レイフ・オヴェ・アンスネスのモーツァルト協奏曲シリーズやイゴール・レヴィットのベート―ヴェン独奏ソナタ全集、カティア・ブニアティシヴィリやラン・ランの近作群など、近年も第一線ピアニストたちの話題作を続々世に送り出しているソニークラシカルが、コンクールの快進撃でも演奏会でも世界各地で話題のつきない藤田真央と専属契約を結んだ。ワールドワイド契約でソニークラシカル専属となった日本人アーティストといえば、これまでヴァイオリンではMidori(五嶋みどり)とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団第1コンサートマスターの樫本大進がいたが、ピアニストとしては藤田が日本人初。
世界へ向けての第1弾リリースがいきなりモーツァルトのピアノ・ソナタ全集というところに、まずレーベル側の強い信頼を感じずにおれない。そして実際の収録内容に触れてみれば、親しむほどにその意味がよく実感される。
リリースに先立ち9月29日には記者会見も行なわれた。そこで伺った話も交えながら、この新しい全集録音BOXを紹介したい。
全集BOXは全世界向け仕様とは別に日本国内盤仕様があり、高音質Blu-spec CD2の5枚組に加えて特典映像入りBlu-rayディスク、フォトブックといった国内盤独自の特典がつくだけでなく、BOXの形状も多少スリムな国際リリース版とは違い、古典的なジュエルケースが6つ収容される重量感ある仕様。配信音源よりもモノとしての手触りありきで物理ディスクを選ぶリスナー好みのスタイル……ともっともらしく片付けてしまえば他人事だが、世界的レーベルが推す濃密な内容の録音には遠くからでも視認できるこうしたゴツい形状の外装のほうが断然ふさわしいと思うのは筆者だけだろうか?
藤田真央は2021年7月にスイスのヴェルビエ音楽祭でモーツァルトのソナタを5夜にわたり全曲披露、これがmedici.tv経由で配信もされ話題を呼んだほか、同年3月からは東京の王子ホールでも同様の連続演奏会をスタートさせており、10月18日(火)・19日(水)には第4回公演が予定されている。
録音はヴェルビエ音楽祭出演直後にベルリンで行なわれているが「できるだけ難しい曲から、記憶が鮮明なうちに」録音を進めていったという。だが仕上がった音源に接してみると、何が彼にとって「難しい」のか実感としては見えにくいかもしれない。記者会見では具体的な難曲として(深い愛着も込めつつ)ソナタ第15番の終楽章のロンドK.494をあげていたが、その少し前に書かれたハ短調のソナタ第14番や長大なデュルニッツ・ソナタ(第6番、K.284)でも佇まいの自然さは変わらない。聴き手に妙な気負いを強いることなく、ありうべきところにありうべき強さで音が、響きが置かれてゆく。ときにはペダルを適切に使い、モーツァルト時代の楽器特有の残響かと思うような演奏効果を披露するところもある。
「当時の楽器の響き」のイメージと、自分の楽器でできることの双方を明確に認識できていないと、こうはならないのではないか――今から250年ほど前にあった、モーツァルトが知っていた当時のピアノを前提とした音楽を弾くにはあきらかにオーバースペックな現代のピアノを使っていながら、的確なタッチでよどみなく、絶妙のタイミングで音を紡いでゆく過不足ない音作り。それは曲そのものの造形のみならず「次にはこうしよう」と、作曲中のモーツァルトの脳裡にひらめき続けた「次の瞬間の音」への予感まで的確に捉え、示してゆくようにも聴こえる。
「彼はリスクのあるほうを選ぶし、それを楽しんでいるんです」と録音プロデューサーのフィリップ・ネーデルは語る。セッション中に冗談を言い合える録音現場でありながら、藤田自身はつねに自分が演奏する音楽に深く集中している、気張らずにそれができている状況をネーデルは「健康的」と表現していたが、実人生がそうであるように健康を保つのはじつは簡単ではない――ソナタ全曲録音でモーツァルトの音楽と向き合い続けて、となればなおさらだ。
