「今回のライヴ・アルバムのタイトルつけたの俺なんだよ。(宮武)希ちゃん(※シンガー /
松永孝義の妻で、今回のアルバムの発起人でもある)が、俺にタイトルをつけてほしいって言ってくれて。俺は、松永の四分音符が好きでね。松永の四分音符っていったら、あいつの特徴だろ?」(
松竹谷 清)──そんな言葉からはじまった、今回の対談。
ミュート・ビート、
ピアニカ前田&グッド・ベイツ、
トマトス、
ロンサム・ストリングス、小松真知子と
タンゴ・クリスタル……参加したグループの名前を書き連ねていくだけでも枚挙に暇がないが、いずれのセッションでも揺るぎない存在感を示していたのがベーシストの松永孝義だ。彼が54歳という若さでこの世を去って2年が経ったが、このたび、松永の唯一のソロ・アルバム『The Main Man』(2004年)のリリースを機に行なわれた、松永孝義The Main Man Special Bandのライヴの模様を収めた実況録音盤『QUARTER NOTE』が発売されることとなった。今回は、40年近くの交流を持つピアニカ前田と、トマトスで一緒に活動した松竹谷 清に集まってもらい、松永とのエピソードを語ってもらった。
――お二人が松永さんと知り合ったのは、いつ頃なんでしょう?
前田 「僕は約40年前ですね。アマチュアのビッグ・バンドを見学に行った時、松永くんが誰かの代わりにベースを弾いてたんだよね。当時、僕は東京に出てきたばかりで、ギター、ベース、ピアノみたいなジャズのバンドをやろうと思ってたところだったんだけど、松永くんの演奏を見て声をかけた。僕も二十歳そこそこで若かったんだけど、松永くんは当時まだ高校生で。若いのにずいぶん弾けるんだって驚いた記憶がある。彼が通ってた高校と、俺が住んでたところがすごく近くてね。学校サボってちょくちょく遊びに来てた(笑)。ウチでよくベースの練習をしてたね」
ピアニカ前田
松竹谷 「ちなみにミュート・ビートに松永を紹介したのも前田です」
前田 「うん。松永くんよりも数ヵ月前に、こだまくんと知り合ってるんだよね。上京したてで荷物も何もない部屋で寝てる時に、外でケンカが起こってさ。僕の部屋にドンって人が当たってきた。“東京怖い!”って思いながらしばらくして外を見てみたら、ケンカの仲裁をしてたのがこだまくんだった。もちろんその時はお互いに面識ないんだけど、しばらくして銭湯に行ったら彼がいて“こないだ仲裁してましたね。僕、最近引っ越してきたんですよ”みたいな感じで仲良くなった」
――すごいきっかけですね(笑)。
前田 「それから10年ぐらいして、こだまくんがレゲエ・バンドをやってるって話になって、松永くんを紹介することになるんだけど、それまでの間は僕と松永くんでジャズのセッションをやったりしてた。ジャズ・バーみたいなところで、僕がピアノ弾いて、彼がベースを弾いてね。松永くんは高校卒業して、クラシックの勉強するために音大に行ったんだけど、クラシックの現場で引く手あまただったようで、松永くんが結構忙しくて」
松竹谷 「だいたい1984、85年ぐらいの話だね」
前田 「あの頃、アイツちょっと天狗になってたんじゃないかな(笑)? “N響以外は全部やった”とか言ってたからなあ」
――へぇ〜! オーケストラのサポートみたいな仕事もしながら、前田さんとジャズ・コンボのライヴもやってた?
前田 「ちょっとヒマが出来たから付き合ってやるか、みたいな感じじゃない(笑)?その当時、“前田さん、ジャズで食っていけるの?”みたいなこと言ってたし(笑)。そんな感じで一緒にやってる頃、松永くんがタンゴとレゲエをやりたいって言ってたんだよね。近所の友達に、ベーシックなレゲエをやってるヤツらがいて、じゃあちょっと一緒にやってみようかってセッションしたことがあって。松永くんはジャズもクラシックもやってるから、指がすごく動く感じのベースを弾いてたら、“そんなの全然レゲエじゃないよ!”って言われて、しょげこんで帰ったことがあった。それと同時期に、こだまくんはミュート・ビートの前身のレゲエ・バンドの“ルード・フラワー”で活動してた。そこからミュート・ビートに変わったあたりで、前任のベース(松本隆乃)が辞めたんだよね。で、こだまくんから誰かいいベースがいないか?って相談されて。一人だけレゲエやりたいってヤツがいるよって言ったら“誰?”って食いついてきて。“俺のところに来て、よくウッドベース弾いてる彼だよ”って言ったら、“ああ! あの脚の悪い人ね。あの人美しいよ!”って急に言いはじめて。だから最初は音楽がどうこうじゃなくて、見た目なんだよね。一度ライヴが見たいっていうから紹介したけど、ライヴって言ってもクラシックの弦楽五重奏とかなんだよ(笑)。こだまくんはその現場に、ちゃんとスーツにネクタイで観に行ったらしいけどね」
――おお、ちゃんと観に行かれたんですね!
