紫 日本のロックの礎を築いた沖縄のバンドが、Char、BOWWOW G2とともに伝説のライヴを再現

   2023/04/13掲載
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1977年7月28日、日本武道館で「NEW WAVE CONCERT」と題されたコンサートが行なわれた。出演はChar、BOWWOW、紫という3組。現在は不動の地位を獲得している彼らも、まだまだ活動初期。若いエネルギーが武道館のステージで交差した。それから46年後となる2023年夏、日比谷野外大音楽堂にふたたびこの3組が集結する。
1977年当時、沖縄からやってきた紫は日本本土でのライヴを本格化させ、バンドとして最盛期にあった。沖縄の本土復帰からまだまだ日も浅いこの時期、彼らは内地のバンドをどのように見ていたのだろうか。当時のことや夏のライヴについて、さらには現在制作中という新作について、紫のリーダーであるジョージ紫(key)と新作を取り仕切るクリス(b)に話を聞いた。
〈祝・日比谷野音100周年 再現1977〜日本のロックの夜明け前〜 HOT STUFF 45th ANNIVERSARY〉

出演:Char、BOWWOW G2、紫

2023年8月19日(土)東京・日比谷野外大音楽堂

紫
撮影/三浦憲治
――紫というバンド名で活動を始めたのが1970年。沖縄が本土復帰する2年前だったわけですが、当時、内地での活動についてはどのように考えていたんでしょうか。
ジョージ紫「結成当初のオーディエンスはほぼ米兵ですね。ベトナム戦争が終結に向かっていくなかで(沖縄の)基地が減り、米兵も少なくなることはわかっていたんで、本土でもコンサート活動をできたらいいなと考えていました。結成時からそういう考えがあったので、本土の人たちにもわかりやすいだろうとバンド名を“紫”と漢字にしたんです。ディープ・パープルから影響を受けたということもあったし、個人的に紫色が好きだったし、“紫”という漢字はバランスがとれていてかっこいいと思ってたんですよ」
――1972年の本土復帰から海洋博(沖縄国際海洋博覧会 / 1975年7月開幕)までの時期、内地から大量の観光客がやってきましたよね。その時期についてジョージさんは『ロックとコザ〜沖縄市史資料集4』という本のなかでこう話しています。「復帰後、本土と沖縄間は自由に行き来できるようになり、音楽関係者やマスコミがどんどん沖縄にくるようになりました。そして、紫の噂を聞いて駆けつけてきたレコード会社の関係者からバンドにどんどん声がかかるようになりました」と。そうやって声がかかることについてはどう考えていたんでしょうか。
ジョージ紫「チャンスだと思っていました。ただ、そのなかにはいろんな誘いがあったと思いますね。歌謡曲路線の話もあったと思うんですけど、僕らはぜったいにやる気はなかった。紫は徳間ジャパンと契約したんですけど、あくまでも“僕らの好きなようにやっていい”という話だったんですよ」
――1976年4月のファースト・アルバムを聴くとその姿勢はよくわかりますよね。まさに混じり気のないハード・ロックです。
ジョージ紫「そうですね。かなり自由にやらせてもらいましたから。ただ、契約上どんどんアルバムを作らなくちゃいけなかったので、ファースト・アルバムを4月に出して、12月にはセカンド(『iMPACT』)を出したんですよ。沖縄でライヴハウスも経営していたので、当時はかなり忙しかった」
――その年の8月8日には大阪で開催された「8・8ロックデイ」にゲストとして登場します。これが本土初ライヴだったわけですが、そのときのことは覚えていらっしゃいますか。
ジョージ紫「“ハチハチ”(8・8ロックデイ)はアマチュアのためのコンテントで、そのゲストとして出たんですよ。一緒に出たのはウエスト・ロード・ブルース・バンドと、上田正樹とサウス・トゥ・サウス。それまでお客さんはずっと後ろのほうで観てたんですけど、僕らがやり出したら波のようにステージに押し寄せてきてびっくりしました。当時、沖縄の若者たちはおとなしかったんですよ。米兵はそんなものじゃないですけど(笑)」
――さらに、その年の10月26日、東京でもはじめてのライヴをやってますね。日比谷野音での「ロックエリア」というイベントで、出演が頭脳警察、ウエスト・ロード・ブルース・バンド、あんぜんバンド、カルメン・マキ&OZ、ファー・イースト・ファミリー・バンドなどすごい顔ぶれだったわけですが。
ジョージ紫「ありましたね、正直あんまり覚えてないけど(笑)。ファー・イースト・ファミリー・バンドにはおそらく喜多郎さんもいたと思います」
紫
ジョージ紫
――1975年ごろから内地のロック・バンドと接触する機会が増えてきたわけですけど、そうしたバンドに対してはどんな思いがあったのでしょうか。ライバル心なのか、共感なのか。
