チャイコフスキーや
ロドリーゴの名曲、ピアソラの傑作、
滝廉太郎や多忠亮の代表曲からオリジナルまで、多彩な楽曲を通して卓越した表現力、確かな技巧、音楽家としての独自性をアピールした演奏はニューヨークの音楽ファンに鮮烈な印象を与えた。川井郁子の新作『川井郁子 at カーネギーホール 2008〜新世界〜』は、そんなアメリカ・デビュー公演(2008年10月4日)を収録したライヴ盤である。
「私の特徴をわかっていただきたかったので、ストレートな情熱と、幻想的でドラマティックな和の部分の2つを表現するプログラムにしました」
日本から同行したのは「次にどういきたいか無言のやり取りができて、スリリングな演奏になります」と彼女も信頼を寄せるピアニストの
フェビアン・レザ・パネと、「音色が私の思う日本の哀愁なんです」という尺八奏者の渡辺峨山。ともにライヴやレコーディングで数多く共演している気心の知れた奏者だ。渡辺とのデュオで演奏する京都の伝承歌「竹田の子守唄」から
ドヴォルザークの「新世界」(尺八を加えた新アレンジ)へと移るドラマティックで、しかも美しく調和する場面は、シルクロード的なスケールの大きさを感じさせる近年の彼女の音楽性を端的に表わしている。
「この2曲はまったく違う世界観の曲でありながら、私には共通のテーマを持っているように感じられるのです。峨山さんの尺八が(「新世界」の)〈家路〉のメロディを奏でるとき、喚起する風景が広がると思います」
スペシャル・ゲストとしてスタジオ録音の前作『新世界』で共演したジャズ・ピアノの大御所、
ハンク・ジョーンズを迎えている点も聴き逃せない。デュオによる共演曲の一つ、
ガーシュウィン作「サマータイム」はピアノ・ソロを挟み、ふくよかで低音に厚みのある前半部、高音で繊細に鳴らす後半部のアプローチは対照的だ。しかし、ともに深い哀感を醸しており、ヴァイオリンという楽器の表現力を存分に引き出している。日本UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)協会評議員として社会奉仕活動に取り組む彼女は、難民キャンプの子どもたちから教えられるものも多いという。
「初めてヴァイオリンの音色を聴いたときの反応がすごいんです。昔の私を想い出すというか、ヴァイオリンの音そのもののパワーにあらためて気づかされました」
2006年に長女を出産したことも、音楽や音楽活動に対する意識が変化するきっかけとなった。
「子どもは命そのもので、すごいエネルギーをくれます。それまでは自分の枯渇感の叫びとして音楽があったのですが、いまは社会にメッセージを届けたいとか、音楽をやる意味が変わりました。それに、何かを恐れることなくチャレンジできるようになりました」
そのチャレンジの一つとしても、カーネギーホール公演があったのかもしれない。アンコール曲は亡くなった父や生まれ育った瀬戸内の海を思い出すという成田為三作「浜辺の歌」。ところが演奏を始めるや否や、突然の爆音。ステージの照明が割れるという、長いカーネギーホールの歴史の中でも2回目のアクシデントが発生したという。
「驚き、客席もどよめきましたが、“あ、お父さんだ”と自然に思えて気持ちが落ち着きました」
アルバムに収められているのは、初めからやり直した演奏だ。この2回目の演奏中にも照明は割れ、その破裂音が入っている。しかし、彼女の楽音からは動揺のかけらも感じられない。自分だけのためではなく、家族や社会とともに音楽がある。その確信がアクシデントさえもプラスに作用させるような、素晴らしい演奏を生んだのだろう。
取材・文/浅羽 晃(2009年1月)
写真/WWW.JOHNABBOTT.COM