前田 「観に行ってきた後に、“ベースを弓でギュンって弾くたびに、髪の毛がこう揺れるんだよね。あの人、素晴らしいよ!”って、それでミュート・ビートのベースに決まったんだよ」
――へぇ〜(驚)!
前田 「よくそんなんで一緒にやるヤツ決めるなって思うけど、すごく雰囲気がよかったんだろうね。松永くんも最初はちょっとぎこちなかったけど、半年ぐらい経ったらバッチリだったもんね。音色も急に変わったし」
――最初にレゲエのセッションでしょげ返ってた感じとは、ガラッと変わったわけですね。松竹谷さんは、当時すでにトマトスとして活動されていましたが、松永さんとの出会いは?
松竹谷 清
松竹谷 「85、6年の頃かな。もちろんミュート・ビートは好きだったし、お互い気になるバンド同士仲間だったんで〈東京ソイソース〉っていうイベントをやりだして(註:じゃがたら、ミュート・ビート、トマトス、S-Ken & Hot Bombomsを中心にインクスティック芝浦で開催されていたイベント)。それと並行して、こだまや今井(秀行 / ミュート・ビートのドラム)、松永と俺で遊びでジャズの小唄みたいなセッションをやり出して。その時に、松永が連れてきたのが前田だった」
前田 「松永が言うには、“ピアニカ前田を松竹谷に紹介したのは俺なんだよ”って自慢するし、俺だって“ミュート・ビートに松永を紹介したのは俺だよ”って(笑)」
松竹谷 「お互いに言い合ってるんだよな。まあ、それからしばらくして、松永もトマトスに参加するようになって」
――松竹谷さんが、最初に松永さんと会った頃の印象は?
松竹谷 「ミュート・ビートに参加した頃から聴いてるから、音はバッチリって感じだったよね。俺が松永のファンだったってところからはじまってますね。ちょっと偉そうに言うと、こだまのセンスと俺のセンスもちょっと違うから、俺と一緒にやったら、松永の違う部分も引き出せるかなと思った。もちろん俺も松永とやったらすごくいい感じに出来そうだなって思ったしね」
――松永さんのプレイの面で気に入ってるところは?
松永孝義
松竹谷 「音符が長いっていうのがいいですよね」
――音符が長い?
松竹谷 「さっき言ったようにアルバム・タイトルに“四分音符”ってつけたのもそうだけど、他の人なら“ボン”って切れるところが、松永さんは“ボーン”って音符に記された通りの長さをきちんと演奏する。一拍が長いんですよね。それに応えるようにしてお互いにグルーヴ出来たんで。もちろん音色も好きなんだけど、まずはその“拍の長さ”が好きですね」
前田 「松永くんの音色はすごかったね。僕が若い頃に一緒にジャズをやってたし、クラシックでも弾いてるだけに、ウッドベースの音は最高だったね。そういえば、いつかすごいこと言ってたな。“ベースはいくら音量上げてもうるさくないんだ”って(笑)」
松竹谷 「そう! 言ってた言ってた(笑)」
前田 「どこのバンドに行っても、すっげえデッカい音で弾いてたな。ミュート・ビートでもステージ上の中音の聴こえ方とかすごかったもんな。こだまの同郷の音楽の先輩で、
カルメン・マキ&OZでベースを弾いてる川上シゲさんっていう方がいて、その人の演奏も松永はすごく気に入ってたんだよね。その人もまた“ベースはいくら大きくもうるさくない”って言う人で。二人から同時に、ステレオで言われたことがあったもん(笑)」
松竹谷 「まあバカみたいに音が大きいわけじゃないんだけど、何せタッチがいいんで、音の輪郭がハッキリしてるからね。だから存在感が出ますよね」
――松永さんの元々のルーツは、ジャズ・ベースになるんですか?
