すべてのアーティストにとって、コンクール入賞歴などよりも、もっと大切なのは、その後にやってくる“出会い”のほうである。
注目すべきはその選曲と構成である。
ドビュッシーと
細川の作品をほぼ交互に、対等に、予想外な順番によって、あたかも一つの作品のようにつなげていく。それは、これまでのECMの理念である“沈黙よりも美しい音”という世界観そのものを体現しているのみならず、フランスと日本の音楽文化の深い絆を象徴するメッセージにもなっているからだ。
――時代を牽引してきたカリスマ・プロデューサー、アイヒャーとの出会いは? 「そもそものきっかけは、20年以上前です。
アルヴォ・ペルトの『ラメンターテ』のピアノ・パートの演奏のために、
ペルトが私を呼んでくれたときがあって、そこで
アイヒャーに会ったのです」
「いろんなものを一緒に聴いたりしながら話し合いました。彼にとっては、どんな曲を入れるか、そしてCDを1曲目から順に聴いていくという“順番”が大事なんですよね。ですから、どういう曲をどういう順番でやるかを考えた結果、1枚目のCDができあがったのです。
アイヒャーは録音セッションにも立ち会っているんですが、音作りのときから、ホールの中にずっと座ってらっしゃいます。音全体の雰囲気のことについて、とてもクリエイティヴな一言をポロッと言う。演奏の内容よりは、全体の色彩や流れのことですね」
――歴史的厩舎(元・馬小屋)のホールは、ECMの音作りに欠かせない場所ですね。
「ディレクターは70年代に
イングリット・ヘブラーを担当していたベテランの方で、この同じホールで録音したそうです。素晴らしいスタインウェイの楽器と、ホールと、同じ方向で仕事ができるチームに恵まれました。時間もたっぷり3日間とってもらいました」
――理想的な環境ですね。
「
アイヒャーは後の編集作業には来ないで、セッションのときに、音作りを全部やってしまうのです」
――あんなにみずみずしい響きなのに、後からリヴァーブ(人工的な残響)も加えていないのですね?
「ええ。後から加工はしていないです」
――レコーディングはアーティストにとって変化のチャンスでもあります。ECM以前と以後では、ご自身の変化は?
「クリエイティヴな仕事の仕方を知ったということは言えるかもしれません。どういう方法で音楽をプレゼンテーションするかということを、自分のコンセプトをどうやって伝えるかということを、考えること。ただ演奏するだけでなく、自分なりの意志と信念を強く忘れないで、それをどう伝えるかということ……。今回の選曲・構成も、すべて理由があってやっていることです。初めの曲を
ドビュッシーの練習曲集の第11曲にするのは
アイヒャーのアイディアです。作曲家の意志ではないけれど、きっと
ドビュッシーも同意してくれると思います。もちろん
細川さんも」
――音楽がダウンロードや定額聴き放題でランダムに消費される時代に、ECMの紙ケースに入ったアルバムを買うのは、メッセージやコンセプトを手にしたという感じがありますよね。
「いい演奏をすることばかりでなく、それを発信することを重視するんです。
アイヒャーの目を通して見ると、独自の目で物事を見ることになる。彼は朝いちばんに仕事をするんですって。朝、きれいで汚れのない耳で。携帯も持たないので、とても連絡しにくい人です(笑)。メールはするけれど。70歳を過ぎていますが、たえずクリエイティヴ。いろんな意味で大切な出会いでした」
© Jean-Baptiste Millot
――今回あらためて驚いたのは、なにより演奏自体の素晴らしさです。桃さんのピアノは、変な言い方になりますが、まるで人間の意志で音が動いているのではなく、自然現象の音のように聴こえるのです。風が動いたり、小枝が揺れたり、その上をリスが走ったり、という風に聴こえるのです。
「それはとてもうれしいですね。私は、
ドビュッシーも
細川さんの曲も、“つかめない”ものだと思うんですよね」
――ドビュッシーのエチュードは、プレリュードのような文学的なタイトルがありませんね。抽象なのかなと思ってしまうとややとっつきにくい。でも今回の演奏はすごく自然に近い感じがします。 「エチュード(練習曲)であっても、
ドビュッシーは指使いを書いていません。指の技術に関してあまり細かいことは言わない。プレリュードに近いんです。ファンタジーをあふれさせている。そこが演奏する側にとって難しいところなんですけどね。ひとつの雰囲気というか、動きというか、色とか。そういうとても詩的なものがやはりあるんです」
――そもそもエチュードはドビュッシーの晩年の問題作とされていますが、まったく違う聴き方ができるアルバムだと思います。 「
ドビュッシーのエッセンスは……詩的なところがいちばん大事です。聴き慣れない和音も出てくるかもしれませんが、それは詩的な要素でもあるんです」
――曲を弾くときになにか具体的な“ストーリー”を頭の中で描きますか?
