コンサート<1974[ICHI KYU NANA YON]>開催記念 特別企画 矢野 誠×南 佳孝対談、あがた森魚インタビュー

南佳孝   2011/04/28掲載
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 コンサート<1974[ICHI KYU NANA YON]>開催記念
 特別対談 矢野 誠×南 佳孝


 埼玉県富士見市の文化会館、キラリ☆ふじみのメインホールで、<1974(イチキューナナヨン)>と題したコンサートが二夜にわたって行なわれる。5月14日の第一夜では南 佳孝が73年9月に発表した『摩天楼のヒロイン』が、15日の第二夜ではあがた森魚が74年3月に発表した『噫無情(レ・ミゼラブル)』が、ほぼ録音メンバーによって再現されるというのだから、これは見逃せない。

 73年9月21日、すでに空中分解していたはっぴいえんどが文京公会堂で一時的な再結成=解散コンサートを行ない、“日本語のロック”は第2章に突入する。その直前に発売された『摩天楼のヒロイン』と、レコーディング中だった『噫無情』は、いずれも松本 隆プロデュース、矢野 誠アレンジによるアルバムで、ロックともフォークとも違う“ニュー・ミュージック”を示唆した革新的作品だった。

 トータリティの高い詞世界と、芳醇な音世界。とりわけ矢野 誠によるオーケストレーションは、コンボ・スタイルのバンドに慣れた耳には衝撃で、無国籍都市TOKYO発の“ニュー・ミュージック”にふさわしかった。

 しかし、あまりにも贅沢なサウンドだったため、当時は『摩天楼』も『噫無情』もステージで再現されることがなく、レコードのみに残された“魔法の瞬間”として40年近く愛され続けてきたのだ。

 それを2011年のいま、ステージで観られることになったのは、矢野がキラリ☆ふじみからコンサートの企画 / プロデュースを依頼されたからである。

 この歴史的なコンサートに臨む、矢野、南に同時に取材する機会に恵まれたので、あがたへの電話インタビューを追加して、それぞれのキャリアをつなぐ裏話と、コンサートへの意気込みを訊いた。






「多くの人は名盤を再現するコンサートだと思うかもしれないけど、これは新しい試みだと思う」(矢野)