前田 「いや、松永くんはジャズやクラシックはじめる前に、ロックバンドでエレキベースを弾いてたんだよね。で、高校時代にジャズでウッドベースを弾くようになってから、音大に行こうと思いはじめたらしいんだよね。で、クラシックの先生について習いはじめて、音大に進んだ」
――そうなんですか? じゃあ、ロック〜ジャズ〜クラシックと学んでいった、と。
前田 「そうこう言ってるうちに、レゲエやタンゴも演奏しはじめるんだもんね。それにしても、松永くんは聴く音楽の趣味が幅広かった」
松竹谷 「松永は、とにかくレコードが好きだったんだよね。ガンガン買ってたし、どん欲にいろんな音楽を聴いてた。音楽を楽しむっていう姿勢が、松永にはあった。純粋に音楽愛好家なんだ。プレイヤーの中には、ただ演奏するのが好きな人っていうのもいるんだけど、松永の場合は素直に音楽が好きな一人の人間っていう側面を持ってるから、それが演奏ににじみ出てるんじゃないかな。偉そうに言わせてもらうと、松永の持ってるロック感っていうのは、グルーヴ的に60年代や70年代のアメリカン・ロックからの影響が強くて。だから、パンクやニュー・ウェイヴっていう新しいグルーヴ感は、俺と一緒にやったことがきっかけで、松永の中から出てきたところはあると思う。その両極の間には、松永も大好きだった
イアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズのノーマン・ワット=ロイっていうベーシストがいるんだけどね。彼のベースっていうのは、古い音楽と新しい音楽の間に生まれる、新しいグルーヴが感じられた。松永のベースにも、次第とそういう新しいグルーヴを感じられるようになってきた」
――なるほど。
松竹谷 「文字通り“ベース”なんだから。ベースがあって、それに乗っかっていけばいいわけであって。それをロックやってる人に言わせると、まずドラムがいて、そこに乗っかるんだろって考えるタイプが多いから、よく意見が分かれるところなんだけど。でも、ベースがあって、そこに他の楽器が鳴るっていうのが新しい音楽だと思うんだ。ジャズにはじまって、リズム&ブルースやファンクと続いて……顕著に出てくるのがレゲエやサルサで。そういう意見が松永とはバッチリあったのが、一番大きいかな」」
――松永さんがリスナーとして愛好するジャンルが幅広いことが、プレイの豊かさにも反映してたんでしょうね。
松竹谷 「そうだろうね。いろんなジャンルにおいて、自分にとっての音楽とシンパシーが通じ合ってたから、松永本人のプレイにはブレがないんだよね。まぁ、今回のライヴ・アルバムで松永のやってる曲なんか、半分以上は俺が教えてやった曲だからね(笑)。1曲目の〈Momma Mo Akoma Ntutu〉は、ガーナのハイライフの曲だし。それこそ、80年代半ばぐらいに、カルメン・マキ&OZの
春日博文と、前田と松永で、アフリカ音楽のセッション・バンドをやったことがあって、その時にこの曲も演奏してるんですよ」
――そうなんですね。
前田 「そうそう。僕と松永くんで“リンガラ、イェイ!”みたいな感じでアフリカ音楽にハマってた時期があって(笑)。ちょうどその頃に来日したアフリカ系のアーティストのライヴに春日くんを連れて行ったのがきっかけだったね。それでセッションをはじめて、アフリカの3拍子にハマっていって。面白いのは、春日くんはそこから同じ3拍子でも、韓国のサムルノリに流れていったんだよね」
――片や松永さんはタンゴも演奏するようになったのは面白いですね。
前田 「そうだね。まあ、とにかく松永くんと僕とでどっぷりアフリカ音楽に浸かりまくってた時期はありましたね。そういったセッションを経て、グッド・ベイツが結成されて、後にナツメグから作品をリリースすることになった」
松竹谷 「俺にとっても、
ローランド・アルフォンソと共演したり、
チエコ・ビューティのバックやったりしたのも、松永がいたから出来たわけだからね。こちらがイメージした音を、すぐに理解して具現化して弾いてくれる。他のベーシストだったら、スムーズにはいかなかったと思う。音色同士でグルーヴできるっていうのは絶対あるし、松永だったら安心してアレンジも出来た。本当に相棒ですから」
前田 「キヨシ(松竹谷)は、本当に好きな音楽の幅が広いから、それに難なくついてこれる人っていうのは、滅多にいないからね」
松竹谷 「ついてこれるどころか、グッと上げてくれるんでね。それに、どんな音楽でも松永のフィルターを通したものにするし、スジが通ってる。俺としても、それが欲しいわけでね」
――さまざまなスタイルの音楽でも、松永さんのフィルターを通したものになっているというのは、とくに今回のライヴ・アルバムによく表れていますよね。たとえばあるジャンルの音楽の本筋を理解して吸収していっても、着地して生まれたものがまた別な音楽になっている。
