寂しい歌を作って歌えるようになっていくのだろう。『ヘルプレスネス・ブルーズ』の日本盤のライナー・ノーツには、「自分は特別な才能に恵まれた特殊な人間の一人なんかではない」というロビンの発言も紹介されている。誰もが死ぬために生まれて来て、自分はたいしたものじゃない、大きな意味はないといつかは気づくのだとしたら、まさに音楽や歌は、その茫漠とした“ヘルプレスネス”(やるせなさ)から人を救ってくれるためにあるのだと思う。とりわけ大きな救いとなるのが、フリート・フォクシーズのような、生きるということに真っ向からぶつかって行こうとする、誠実で正直な“若者”の歌なのだ。
(歌詞対訳は日本盤の新谷洋子さんのものを引用させていただきました)
02. オーケストラル・ポップを聴く
文/村尾泰郎
フリート・フォクシーズのサウンドにもある“オーケストラル・ポップ”的要素は、ここ最近、いろんなバンドから感じることができる。クラシック音楽の手法や楽器をポップスに取り入れたサウンドは、60年代以降、“バロック・ポップ”“チェンバー・ポップ”など言葉を変えて受け継がれてきた。たとえば
ビートルズなら「エリナ・リグビー」や「イン・マイ・ライフ」あたりが有名だし、
フィル・スペクターの“ウォール・オブ・サウンド”はまさにポップス交響楽。“バロック・ポップ”という言葉通り、ハープシコートとストリングスでポップスを飾り立てたレフト・バンクというバンドもいた。そんななかで、90年代以降のバンドに決定的な影響を与えたのは
ビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』だろう。ハイ・ラマズを筆頭にビーチ・ボーイズ・チルドレンが続々と登場。また同時に
ヴァン・ダイク・パークス『ソング・サイクル』のユニークなストリングス・サウンドもポスト・ロック世代のリスナーに再評価され、オーケストラル・サウンドに対する実験は
ジム・オルークや
ビョークなど先鋭的なアーティストによってさまざまな形で展開されていった。
タイヨンダイ・ブラクストン
そういった“学究派”アーティストに専門的な音楽教育を受けた
タイヨンダイ・ブラクストンがいる。バトルス在籍時も曲作りで大きな役割を担っていたが、ソロ・アルバム『セントラル・マーケット』ではアヴァン・ポップなオーケストラル・サウンドに挑戦した。タイヨンダイのほかにも、
スフィアン・スティーヴンスやオーウェン・パレットなど“ひとりオーケストラル・ポップ”を生み出す異才たちのサウンドには、
ブライアン・ウィルソンやヴァン・ダイクをはじめ、
エンニオ・モリコーネにも通じるユニークな実験精神が息づいている。また作曲家ニコ・マーリーがストリングス・アレンジを手掛けた
アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズや
グリズリー・ベアあたりも、オーケストラル・サウンドへのこだわりを感じさせるアーティストだ。
ジョアンナ・ニューサム
こうしたクラシック音楽への実験的なアプローチは、よりクラシック度を高めた“ポスト・クラシカル”シーンへと繋がっていくが、その一方で、クラシックの要素を“歌”に寄り添うかたちでフィーチャーしているアーティストたちもいる。たとえばバーバンク・サウンドの流れを受け継ぐクレア&リーズンズや、ハープを爪弾く
ジョアンナ・ニューサム。ヴァイオリンと口笛がトレードマークのアンドリュー・バードや、UKトラッドを独自に消化した
レジャー・ソサエティなど、ルーツ・ミュージックに根差しながらクラシカルな楽器でふくよかに音を色づけしていくスタイルには、フリート・フォクシーズと共通するセンスを感じさせたりも。かつては音を特徴付ける要素のひとつだったクラシックだが、今では“バロック”という華美な装いは脱ぎ捨て、ロックやポップスと自然に溶け合って豊かなサウンドスケープを紡ぎ出しているのだ。