──今度のコンサートは、矢野さんがキラリ☆ふじみの音楽監督に就任されたから企画されたもの、と認識していいんですか?
矢野 誠
 矢野 誠(以下、矢野) 「いや、富士見市なりキラリ☆ふじみなりの音楽監督ってことではないんですよ。定期的にコンサートをプロデュースしませんかって依頼だったから。とくに古い作品の再現には興味がないし、コンサートのプロデュースっていうのもあまりやったことがなかった。だから、これが成功したら次を考えることになるんじゃないかな。<1974>なんてタイトルで、南くんの『摩天楼のヒロイン』と、あがたくんの『噫無情』をやると、多くの人は名盤を再現するコンサートだと思うかもしれないけど、これは新しい試みだと思うんだよ。だって、どちらも発売当時は大して売れなかったのに、発売から40年近く経ってもまだCDとして流通されてて、いつの間にか名盤と呼ばれるまでになってる。なのに『摩天楼』にしろ『噫無情』にしろ、そのアルバムの世界観をちゃんと具現化したライヴが行なわれたことが一度もない。だったらやってみるかってことですよ。初めてステージに乗るって意味では新しいわけだからね。40年近く経って、みんないい歳になった。懐かしいね〜、あのときやったことをもう一回やってみようかってハナシなら、ぼくはやらない。40年近く経って、みんないい歳になった。いまなら素直にぼくの言うことを聞いて(笑)、まな板の上に乗ってくれるかなってことだよ」
 南 佳孝(以下、南) 「あのころはみんなピリピリしてて、はっぴいえんどの連中なんか、すごい顔してプレイしてたもんね。スタジオで鈴木 茂くんに初めて会ったときの、ギターをかまえた怖〜い顔とか(笑)、忘れられないな」
 矢野 「それだけ真剣だったんだよ。風都市が関わってたミュージシャンは温和だったけど、ジャズの連中なんかは激しかったからね。ケンカはしょっちゅう、ときどき乱闘事件もありって感じだった」
──風都市が主催したはっぴいえんどの解散コンサート(アルバム『1973.9.21』となった文京公会堂のステージ)が、佳孝さんのデビュー・ライヴだったといわれてますが、その前はステージに立ったことはなかったんですか?
南 佳孝
  「ぼくははっぴいえんどなんて全然知らなくて、大学のサークルでいいかげんなジャズを唄ってたんですよ。ウチの大学にはピアノがいなかったから、先輩のバンドがライヴをやるときに桐朋音大の矢野さんがピアノでゲスト参加してた。それで矢野さんと仲良くなって、はっぴいえんどなんかを聴かされたんですよ。当時の矢野さんは洗足池の大豪邸に住んでて、ジャズ系、ロック系のいろんなミュージシャンが出入りしてた。ぼくの家は久が原だったから、近所だし、入り浸るようになって、音楽を教わったり、ミュージシャンを紹介されたりするようになった。それが71年かな。『風街ろまん』が出た頃だから」
 矢野 「ぼくは高校のときにオーストラリアに行ってて、帰ってきてからミュージシャンの仲間が大量にできた。マイルス・デイヴィス『カインド・オブ・ブルー』から始まった音楽の越境が、ちょうどロックにも伝染して、ビートルズ『サージェント・ペパーズ』『ホワイト・アルバム』を作った頃だから、みんなほかのジャンルの音楽に興味を持ってたんですよ。ウチに来るといろんなヤツがいるもんだから、矢野のところは面白いって噂が広まって、本当にいろんなヤツが来るようになった。アンプなんかも置いてあって、すぐにセッションできたのもよかったんだろうね。カルメン・マキも、山下達郎も、ブレッド&バターもって感じ。当時はたいていのヤツがまったく無名だったんだけどね」
  「坂田 明さんもいたよね?」
 矢野 「彼は当時、R&Bバンドをやってたんだ。しばらくして青山墓地で練習するようになって、音が変わった。すごくいい音になったから、ぼくが“前衛の方が合ってるんじゃない?”って言ったんだよ。それでああなったのかどうかは知らないけど」
  「♪マ〜イファ〜ニ〜かーわらーの枯ーれすーすーきー(笑)ってやつ、あったよね? <マイ・ファニー・ヴァレンタイン>が<枯れすすき>になっちゃう。当時からそういうのやってたんだ、あの人は」
 矢野 「奥さんが音大出てピアノ弾いてる人で、夫婦そろって音楽には真剣なんだけど、ギャグのセンスもあったんだよな(笑)」
和久井光司
──人前で唄ったことがなかった佳孝さんがレコード・デビューのチャンスを掴むっていうのは、どういう経緯だったんですか?
  「ぼくは72年に、当時フジテレビでやってた『リブ・ヤング』って番組の、シンガー・ソングライター・コンテストに出たんですよ。それで3位になったんで、フジテレビが何とかしてくれるって言ってたんだけど、結局何にもなくて、桑原という友だちに松本 隆を紹介された。ぼくら3人は歳も一緒だったのね。はっぴいえんどが空中分解して、松本くんは作詞家になろうか、プロデューサーになろうか考えてるような時期だったんですよ。ぼくは『リブ・ヤング』に出たあと、新宿の御苑スタジオでデモ・テープを録ってたんだけど、松本くんに相談したら、“ぼくがプロデュースするからイチからやらないか”って言ってきて、『摩天楼』に収録されることになる曲ができていくんです」
──『摩天楼』に矢野さんを起用したのはどなたのアイディアだったんですか?
  「ぼくが推薦したんですよ。松本くんがミュージカルみたいなアルバムにしようと言い出して、この曲のイントロは延ばしておこうとか、インスト・パートを曲の前につけようとか、いろいろアイディアを出してくるんで、だったら矢野さんにやってもらうしかないって言ったんです。当時、ポップスがわかってオーケストレーションができるアレンジャーなんて、ほかにいなかったから」






