パリを拠点に世界的な活動を続けているピアニスト児玉桃。名プロデューサーのマンフレート・アイヒャーに認められ、2013年にラヴェル、メシアン、武満徹の作品でECMレーベルにデビューして高い評価を獲得した。2017年にはドビュッシーと細川俊夫の「エチュード」を発表して大きな話題に。それから約4年、待望の3作目がリリースされた。小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団との共演も注目のアルバムだ。
――今回のアルバムは、2006年に水戸芸術館のコンサートホール ATMで行なわれた公演のライヴ録音ですね。
「小澤征爾さんが水戸でモーツァルトのシリーズをなさっていて、それに私を呼んでくださったのです。以前、私が20歳くらいの時にオーディションを受け、小澤さんとは日本とボストンでチャイコフスキーのピアノ協奏曲(第1番)を共演させていただきました。まだ若く無名のピアニストだった私に、音楽界へのドアを開いてくださったのです。私を覚えてくださったことにも感謝しています」
――収録曲の細川俊夫「月夜の蓮」は、児玉さんが提案したのですね?
「ドイツのハンブルクでの初演後でしたが、小澤さんにこの作品のことをお話ししたら、すぐに興味を持ってくださって。“モーツァルトへのオマージュ”という副題がついていますが、曲の最後のほうにモーツァルトのピアノ協奏曲第23番の第2楽章のメロディが出てくるのです。そこでこの2曲を組み合わせることになりました。3日間のリハーサルも本番も録音していて、編集も仕上がった状態で保管されていたのです」
――「月夜の蓮」は、児玉さんが世界初演なさったのですね。
「日本でも初演でしたが、フランスとアメリカでも、その地の初演をさせていただきました。2006年はモーツァルト生誕250年でしたので、細川さんがオマージュする作品を書こうとおっしゃって。細川さんとはルツェルンの音楽祭でお会いして、やり取りをさせていただいています。とてもピアノが上手なのですが、なぜかピアノ作品は少ない。でも、ピアノ協奏曲である〈月夜の蓮〉の後、ピアノとクラリネット、ヴァイオリン、チェロのための作品、そしてECMで録音させていただいた〈エチュード〉を書いてくださいました」
左から小澤征爾、細川俊夫、児玉 桃
©Michiharu Okubo / ECM Records
――児玉さんに刺激されたのですね。「月夜の蓮」の聞きどころ、聞かせどころを教えてください。
「泥の中に根を張った蓮が、やがて成長して水面に上がり、月に向かって美しい花を咲かせる。蓮のつぼみは、祈りの手の形にもたとえられます。そんな情景から受けるインスピレーションが、よく伝わる音楽になっています。オーケストレーションは繊細で、淡い色合いながらも色彩感が豊か。ドビュッシーやラヴェルに通じる世界でもあります。フランス初演では聴衆の皆さんに深く理解いただいたようですし、アメリカ初演ではスタンディングオベーションとなりました」
――東洋的な雰囲気で、仏教思想も感じさせつつ、スタイルは西洋音楽。前衛的な作品とも一線を画す、親しみやすいが深さを感じさせる作品ですね。
「東洋的な“間”をはじめ、細かく書き込まれています。でも演奏していくと自由な流れができあがる。全体には穏やかな空気ですが、それを切り裂くような激しさもある。細川さんならではの世界ですね」
――本番では細川作品を最初に演奏したのですか?
「いえ、モーツァルトが先でした。モーツァルトにもなじみのない方には、そのメロディをお聞かせしてから細川作品を、というのがいいかもしれませんね。アルバムでは、細川さんの世界にいきなり入っていただきたくて、先にしました」
――細川さんは数あるモーツァルトのピアノ協奏曲の中から、なぜ第23番を選んだのでしょうか。
「生きる哀しみの中に希望が織り込まれた名曲の数々で、管楽器群がオペラティックに盛り上げるところも醍醐味なので、ずいぶん迷われたそうです。最終的に第23番にしたのは、第2楽章がもっとも美しい音楽のひとつだと思うからだ、とおっしゃっていました」
――小澤さんとの共演はいかがでしたか?