ジョージ紫「同じロックをやってるという意味では共感があったと思いますけど、日本語でやってるバンドが多かったですからね。僕はアメリカの教育しか受けていなくて、歌詞も英語で書いたほうが楽だった。海外進出も考えていたし、そういう意味では僕らとはちょっと違うと思っていたのかもしれない」
――当時とくに共感したバンドは?
ジョージ紫「やっぱりBOWWOWかな。英語でもやってましたしね。あと、当時はキーボード奏者がいたロック・バンドってそんなにいなかったんですよ。四人囃子ぐらいかな」
――そして1977年7月28日には日本武道館での「NEW WAVE CONCERT」があったわけですが、記憶に残っていることは?
ジョージ紫「そのときはCharさんとBOWWOWと何ヵ所か回って、最後が武道館だったんですね。おもしろいことにファンが3ヵ所に分かれてたんですよ。ここは紫のファン、Charさんのファン、BOWWOWのファンというふうに。拍手も別々の場所から聞こえてくる感じがしました。
Charさんはちょうど〈気絶するほど悩ましい〉がヒットしていたころで、すごい人気だったんですよ。紫も外国人の血を引いてるメンバーがいたので、ちょっとアイドル的に見られているところもあって。そういう意味ではCharさんと境遇が似たところはあったのかもしれないけど」
――このときは紫がトリを務めたそうですね。
ジョージ紫「そうですね。本編最後の曲でテンションが上がって、弾いていたハモンド(オルガン)を倒しちゃったんですよ。これで終わりだ! と。でも、アンコールがきちゃって。ハモンドが壊れてたらどうしようと思ってたんですが、無事に鳴ってほっとしました(笑)」
――それは良かったです(笑)。
ジョージ紫「後で聞いた話ですけど、影山ヒロノブくんも観に来てたみたいですね。〈8・8ロックデイ〉には彼や高崎(晃)くん、二井原(実)くんもいたそうです。まだみんな学生のころですよね」
――1977年ということは『ミュージック・ライフ』誌の人気投票で国内部門グループ第1位を獲得したりと、人気も絶頂期。2作目となるアルバム『iMPACT』を1976年末に出したあとで、バンドとしても脂が乗った時期ですよね。
ジョージ紫「いちばんノリに乗ってた時期ですね。Chibiさんのドラムもエネルギッシュでロックしていた。その年に出たライヴ・アルバム(『DOIN' OUR THING at the LIVE HOUSE MURASAKI』)を聴き返してみたら、こんな感じだったんだなと驚きました」
――武道館というと、ディープ・パープルの『ライヴ・イン・ジャパン』が録音された場所でもあり、ジョージさんにとっても思い入れがあったんじゃないですか。
ジョージ紫「そうですね。ディープ・パープルが最初に日本に来たのが1972年で、そのときは大阪のフェスティバルホールで2日間観て、1975年の来日は武道館で観ました。リッチー・ブラックモアが辞めてトミー・ボーリンがギターを弾いていたころで、メンバーにも会いました。グレン・ヒューズに紫のステッカーをあげたら、自分のベースに貼ってました(笑)」
――1975年の武道館公演はいかがでした?
ジョージ紫「トミー・ボーリンはその前にインドネシアで怪我をしてて、演奏がいまいちだったんですよ。ライヴが終わった直後にメンバーと楽屋で会ったんだけど、みんな暗い表情をしていました。そのコンサートではじつはオープニングアクトのオファーがあったんですけど、それを断ってしまって」
――えっ、なぜですか?
ジョージ紫「1975年の12月だったので、まだ僕らはデビュー・アルバムも出てなかったし、早いと思ったんですよ。もうちょっとうまくなってからやろうと。でも、実際にライヴを観て、これだったら出ればよかったと思いました(笑)」
――当時もしも紫が出てたらディープ・パープルを食ってたかもしれないですね(笑)。
ジョージ紫「あっははは、どうでしょうね。ディープ・パープルのファンに紫を観てもらうチャンスだったなと今となっては思いますけど」
紫
ジョージ紫(左)とクリス
――「NEW WAVE CONCERT」から46年後となる今年の8月、3組がふたたび揃うわけですが、この話が来たときジョージさんはどんなことを感じましたか。
ジョージ紫「当時とは僕らも彼らもバンド・メンバーが違うけど、また一緒にできるのかと思うと嬉しかったですね。このあいだフォト・セッションをやったんですけど、お互い生きててよかったねと話ました(笑)。8月まで元気でいようと」
――クリスさんはいかがですか。