「単なる再現にはならないはずだし、きっと新しいことが生まれるでしょ。何が起こるか、ぼくも楽しみにしてるんですよ」(南)


──アレンジャー矢野 誠の最初の仕事は何だったんですか?
 矢野 「70年の万博で住友館の音楽を担当したのがギャラをもらった最初の仕事かな。そのあとブレッド&バターをやって、橋本(淳)筒美(京平)事務所に誘われて、いしだあゆみのアレンジなんかをやることになるんですよ。当時のいしだあゆみはヒット・シングルの一方でシャンソンやフレンチ・ポップみたいなこともやってて、アルバムのセンスはよかった。歌謡曲の世界にはぼくみたいなアレンジャーはいなかったから、橋本さん筒美さんに重宝がられて、洋楽的なポップスにしたかったら矢野にアレンジを頼む、みたいな風潮ができていくんですよ」
──じゃあ、ミュージシャンとしてのデビューはオリジナル・ムーンライダーズってことになるんですか?
 矢野 「そうだね。風都市の仲間に入って、オリジナル・ムーンライダーズで『1973.9.21』に出たのが最初。はちみつぱいが渋谷のBYGでやってるのは知ってたから、観にいって、ライヴのあと“矢野です”なんて話しかけたことがあった。そしたらメンバーはみんな冷たくて、ほとんど無視(笑)。(鈴木)慶一だけが優しくて、それから羽田の彼の家に行くようになったんですよ。そのうちフーちゃん(鈴木博文)たちと“ソウルっぽいのをやろう”ってムーンライダーズを作って、あのコンサートに出してもらったんだけど、最初の方と最後の方で間違えてるから、ライヴ盤ではフェイド・イン/フェイド・アウトにせざるをえなかった(笑)」
  「そうだったのかぁ(笑)」
 矢野 「風都市の石浦信三とか石塚幸一とか前島邦昭、それからベルウッドの三浦光紀は、みんなぼくと同い年。だから、考えてることは似てたし、自分がわからないものは“お前に任せる”って感じだった。のちに三浦がベルウッドからみんなを連れて、フィリップスに行くでしょ。ぼくはその頃、矢野顕子をやってて、キティの多賀(英典)さんとか、顕子のセンスをわかりそうな人に聴かせてまわってたのね。そしたらみんな“これはわかんない”って。だから三浦のところに持って行ったんだけど、三浦も最初は“うーん、わかんないなぁ”なんて言うんだよ。でも、“矢野さんがやりたいならいいよ”って言って受けてくれて、レコーディングに来てもひたすら寝てる(笑)。お金を持ってきてくれる人がそういう風におおらかだったっていうのが、当時の最大のポイントだろうね(笑)」
──『摩天楼』はそうとうお金がかかった音してますけど、それはショーボート(トリオ)にも三浦さんみたいなディレクターがいたってことですね?
  「どうだったんだろう?」
 矢野 「まったく憶えてない」
──すごい予算だったはずですよ。
  「ぼくは当時バイトしてて、風都市からはたった一度、コンサートのギャラを5,000円もらっただけ。だから、音楽ではまったく金にならなかったって記憶しかなくて、ミュージシャンを使いたいだけ使った『摩天楼』のオーケストレーションも、金銭的にどうなってたのかはまったく知らない。その辺はプロデューサーの松本くんと、アレンジャーの矢野さんの采配だったの?」
 矢野 「知らないよー(笑)、ぼくだって頼まれてやってたんだから」
──『摩天楼』は吉田美奈子さんの『扉の冬』と同じ日のリリースでしたけど、二枚分の予算を七:三で分けたような印象が……。
 矢野 「あっちは細野(晴臣)くんたちの“バンドのアルバム”だからね(笑)。あれが安く済んだ分がこっちにまわってきたっていうのは、ありえるかもしれない。でも、矢野はお金がかかるって言われるようになるのはそのあとなんですよ。石川セリのアルバムにオーケストラを入れたのに、スティーヴィー・ワンダーを聴いて、全部シンセでやり直したりしたからね。同じことはやりたくないって思ってるから、ぼくはシンセに飛びついたのも早かったんですよ」