「リハーサルから真剣勝負でした。〈月夜の蓮〉は小澤さんにとって新曲ですが、スコアの細かい音まで頭に入っていました。細川さんにたびたび問い合わせておられたのも印象的でした。細やかに作り上げていき、一音たりとも軽んじることはありませんでした。モーツァルトへの取り組みも同じ。気になると同じパッセージを何度も繰り返します。音楽へのリスペクトが、あそこまで追求させるのでしょう。普段はにこやかなのですが、指揮台に上がった瞬間に変わります。緊張が走り、背中から熱気が上がってくる。音楽家として心から尊敬する方です」
©Marco Borggreve
――名手ぞろいの水戸室内管弦楽団はいかでしたか?
「この録音の後に水戸室内管弦楽団はヨーロッパ・ツアーを予定していて、〈月夜の蓮〉も持って行こうということになりました。残念ながら、小澤さんは体調不良のために同行されなかったのですが、ドイツ、スペイン、イタリアを巡りました。そんな中で私たち一行は家族のようになりました。ひとりひとりが個性を持った素晴らしい音楽家で、さまざまな意見を交わしながら、大きめの室内楽を作っていく。夢のような、まさにスーパー・アンサンブルです。メンバー全員が熱を込めて演奏し、演奏全体もよく聴いている。〈月夜の蓮〉はオーケストラにピアノが色彩を付けていくといったイメージなのですが、彼らとだと魔法のような色になります。モーツァルトを皆が愛し、演奏を楽しんでいることがわかります」
――細川さんとご交流がある児玉さん。ECM2作目の「エチュード」についてもお話いただけますか。
「ドビュッシーの12のエチュードを録音する企画だったのですが、カップリングに迷って細川さんにご相談したら、6つのエチュードを書いてくださいました。ドビュッシーのエチュードは12曲がバラバラに書かれたことを知り、ドビュッシーの間に細川作品を対話するかのように入れ込んでみようと考えました。その話をしたら、細川さんも“いいね”と。天国のドビュッシーも納得してくれるのでは、、と思います」
――ドビュッシー作品と細川作品が、相手の魅力を照らし合うような素敵なアルバムでしたね。
「先ほど、細川さんがめずらしい編成であるピアノとクラリネット、ヴァイオリン、チェロのための作品を書かれたと話しましたが、これはメシアンの〈世(時)の終わりのための四重奏曲〉と同じ編成で、それが意識されています。それと真逆な世界として、ミヒャエル・エンデの『モモ』の中の“時間の始まり”をテーマにしたのが〈カルテット〉です。物語の最後に、盗まれた時間が戻ってくるのです。ただ音に浸っているだけで、自然の美しさが体感できるような作品です」
©Marco Borggreve
――今後の活動のご予定を教えてください。
「エクサンプロヴァンスのイースター音楽祭の企画で、メシアン〈幼子イエスに注ぐ20のまなざし〉を無観客で配信します(現地時間4月1日20時30分〜)。また、3月25日にはパリのフランス国立管弦楽団とメシアンやシマノフスキのピアノ協奏曲で初共演を予定しています。この30年で53曲の協奏曲をレパートリーにしてきて、これでいいだろうと思っていましたが、さらにレパートリーが増えそうです」
――そのように、これから取り組みたいと思っていることはありますか?
「お家時間の時に、ずっとJ.S.バッハ作品に触れていました。〈平均律クラヴィーア曲集〉や〈ゴルトベルク変奏曲〉など鍵盤作品を弾いていただけでなく、カンタータや受難曲なども聴いていました。演奏会でもバッハ作品を取り上げたいと思っています。シューベルトのピアノ・ソナタの数々、相手をしてくださる歌手を見つけられたらシューマンの歌曲にも」
――それらがまた録音にもつながると、聴き手としては嬉しいです。ありがとうございました。
取材・文/堀江昭朗