クリス「“こういうことをやりたい”って話はホットスタッフさんから6〜7年ぐらい前から聞いてたんですよ。1977年当時、僕はまだ生まれてもいなかったんですけど、もしも実現したら紫のほかのメンバーは嬉しいだろうし、実現したいですねという話をしていました。コロナ禍もあってなかなか難しい状況だったんですけど、僕らのドキュメンタリー映画(『紫 MURASAKI 〜伝説のロック・スピリッツ』)があったり、日比谷野音100周年のタイミングがあったり、いろんな条件が重なって今回実現することになったんです。
昨日出演者全員が集まる機会があったんですけど、みなさんレジェンドだけに圧がすごくて(笑)。なんで俺はここにいるんだろう? と不思議な気持ちになりました」
紫
撮影/三浦憲治
――先ほど話に出たように、紫がはじめて東京でライヴをやったのも日比谷野音だったわけですけど、野音という会場についてはどんな思いがありますか。
クリス「そういえば僕と(ヴォーカルの)JJが入った今の編成ではじめてやった東京のライヴも野音だったんですよ」
ジョージ紫「ブルース・クリエイション、頭脳警察、めんたんぴんが出てね(2008年5月18日の「Japan Rock Band Fes.2008」)。野音はけっこうやってるんですよ。紫でもやってるし、80年代はマリナーでもやってて。今回は8月なので、かなり暑くなりそうですよね」
クリス「いろんな意味で灼熱のイヴェントになると思いますよ。この3バンドが集まることもなかなかないので、何かスペシャルなことができればと思っています」
――ところで、ニュー・アルバムの制作も進めてるそうですね。ドキュメンタリー映画(『紫 MURASAKI 〜伝説のロック・スピリッツ』)にもあったように、アルバム制作はクリスさんの発案だったようですが。
クリス「僕は“もう作らない”とゴネてたんですよ。CDを作るとなるとプロモーションしないといけないし、ライヴもやらないといけない。やることがすごく多いじゃないですか。僕はともかく、メンバーみんなそれなりの年齢だし、コロナのこともあった。いろんなリスクを考えると、ちょっと無理じゃない? ってずっと思ってたんですよ」
紫
クリス
――なるほど。
ジョージ紫「(紫の活動をモチーフにした)『ミラクルシティコザ』という映画が作られることになって、そのなかで紫の音楽が使われたり、クリスが劇伴をやることになったんですね。その流れのなかでドキュメンタリーの話も出てきて、だったらアルバムもやろうと」
クリス「ドキュメンタリーのほうで新しく曲を作ってほしいというオファーがあったんです。そこまでやるんだったらアルバムもやるかと。この人(ジョージ)は覚えてるかわからないですけど、“アルバムを作るんだったらこれが最後だ”という言い方をしたんですよ。そこまで言うんだったら作りましょうかと」
――映画のなかでその新曲「Raise Your Voice」が使われてますが、まさに紫の復活を宣言する曲ですよね。エネルギーに満ちあふれていて、本当に驚きました。音の質感も現代のメタル・サウンドですし。
クリス「ありがとうございます。ドキュメンタリーにもありますけど、ジョージさんは僕が作ったデモを聴いて“もっとテンポを上げろ”と言うんですよ。30年後にあの曲を演奏したくないですよね(笑)」
――たしかに70代であの演奏を楽々こなすのは超人的ですよ。
クリス「アルバムとしてはジョージさんが持ってるオールドスクール的な部分と、僕が持ってるものが半々ぐらいになるようなバランスのアルバムにしたいなと思ってて。いわゆるストレートなハード・ロックもあれば、映画で使ったようなスピーディな曲もあれば、優しいバラードもありつつ、ちょっとプログレッシヴな部分もありつつ」
ジョージ紫「おぼろげなテーマとしては“Time will not wait”ということ。人生は待ってくれないということですね。だから、今のうちにやろうと」
クリス「今回は締め切りがあるからね、その意味でも“Time will not wait”(笑)。僕にはジョージさんが言った“アルバムを作るんだったらこれが最後だ”という言葉が刺さった。紫はどのメンバーも個々で動くことができるので、それまでは自分のアルバムを作ればいいじゃん、と思ってたんですよ」
――それでもジョージさんは紫というバンドにこだわってる。
ジョージ紫「こだわってる……そうなのかもね。腐れ縁的なところもあるのかもしれない」
――最後に8月のライヴに向けた意気込みをあらためて。
クリス「新しいアルバムの曲も何曲かやると思います。“当時やっていた曲もやってくれ”と言われているので、幅広いセットになると思います」
ジョージ紫「当時からのファンや新しいファンも含めて、みんなが一体になって楽しめるイベントになってほしい。みんなが本当に楽しめて、記憶に残るような演奏ができたらいいなと思ってます」


取材・文/大石 始
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