  「『摩天楼』にもシンセが入ってるもんね。当時、松武(秀樹)くんは冨田(勲)さんのところの書生だったんですよ」
──へえー。
  「実は、冨田さんはその前から知ってたんです。『リブ・ヤング』に一緒に出た新藤ってパーカッションのヤツが、東京放送で富田さんと仕事したことがあったんで、彼に紹介してもらった。ぼくらはハタチちょっとのガキなのに、芋洗坂の下にあった冨田さんの家に遊びに行って、当時もう40すぎてた人を、外から“とーみーたーさーん”なんて呼んでた(笑)。奥さんに案内されて部屋に行くと、フェンダー・ローズの陰でハンダづけか何かしてた冨田さんが、“やあ”なんて出てきてさ、『月の光』を6ミリのテープで聴かせてくれたりしたんですよ」
 矢野 「シンセっていうのはウォルター・カーロスの『スイッチト・オン・バッハ』で知られるようになって、モーグがポータブルにしたことで広まったでしょ。でも、いちばん凄かったのは『月の光』。スティーヴィー・ワンダーは『月の光』を聴いてシンセを使うようになって、ぼくはスティーヴィーを聴いて石川セリのオーケストレーションを全部シンセでやり直した。音楽っていうのはそういう影響から発展していくものなんですよ」
──佳孝さんは『摩天楼』からソニーでの1作目『忘れられた夏』まで、あいだが空きましたよね。『忘れられた夏』ではいち早くブラジルの音楽を取り入れて、『摩天楼』とはまったく違う音世界を提示しますが。
  「ぼくも同じことはやりたくないんですよ。それは東京人の特徴なのかもしれない。5,000円しかくれなかった風都市が崩壊したあと、ぼくはアルファ・ミュージックと作曲家契約して、月8万の給料をもらうようになるんですよ。ぼくはまわりにも『摩天楼』一枚で終わりみたいに思われてたから、作曲で給料がもらえるなんて、ほんと嬉しかった。でも、それは前渡し金でしかなかったの。つまり、印税と相殺ってこと(笑)。アルファにいたのは2年ちょっとだと思うんだけど、いろいろあってね。それでソニーに行くんですよ。『忘れられた夏』のときも1曲、矢野さんにアレンジを頼んだんだけど、そのとき“8ビートは飽きる”とか“リズムは第三世界に向かう”って話をしたよね?」
 矢野 「そうだったね。ぼくはその頃、あがたくんの『君のこと好きなんだ』をやってたんじゃないかな。あれはセネガルのリズムに興味を持ってたころで、8ビートじゃない、アフリカ的なリズムの組み立てにトライしてた。いま聴くと全然わかってない感じだし、あのアルバムからアフリカをイメージする人はまずいないと思うけど、いろいろ試してみてたのは事実なんですよ」
  「ぼくもそうだけど、同じところには絶対戻らないんだ、矢野さんも。この世界で40年やってきて、ぼくが“天才だな、この人”と思ったのは、細野さん、教授(坂本龍一)と、矢野さんの3人だけ。だから今度のコンサートも単なる再現にはならないはずだし、きっと新しいことが生まれるでしょ。何が起こるか、ぼくも楽しみにしてるんですよ」
──『摩天楼』の全曲が聴けるコンサートは初めてですもんね。
  「うん。ステージではこれまで唄ったことがない曲もあるから、シンガーとしてはかなり大変ですよ。自分がどう唄うか、まだまったく予想できないし」
 矢野 「『摩天楼』は南くん、『噫無情』はあがたくんの名作だけど、両方とも“矢野 誠の傑作”なんですよ。それが続けて観られる、40年の経験を積んだみんなが再び集結するっていうのは事件でしょ。これが成功しなかったら次はないって覚悟でぼくはやってるんだけど、わかってもらえるかなぁ(笑)」



