直木賞と本屋大賞のW受賞という史上初の快挙を成し遂げた恩田陸の小説『蜜蜂と遠雷』の映画が、2019年10月4日(金)に全国公開される。架空のコンクール、“芳ヶ江(よしがえ)国際ピアノコンクール”を舞台に、元・天才少女、サラリーマン・ピアニスト、優勝候補筆頭の王子様、そして規格外の天才という4人のピアニストたちの挑戦と葛藤、交流と成長を描いた物語である。
松岡茉優が演じるヒロインは、国内外のコンクールを制し、コンサートもCDデビューも果たしていたにもかかわらず、13歳で突然姿を消したかつての天才少女、栄伝亜夜。“再起”をかけ、音楽との向き合い方に迷いながらもコンクールに挑戦する。松坂桃李演じる高島明石は28歳。音楽大学を卒業後楽器店に勤め、妻子もある。“生活者の音楽”を掲げ、最後の挑戦としてコンクールに挑む。森崎ウィン演じるマサル・カルロス・レヴィ・アナトールはジュリアード音楽院で学ぶ、日系三世のペルー人の母とフランス人の貴族の血筋の父を持つ優勝候補の筆頭。卓越した技術、深い音楽性、そしてスター性を有する彼は、亜夜の幼なじみでもある。伝説的なピアニストであるユウジ・フォン=ホフマンの推薦状を携え登場する謎の少年、風間塵を演じるのは新人の鈴鹿央士だ。
映画『蜜蜂と遠雷』は、豪華キャストの出演とともに、それぞれの登場人物の演奏を、現在のクラシック界を牽引するピアニストたちが担当していることでも大きな話題を呼んでいる。栄伝亜夜の演奏は河村尚子が務める。ドイツを拠点に活躍する彼女は、難関“ミュンヘン国際音楽コンクール”第2位や、多くの世界的名ピアニストを輩出した“クララ・ハスキル国際ピアノ・コンクール”で優勝を飾り、多くの一流指揮者からも共演を熱望される存在だ。高島明石の演奏は福間洸太朗が担当。20歳にして日本人で初めてアメリカの“クリーヴランド国際ピアノ・コンクール”で優勝およびショパン賞を受賞し、現在は河村と同じくドイツを拠点に国際的な演奏活動を展開している。マサル・カルロス・レヴィ・アナトールの演奏は、日本人の父とハンガリー人の母を持つ金子三勇士。金子は飛び級でハンガリーの国立リスト音楽院大学(特別才能育成コース)に入学し、“バルトーク国際ピアノ・コンクール”など、数々のコンクールで優勝。“第12回ホテルオークラ音楽賞”や“第22回出光音楽賞”など数々の賞も授与され、幅広い活動を展開中だ。風間塵は、2017年に“クララ・ハスキル国際ピアノ・コンクール”優勝、そして今年の6月には“チャイコフスキー国際コンクール”第2位を受賞した注目の若手、藤田真央が担当する。
音楽家たちの“リアル”や、悩みながらも成長していく心情を繊細に捉えた原作、旬の俳優たちの演技、そして活躍目覚ましいピアニストたちの演奏というコラボレーションが作り出す『蜜蜂と遠雷』の世界。それを音楽の中に濃縮したインスパイアード・アルバム4タイトルも発売された。アルバムには登場人物が劇中で演奏する曲をはじめ、劇中で重要な役割を果たす第2次予選の課題曲「春と修羅」の各ヴァージョンも収録。この作品の作曲は日本を代表する作曲家、藤倉大が担当している。4名それぞれのカデンツァ(即興演奏で自身の技巧や音楽性をアピールする部分)、そして共通するテーマの聴き比べもでき、物語とともに個性豊かな登場人物たちの演奏と心情をより深く、立体的に楽しむことができる。
今回は演奏を担当したピアニスト4名に、物語や登場人物、そして音楽との向き合い方についてうかがった。本記事ではその前編として、栄伝亜夜の演奏を担当した河村尚子と、マサル・カルロス・レヴィ・アナトールの演奏を担当した金子三勇士のインタビューをお届けする。
河村尚子 Interview
――今回、栄伝亜夜の演奏を担当され、とてもイメージがピッタリで感激しました。ご自身は亜夜に何かシンパシーを覚える部分があったりしたのでしょうか?
