80年代後半のロンドンを席巻したアシッド・ジャズ・ムーヴメントの中心的存在として知られる
インコグニート。その結成は79年にまで溯り、今年で結成31年目を迎えた。本国以外では、日本や東アジアでとりわけ高い人気を持つグループでもある。
彼らのサウンドの基盤にあるのは、70年代のソウル、ファンクだが、最新アルバム
『トランスアトランティック・RPM』はリーダーの“ブルーイ”ことジャン・ポール・モーニックの長年の夢を実現した作品となった。彼が最も影響を受けた時代の音楽の立役者だった
チャカ・カーン、
リオン・ウェア、
アル・マッケイ(
アース・ウインド&ファイアー)といった先輩たちのところまで足を伸ばし、彼らとの共演を楽しみながら作り上げた特別なアルバムなのである。
ロンドンのブルーイに電話をかけてみた。
――インコグニートの音楽を紹介するとき、ジャズ・ファンクはふさわしい言葉でしょうか?
ジャン・ポール・モーニック(以下、同) 「今でもアシッド・ジャズがふさわしい言葉だと思うよ。というのは、アシッド・ジャズはジャズ・ファンクよりももっと多くの影響を取り入れているからね。この言葉を嫌う人も多いけど、僕にとっては、インコグニートのやっていることを説明するいい表現なんだ。僕らの音楽はフュージョンでもネオ・ソウルでもスムース・ジャズでもない。今も生々しくファンキーで、折衷的だ。ブラジル音楽の要素もあるし、ストリングスやブラスも使う。精神を高揚させる要素があって、ファンキーな中にスピリチュアルな部分も感じられるはずだ」
――あなたにとっては一時の流行やある時期を指す言葉ではないんですね。
「もちろんさ。ジャズ・ファンクやシカゴ・ハウスというと、特定の時期に結び付けられるけど、アシッド・ジャズはそれらをすべて一緒にしたものだ。あの(80年代後半の)時代だけに結びつける人もいるけど、僕はそうは考えない。たとえばイタリアに行くと、たくさんのバンドがこういった音楽を作っていて、今もアシッド・ジャズと呼んでいる。日本にもそういうバンドがいるよね。彼らはジャズでもヒップホップでもなく、それらすべてなのさ」
――あらゆる要素を結びつけるところがイギリスらしさでもありますね。
「イギリスがずっと得意にしているのは、何かを取ってきてほかのものと融合させることだ。社会もそうだからね。ロンドンはとくにいろんな民族が住んでいる。ほかのどの国よりもミックスしているんじゃないかな。本当に多様な人たちが集まっている。だから、音楽にだって食事にだって変化が起こる。アシッド(酸)を何かに落とすと表面に腐食が起こって、ほかのものに変化するのさ」
――他文化といえば、生まれ故郷モーリシャスからの影響は残っています?
「最初に音楽に出会った場所だから、今でも影響を受けるさ。モーリシャスのビーチで最初に好きになった音楽は、アフリカからマダガスカルやモザンビークを経由してやってきたクレオール音楽のセガだ。とても楽しくなれる音楽なんだ。だから、インコグニートでもみんなに笑顔を運ぶような音楽を演奏したいんだよ」
――さて、新作の『トランスアトランティック・RPM』ですが、どういうコンセプトで作ったのでしょう?
「このアルバムは旅なんだ。若い頃のレコード・コレクションにまで遡る旅だ。レコード店に勤めていた頃に夢中になったチャカ・カーンや
マーヴィン・ゲイ、アース・ウインド&ファイアー……あの頃にそういった種類の音楽を作りたいと考えていた。今回は実際に大西洋を越える旅をして、その人たちと一緒に録音したわけだ。そして
ハービー・ハンコック、
ロバータ・フラック、
スティーヴィー・ワンダーを聴いていた75年夏の物語を語っている。“RPM”はそれらのレコードを指しているんだ。レヴォリューション・パー・ミニット(分毎の革命)さ。本当に人生の転換点だった。それから巡り巡ってチャカと一緒にレコーディングして、
アリフ・マーディンの椅子に座っていた。リオン・ウェアがマーヴィン・ゲイと一緒に過ごした部屋にいた。まさにアメリカの夢を生きていたよ」
「以前からカヴァーしたかった。彼は凄い歌手というわけじゃないけど、歌声に強い個性がある。だから、個性のある歌手が必要だったんだけど、チャカ以上に個性のある人はいないだろ?
マリオ・ビオンディはイタリアの
バリー・ホワイトみたいな低音の歌手なんだよ。声質が独特なので、チャカといいバランスがとれると思ったんだ」
――これからの予定は?
「近いうちにブラジルでアルバムを作りたいと思っている。それと、日本でもレコーディングしたい。ライヴ・アルバムは作ったけど、日本のミュージシャンとも一緒にやりたいんだよ」
取材・文/五十嵐 正(2010年7月)