「必ずそうします。
ブーレーズのような抽象的な曲では、感情的な音色を使うと合わないかもしれないですが、それでも、どんな音楽もなにかの表現ですから。自分が想像しているイメージ、どういうふうにしゃべっているのか、歌っているのか、色彩だけなのかを考えます。
ドビュッシーはエピソードが繊細で透明感があって、全部を出すのではなく、どこか隠さないといけない。全部を言わないことが大事です。
ラヴェルに比べても
ドビュッシーは、全部を言わない。思いがけなくて、皮肉っぽかったり、子供っぽかったり、
シューマンみたいなところもあるかもしれない。風を感じるというよりは、風を描くという感じかな」
――素晴らしい! とても納得がいきます。細川俊夫さんの曲に関しては? 「最初はピアノという楽器をあまり好きでないとおっしゃっていたのです。ですが、『モモ』というミヒャエル・エンデの本があるんですが、それに興味を持ってくださって、〈時の花−オリヴィエ・メシアンへのオマージュ−〉(クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための)というタイトルで曲を書いてくださって。その前にピアノ協奏曲でもご縁がありました」
――細川さんが2011年以降に書いたピアノのためのエチュードのいくつかは、桃さんも初演されていて、深いつながりがありますね。 「
細川さんは、ピアノという楽器の使い方が、ペダルの使い方も素晴らしく、最大限に響きを引き出されているのです。
ショパンと同じような感じでピアニスティックに書かれているのに、ピアノではないような響きを出されている。私が
細川さんの曲を弾くときに、間の取り方をつかむのにとても閃きがあったのが、〈武生国際音楽祭〉で尺八の演奏を聴いたときのことです。演奏の仕方を考え直しました。一つの音を出す“前の”呼吸も意識しながら、どう音をつなげていくか……。
その後、
細川さんはたくさんピアノの曲を書いてくださいました。弦とオーケストラの間の響きを混ぜたようになったり、息遣いをどうするか、空間に対する意識とか、その作風は素晴らしいものです。特殊奏法は使わないで、ピアノの自然な響きだけで作りだすのです。ほかの楽器と混じったときのピアノの活かし方も素晴らしいです。オケをとりまくような音の雲を作ったり。
細川さんの音楽って、偉大な作曲家らしく、独自の世界を持っていると思うのです」
――細川さんもドビュッシーも、文学との関係の深い作曲家ですが、それは今回のレコーディングでも意識されました? 「ええ。フランス語の言葉に近い感じが
ドビュッシーの音楽にはあると思います。ただフワッとなるんじゃなくて、なめらかだけれど、区切りが明確にある。
細川さんの場合は、日本語の言葉というよりは、動きとか、日本のもっと全体的な深いものに基づいているような気がします」
2017年10月21日(土) 東京 赤坂 サントリーホール開演 18:00
[出演]
ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団 / 石丸由佳(og) / 児玉 桃(p)
[曲目]
リスト: バッハの名による前奏曲とフーガ S.260(オルガン独奏)
シェーンベルク: 管弦楽のための変奏曲 作品31
ラフマニノフ: パガニーニの主題による狂詩曲 作品43
ラヴェル: ボレロ