松竹谷 「それがお手本にしたものに対する、本当の愛情の表現だと思いますよね。ただなぞって上手に弾くんじゃなく、自分の音で弾くっていうことが本当のリスペクトだと思うから。だから、松永は、音楽に対する愛情がありますね。他に対する愛情はわからないけど(笑)」
前田 「(笑)。あ、将棋に対しては愛情あったと思うよ。松永くんは、ものすごく将棋指すのが好きだった。将棋の月刊誌も買ってたぐらいで」
松竹谷 「そうだそうだ! 前田が松永に将棋で勝っちゃったことがあったよな」
前田 「いや〜、まったくアルバムに関係ないエピソードで恐縮なんだけど……まあ、死んだほうが悪いってことで(笑)。二十代前半のジャズ・バーで一緒にセッションしてた頃、六本木でライヴ終わってから車に便乗して帰る時に、自分の家じゃなく松永くんの家に泊まることもあったんだよね。で、家に戻ったら“一局、指すか?”って流れになって。その頃、僕も詰将棋にハマってて、一生懸命研究してたんだよ。で、松永くんと将棋指してる時に、その研究の成果が急に発揮されて、僕が松永くんに勝っちゃって(笑)。そしたら、このままおとなしく帰してもらえない感じになって、翌朝起きてからも将棋盤出してきてね(笑)。それでも、松永も負け続けたわけじゃないんだけど、その日の勝率は僕のほうがよかったんだよね。そういうことは、今までありえないことで。夕方になるまでずーっと将棋やってたら、お母さんから“食事が出来ましたよ”って呼ばれて、夕飯をごちそうになってね。その日、僕は“夜に仕事があるから帰らないといけない”って言ったら、松永が“ナニ!?”って怒りはじめてさあ。家族と一緒の食事中にだよ? 松永のお父さん、お母さん、たまたま実家に戻ってたお兄さんとお嫁さん、そういう一家団欒の時に“お前、このまま帰るつもりかよ! ふざけんじゃねぇよ!”って、バシッ!って箸を投げられて」
――ええーーっ!?
前田 「その時の空気の凍り方といったら、もう(笑)」
一同 (爆笑)
前田 「いや、俺と松永は理由はわかるよ。でも、お父さんとかお母さんとか、特にお兄さんの奥さんなんかは、まったく状況を理解できてないじゃん。“この人、もしかして、義理の弟にすごいことしたんじゃないかしら?”ぐらいに思ってるはずでね」
松竹谷 「松永に将棋で勝ったのは、その時だけだよな」
前田 「たまたまその時だけ、勝つのが多かっただけなんだけどね。でも、あの時の光景はよく覚えてるな(笑)」
松竹谷 「まあ、なんせ気が短いんですよ(笑)」
――意外な感じがします。
前田 「セッションで関わるぐらいの関係性だと、そこまで感じないかもしれないけど、ベタでバンドをやってる人は、気が短いっていうのはわかるんじゃないかな。それこそ、こだまくんとかは、そういう部分をよく知ってると思うよ。そういえば、なんでここに、こだまがいないんだよ(笑)!」
――では最後に、松永さんが遺したものとはなんでしょう?
松竹谷 「朝本(浩文)なんかは、“松永さんだったらこう来るだろう”っていうのをイメージしてトラックを作ってるって、いつも言ってるんだよね。松永が亡くなって2年が経つけど、彼がいないっていう不在を感じることはある。だけど、今でもいつも一緒にやってますね。そうイメージをしながら、演奏してる。だから、音楽やる時には、常に松永がそこいるんですよ。いつも彼のベースが鳴ってる。そういう感覚が自然とあるんでね……不在が故に、ますます存在感が増してきてるような。松永が遺してくれたのは、そういうものなんじゃないかな」
松永孝義 三回忌ライブ
松永孝義 The Main Man Special Band 『QUARTER NOTE』 CD発売記念ライブ
2014年7月11日(金)東京 西麻布 新世界〒106-0031 東京都港区西麻布1-8-4 三保谷硝子 B1 / 03-5772-6767出演: 松永孝義 The Main Man Special Band
桜井芳樹(g) / 増井朗人(trb) / 矢口博康(sax, cl) / 福島ピート幹夫(Sax) / エマーソン北村(key, cho) / 井ノ浦英雄(dr, per) / ANNSAN(per)/ 松永希(宮武希)(Vo, Cho) / ayako_HaLo(Cho)
ゲスト: 松竹谷清(vo, g) / ピアニカ前田(pianica) / 山内雄喜(Lagoon / slack-key g) / 田村玄一(steel g)
開場 19:00 / 開演 20:00
前売 / ご予約 3,000円 (税込 / 別途ドリンク代)[お問い合わせ / ご予約]
新世界 03-5772-6767
shinsekai9.jp/2014/07/11/the-main-man-special-band