「原作が出版されて早い段階から読ませていただいて、亜夜が抱えている“不安”や彼女の少し子供っぽいキャラクター、そして演奏面でも頭で考えて……というより“感覚的”に演奏するところなど、通じる部分はたくさんありました」
©Marco Borggreve
――亜夜にはすごく“器の大きい天才”という印象があり、それは私が河村さんの演奏からもつねづね感じていることでした。小説を読みながら演奏を聴いたり、また映画で河村さんの演奏が聞こえてくると本当に物語とマッチしていてすばらしかったです。亜夜という人物をかなり意識されて演奏されたのでしょうか?
「いえ、演奏する時は“亜夜”というよりも、ひとりの音楽家として最高の演奏をすることをつねに意識していました。どの曲の演奏も、色彩やフレージングなど作品自身のインスピレーションから得たものを音にしていきましたね」
――「春と修羅」についてはいかがでしたか?
「この曲についてはやはり、恩田陸さんの描かれた物語がそのまま音になっているので、いちばん亜夜を意識した曲かもしれません」
――テーマの部分は4名共通していますが、河村さんの演奏からはとくに柔らかさやあたたかさといった印象を受けました。
「劇中では不安を抱えながらコンクールに臨む亜夜が、ほかの人の演奏を聴いて何かに目覚めたことで自分のカデンツァをすごく自信をもって演奏していますよね。藤倉さんの作品には、その過程が音としてとても反映されていました」
――カデンツァはかなり力強さを増しますよね。
「ジャズの要素を感じさせたり、時にものすごく暴力的なまでに力強くなったり、そしてそれらを包むおおらかさもあって……。ここがいちばん彼女に“なりきって”演奏した部分だと思います」
――今回のインスパイアード・アルバムは河村さんが現在取り組まれている“ベートーヴェン・プロジェクト”の録音と同時進行だったと伺ったのですが?
「そうなんです。レコーディングのスケジュールとしては、午前中にベートーヴェンを録って、午後に『蜜蜂と遠雷』の楽曲を録音する……というものでした」
――ものすごく大変ですし、そもそも切り替えるのも大変だったのでは……?
「むしろ気分転換になってとても楽しかったんです。メンデルスゾーンの〈厳格な変奏曲〉などはベートーヴェンの影響が大きい曲ですし、ベートーヴェンから得たインスピレーションを活かして演奏することもできました」
――亜夜は劇中でほかの人物たちと交流したり、彼らの演奏から得たインスピレーションによってものすごい速さで進化していくキャラクターですが、河村さんご自身も何かそういうご体験はありましたか?
「もちろんです! コンクールだけではなく、共演する相手からインスピレーションをいただくことも多く、それに応えられるように自分が向上しようと努力してきました。また、自分とは違う解釈やアイディアを持つ人と出会うことで視野も広がります。室内楽などはとくにそうですね。ほかの楽器の人の気持ちになって演奏することも、ピアノを演奏する際には大事なことなんです」
――最後に、コンクールがテーマのこの小説に絡めて、ぜひコンクールについて伺わせてください。河村さんはこれまで数多くの国際コンクールで素晴らしい結果を残されてきましたが、コンクールをどのように捉えていらっしゃるのでしょうか?
「ありがたい結果をいただいたこともありましたが、もちろん毎回ではありません。なので大切なのは、失敗や敗退したときの反省や悔しさを次の大会へ、という前向きな意識を持つこと。そうでないと、どんどん落ち込んでしまいますから(笑)。膨大な作品を演奏するのでレパートリーが広がりますし、たくさんの方に聴いていただける貴重な場でもあります。だからコンクールは賞をとるためのゴールではなく、成長するためのステップ。いろいろな大会に臨み、次の道に進む……。賞をいただいたら“それからの道をどう開拓するか”ということが大切で、次の道へのヒントにしていくことが重要だと思っています」
金子三勇士 Interview
Photo: Ayako Yamamoto
――演奏を担当されることが決まる以前から、マサル・カルロス・レヴィ・アナトールには親近感を覚えていたそうですね。
「複数の文化のなかで育ったところや音楽への考え方、レパートリーなど、すごく近いものを感じていました。あとはカレーが好きなところや、欠かさずランニングをしているところも(笑)! 映画化が決まり、演奏を自分が担当することになったときには飛び上がるくらいに嬉しかったです」
――そこまで似ていると、演奏する時もマサルという人物をかなり意識していたのでしょうか?
