10月20日にアルバム
『イスラメイ−100年の時を経て甦る、ピアノの黄金時代』でデビューを飾る
長富彩。なんでも日本コロムビアが10年来探し続けた末に出会った逸材ピアニストとあって、大きな期待と注目を集めている。収録曲は、彼女の華やかなデビューに相応しく、技術的にも音楽表現的にも難易度の高いヴィルトゥオーゾ的な作品群だ。そして録音に使用されたピアノは、1912年製のニューヨーク・スタインウェイCD368。
ルービンシュタインや
ホロヴィッツら往年の巨匠たちが愛した楽器であり、当時の演奏会で使われていたモデルである。録音にかけた想い、ピアノに向き合い続ける長富のこれまでと今について話を聞いた。
――長富彩さんのデビューまでの道のりを教えてください。ピアノを始めたのはいつ頃ですか?
長富彩(以下、同) 「3歳の時です。父は声楽家、母もピアニストですから、環境としては恵まれていましたね。ただ、母はピアニストとして生きていくのは大変な道のりだということがわかっているだけに、すごく厳しかったです。普段は友だちのように仲がいいのに、練習中は戦争のようになりました。父も音楽家としてのアドバイスをくれるんですが、それはごくたまに。だからこそ、いいアクセントになるんです」
――ピアニストになろうと思ったきっかけは?
「ピアノはごく当たり前の存在で、自然に続けてきたので、ピアニストが“大きな夢”というように意識したことはなかったです。昔は本能だけで弾くようなタイプで、“じゃじゃ馬”って言われていました。“おもちゃ箱をひっくり返したような演奏はやめて”と叱られたり(笑)。でも、そんな私の自由奔放さを伸ばしてくださり、また歯止めをかけてしっかり育ててくださった先生方には感謝しています」
――東京音楽大学の付属高校を卒業後、ハンガリーに渡り、リスト音楽院で学ばれていますね。十代で単身渡欧したときは、どのような気持ちでしたか?
「解放感がありましたね。不安はあっても、それを認識することは嫌い。いつでも“なんとかなるさ”と楽観的なんです。ハンガリーでのレッスンはのんびりしていて、先生はレッスンの時いつもピーナッツをつまんでいました(笑)。舞曲のレッスンでは先生と腕を組んでダンスをしたことも。ヨーロッパは生活自体にも余裕があって、国の生活スタイルの違いから、私自身にも余裕がでた気がします」
――2年後に一時帰国されて、さらにアメリカに渡っていますね。
「アメリカでは、ニューヨークで個人レッスンを受けていました。ニューヨークは生活もレッスンも、ハンガリーとまたまったく違っていましたね。とてもエネルギーのある、活性感のある街でした」
――ニューヨークといえば音楽の殿堂カーネギーホールがありますが、今回のデビュー盤で長富さんが演奏されたピアノは、まさにカーネギーでも愛され続けたニューヨーク・スタインウェイですね。
「1912年に作られたピアノです。中音域の豊かな優しい音が魅力。でも、弾き始めたときは、コントロールが必要なので大変でした。どんな弾き方をしてもきれいに鳴るという楽器ではないですから。無神経に触れれば、仕返しみたいにバーンと鳴ってしまう。逆にこちらが遠慮してしまうと、ピアノの方も“僕も遠慮する”と言ってくる感じ。でも一度応えてくれると、どんどんいろんな音を出してリードしてくれるようでした」
「東欧やロシアの作曲家の作品は、すごく自分の身体に馴染んでいる気がしているんです。いつも父が
ドヴォルザークやチャイコフスキーを聴いていて、私が母のお腹の中にいた頃からずっと家で流れていましたから、故郷の音楽のように思っています」
――ご家族とは、今もよく一緒に過ごされていますか?
「そうですね。最近は毎朝4時に起きて、父と犬の散歩に行くんです。それぞれの自転車の籠に一匹ずつ犬を乗せて。近くの地平線が見える河原まで出かけて、犬と朝日が昇るのを眺める。そうすると一日に張りが出るんです」
――健康的ですね! ほかにも楽しんでいる趣味は?
「料理は、どこか音楽と似ているところがあって好きです。凝り性なので、作るなら徹底的に、最高においしく作りたい。カレーならスパイスから完全に調理しますし、パンもひたすら手でこねてバンバン投げてやってます。でも片付けがイヤなんですよね。全部とっ散らかしたまま終わるんです(笑)」
――ピアニストとして、どのような演奏を続けていきたいですか?
「心で弾くということだけは、失いたくないですね。忙しさに追われたり、ピアノだけに向き合っていても、いろいろな感情が生まれてきませんから、やりたいことは全部やって、後悔なく生きていきたい。経験からいろいろな感情を収穫して、その気持ちを素直にぶつける演奏をしていきたいと思っています」
取材・文/飯田有抄(2010年9月)