 あがた森魚インタビュー


「たぶん今日的な拡大解釈を矢野さんはしてくるだろうね。俺のヴォーカルがそれにどう乗っていくかは見てのお楽しみ」


──あがたさんは矢野さんに初めて会ったときのことを憶えてますか?
あがた森魚
 あがた森魚(以下、あがた) 「最初に松本くんが連れてきたんですね。たしか『噫無情』のレコーディング・メンバーでバンドをやろうってことになって、オリジナル・ムーンライダーズが生まれたんじゃない?」
──『噫無情』は、自主制作の『蓄音盤』、「赤色エレジー」を含むヒット作『乙女の儚夢』に続く3枚目のアルバムだったわけですけど、あがたさんの最高傑作だとするファンも多い。ご自身ではどう思います?
 あがた 「最高傑作かどうかはわからないけど、自分でも納得できたアルバムだよね。『乙女の儚夢』のときは想いが先走ってたから、イメージした世界を形にするので精一杯だったもの。『噫無情』のときは、松本くんが全体の流れを作ってくれたし、矢野さんのオーケストレーションがアルバムの世界観に絶妙な色づけをしてる。『蓄音盤』から、ホップ、ステップ、ジャンプって、ちゃんと成長していったって実感もあるから、大事な、思い出深い作品ですよ」
──当時『噫無情』を全曲演奏するコンサートはやってないですよね?
 あがた 「部分的にはやったけど、丸ごと演奏するっていうのはなかった。というのも、矢野さんのアレンジは変拍子があったりして非常に複雑。みんな譜面とにらめっこしながら必死で演奏するんだけど、それでも難しい。だから、『噫無情』の全曲再現は不可能だと思われていたんじゃないかな。そこが矢野さんのワン&オンリーなところで、単なるポップス職人の仕事じゃないからやっかいなわけですね。今度のコンサートもその矢野さんのサウンドのエッジの利き具合と、懐の深さがふんだんに聴けるはず。たぶんそれに加えて今日的な拡大解釈を矢野さんはしてくるだろうしね。俺のヴォーカルがそれにどう乗っていくかは見てのお楽しみ。お互いの体験してきた音楽や時間を乗り越えるような歌と音楽になると思います」


取材・文/和久井光司(2011年4月)
撮影/相澤心也



【コンサート情報】
<キラリふじみ コンサート・シリーズ──矢野誠プロデュース
1974[ICHI KYU NANA YON]>


第一夜<摩天楼のヒロイン>
●日時:5月14日(土曜)
●時間:開場18時30分 / 開演19時00分
●出演:南佳孝、上原'YUKARI'裕、小原礼、鈴木茂、駒沢裕城、武川雅寛、矢野誠

●第二夜<噫無情>
●日時:5月15日(日曜)
●時間:開場18時30分 / 開演19時00分
●出演:あがた森魚、鈴木慶一、駒沢裕城、鈴木博文、鈴木茂、武川雅寛、上原'YUKARI'裕、緑魔子、矢野誠

●チケット:一般 5,000円 / 学生 2,500円(前売・当日とも)
※両日とも日時指定・全席指定
●2夜セット券 9,500円(前売のみ ※キラリ☆ふじみのみの販売)

●チケット取り扱い:キラリ☆ふじみ / チケットぴあ:0570-02-9999(Pコード 132-030)

※小さなお子様を開場時間より終演後までお預かりいたします。
対象 1歳以上、未就学児 
定員 5名(申込順)
料金 500円
申込締切 5月7日(土曜)

主催:問い合わせ
財団法人富士見市施設管理公社
(富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ)
〒354-0021 埼玉県富士見市大字鶴馬1803−1
TEL:049-268-7788
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