「はい、音として“マサル”を形にしたいという気持ちがとても強かったです。演じられた森崎ウィンさんもとてもマサルに近い背景を持っている方ですし、演技もすばらしかったので、そこに自分の演奏が重なったときの感動は本当に大きかったです」
――物語で核となる「春と修羅」は、4名それぞれのキャラクターや音楽観が音になっています。カデンツァは全員違いますが、共通しているテーマの部分からすでに全員が全然違いますよね。
「一音聴いた瞬間から誰が弾いているかわかるくらい違いますね。私は作品を弾いてみて、マサルを意識しつつ、どこか別の世界や次元にあるものを、音を通して感じる……そんな音楽だと思いました。舞台で演奏していると、そういうものを意識するときがかならずあるので、マサルも演奏しながらそういう瞬間があったはず、と想像しながら弾きました」
――カデンツァですが、作中でもかなり技巧的だという描写があり、おそらく4名中いちばんの難曲になっているのではないでしょうか。実際かなり複雑な書法ですよね。
「そうですね、藤倉さんからたくさんのエールをいただきました(笑)。何しろ恩田さんが非常に細かく楽曲の内容を描写されていたので、それをなんとしても再現したいという想いがあったようです。弾いてみると、本当に藤倉さんの原作への愛、そしてイメージが伝わってきます。また同時にマサルの内面も見えてくるような気がしました。私はこの予選ではマサルがどこか自分にブレーキをかけているような気がしていて、今回の〈春と修羅〉を弾いていると、作品の中にもそんなマサルの姿が見えてくるような気がしていたんです」
――原作でも劇場版でも、栄伝亜夜の成長が最もクローズアップされていますが、マサルもやはり“芳ヶ江国際ピアノコンクール”を通して成長していると感じますか?
「もちろんです。予選やオーケストラとのリハーサルでの葛藤が、ファイナルで演奏するプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番で晴れたんじゃないかと思っていて……。演奏でもそれを表せたらと思って弾いていました」
――「春と修羅」はもちろんですが、プロコフィエフの協奏曲も今回初めて取り組まれたそうですね。この協奏曲も難曲として知られていますが……。
「今回短期間でレコーディングをすることになったため、コンクールを受けるような感じで臨みました。国際コンクールには新曲の演奏が課されていることも多いですし、膨大なレパートリーをこなさなければなりません。こういう面でもマサルになりきって楽しみながら取り組むことができました。第2番はとくにコンクールではめったに演奏されません。ただマサルは新しいことに対してものすごく貪欲で、挑戦をすることを恐れない人です。だからこそ、コンクールのファイナルという場で人があまりやらない曲を選ぶことがよくわかるんです」
――『蜜蜂と遠雷』はコンクールがテーマとなっていますが、金子さんはコンクールをどのように捉えていらっしゃるのでしょうか。
「これはこれから音楽の道を目指す若いみなさんにぜひともお伝えしたいのですが、“なんのためにコンクールを受けるのか”というところを考えてほしいのです。コンクールはゴールではなく、むしろスタート。受賞した後のほうが大変なんです」
――もっと先を見据えるということですよね。
「“芳ヶ江国際ピアノコンクール”は、それまでちやほやされていたマサルにとって謙虚さやピアニストとしての孤独を意識するといういい修業の場になっていますよね。オーケストラとの演奏に苦しんだり、人間的にも音楽家としても悩み、成長していきました。マサルにとってそうだったように、コンクールは“争い”ではなく受ける人全員にとって自己研鑽の場であってほしいです」
取材・文/長井進之介
※福間洸太朗(高島明石役)と藤田真央(風間塵役)のインタビューを収めた本記事の【後編】は、
こちら。
■映画『蜜蜂と遠雷』https://mitsubachi-enrai-movie.jp/2019年10月4日(金)全国公開
松岡茉優 松坂桃李 森崎ウィン
鈴鹿央士(新人) 臼田あさ美 ブルゾンちえみ 福島リラ / 眞島秀和 片桐はいり 光石 研
平田 満 アンジェイ・ヒラ 斉藤由貴 鹿賀丈史
原作: 恩田陸「蜜蜂と遠雷」(幻冬舎文庫)
監督・脚本・編集: 石川 慶
「春と修羅」作曲: 藤倉 大
ピアノ演奏: 河村尚子 福間洸太朗 金子三勇士 藤田真央
オーケストラ演奏: 東京フィルハーモニー交響楽団(指揮: 円光寺雅彦)
配給: 東宝
©2019映画「蜜蜂と遠雷」製作委員会