演奏におけるリスク管理に関して言えば、ソナタのほうが協奏曲よりもリスクを取りやすい……とも藤田は記者会見で語っていた。「協奏曲ではリハーサルの時から多くの人が関わりますし、あまり自由にはさせてもらいにくい。いろいろ打ち合わせておいて、それで本番のとき……全然違うことをする。みんなびっくりするんですよね(笑)」こうした藤田の解釈姿勢は、演奏のたび奏者が即興で装飾音を盛り込みながら弾き、同じことを何度もそのまま繰り返す者は凡庸であるとされた18世紀当時の演奏理念とまったく矛盾しない。ファジル・サイやユジャ・ワンといった比較的型破りなパフォーマーたちだけでなく、古典派期以前の鍵盤演奏の理念を徹底して追求し続け実演に反映させてきたアンドレアス・シュタイアーのような古楽器奏者たちも、まさに演奏のたびに異なる即興を盛り込むことを適切と考え、実演の面白さに結びつけている。
実のところ、藤田は楽器こそ現代ピアノと向き合い続けていながらも、18世紀音楽の作品解釈についてはすでに深く考え抜いてきた様子が窺える。記者会見のアルバム説明や質疑応答でも、折に触れ当時の演奏習慣のあり方について触れ、ウィーンの作曲家たちも強い影響を受けてきた大バッハ次男エマヌエル・バッハの奏法指南書の記述なども自在に引用していた。「同じことを繰り返さない。それでソナタ形式の前半は繰り返しで装飾音をつけて弾くのですが、後半はその展開ですからね。作曲家が考えつくして書いたその展開を、二度なぞるのはどうなのでしょう」と、全曲録音のソナタ形式楽章で後半を繰り返さない理由についても的確に説明していた。
1970年代終わりに世界初の古楽器によるモーツァルト交響曲全集を実現したクリストファー・ホグウッドとともに、彼のピアノ協奏曲を数多く録音しているフォルテピアノ奏者=音楽学者ロバート・レヴィンにも、藤田はレッスンを受けに行っている。わずか半月違いで9月に同じくモーツァルトのソナタ全曲を、こちらは当時の古楽器で録音・リリースしたばかりのアメリカ人レヴィンは「自分はアメリカ人で、モーツァルトがいたヨーロッパとはまったく違う環境で生まれ育ったので、とにかく人一倍その音楽を勉強した。ましてやアジアから来たあなたはもっとたくさん勉強しないといけない」と藤田に薫陶を授けたという。両者の全曲録音は遠からず世界各地の批評メディアで、演奏家としての在り方がまったく異なる者同士の同一プロジェクトとして並列で比較検討されてゆくのだろうが、そこでどんな言説が飛び交うかも楽しみなところだ。
鋼鉄フレームや交差弦といった構造要素はおろか、ダブルエスケープメント機構さえ存在しなかった頃の鍵盤楽器を弾いていた作曲家たちの音楽を、現代のピアノでどう演奏するか。それは全ピアニストにとって切実な問いであり続けているし、それ以上に無数の先行解釈が存在する古典的名曲群であるモーツァルトのソナタを総体として扱うとなれば、聴く側もそれぞれに多くのことを念頭に置きながら、時には既存の聴き慣れた録音と比較さえしながら新たな演奏に向き合うことも少なくないのだろう(事実、藤田自身も「子供の頃に聴いた、ホロヴィッツの弾くモーツァルトが自分の原体験」と語っている)。そういった送り手・受け手どちらにも存在し得る気負いを想定して藤田真央のモーツァルトに接すると、あらゆる瞬間に軽やかに予想を裏切られ続けてしまう。驚くほど的確で自然な解釈を通じて、作曲家が自身のとある作品について語った「通なればこそ味がわかる箇所がそこかしこにありながら、心得のない人も我知らず惹かれてしまう」という言葉を幾度も思い出さずにおれない観賞体験が続くのだ。
大げさな演出要素や無駄な音楽効果を極力排して作られた国内盤BOXの特典映像では、藤田のルーツである日本が欧米とは違う場所であることを、世界中で知られている日本製品や街の風景をさりげなく使って演出しながら、東アジアからヨーロッパにやってきた若者が素直な取り組みでモーツァルトと向き合うさまを描き出そうとしているようにも見える(独立した作品としていろいろな象徴を読み取れる、きわめて魅力的な映像であることも申し添えておきたい)。
意地悪な見方をすれば、世界的レーベルのリスクヘッジとして「異世界から来た人の解釈だから、多少そのつもりで聴いて下さいね」との申し開きともとれなくはない。そんな東アジアの若者が、なんの衒いもないかのごとく泰然自若に、ありのまま弾き連ねたモーツァルト解釈が、いかにも18世紀的な音の造型を的確に捉えた音作りになっていると徐々に気づくとき、世界の聴き手たちはどのように反応し、どのようにそれを聴き深めてゆくのだろう――その過程はひょっとしたら、ウィーンに住み始めた頃のモーツァルトに触れ、何の先入観もなく、いや多少意地悪な気持ちさえ抱きながらその音楽に接し、惹かれていった人々のそれと重なってゆくのではないだろうか。
取材・文/白沢達生
Photo by Dovile Sermokas