いわゆる社会的な問題、政治的なイシューについて“語りたがらない”“距離を置きたい”人たちの数の多さに今さらながら驚いている日々である。筆者(しがない中年の音楽ライター)はデモに頻繁に行ったり、自分の政治的な意見をバンバン発信するタイプではないし、若いときはどう考えてもノンポリだったが、ここ10年くらいの日本の状況は明らかにマズいし、このまま放置していけば社会はまちがいなく悪くなる。私が考える良い社会のイメージは(めちゃくちゃザックリだが)人間の多様性を認め、なるべく多くの人が気分よく暮らせるというものだが、“まず国のために何かできるかを考えろ”だの“LGBTは生産性がない”だの、なんだそれ?!としかいいようがない発言をしている人間が国会議員なのだから、これはもうノンポリを気取ってる場合ではない。
ところが前述した通り、そういう話をフツーに出来る環境はハッキリ言って、この国には存在しない。芸術やエンターテインメントの世界もほぼ同じで、ヒットしているもののほとんどは、現実から目を逸らさせ、ほとんど意味のない、刹那的な楽しさを与えるものばかりだ。もちろん、そうじゃないアーティストもたくさんいる。
坂本龍一、
後藤正文などをはじめ、社会的な問題に関わり、それを作品に反映させることができる人もいる。しかし、いまだに“音楽に政治を持ち込むな”派は存在しているし、その勢力はさらに強くなっているようにも感じる。どんだけ現実逃避すれば気が済むんだ。表現とは本来、社会に向き合うことでもあるんだぞ。
テイラー・スウィフトはすごいな。いまのアメリカの政治は最悪だけど、ポップカルチャーの強さは日本とは比べ物にならないな――などと一人で憤っていたときに届いたのが、
中村 中の新作『
るつぼ』だった。
メディア用に作成された『るつぼ』の資料には、“現代の「おかしなこと」を歌う意欲作”とある。上からの指示に押しつぶされそうになっている人、格差社会のなかでもがき苦しむ人、いじめが原因で引きこもりゲームの世界に埋没する人、心ない言葉が飛び交うインターネットのなかで生きる人。『るつぼ』に収録された楽曲で描かれている人々は、いまの日本に無数に存在している。そう、このアルバムは“2018年の日本”そのものだ。 ここまで読んでくれた方(ありがとうございます)のなかには“前置き長い”と感じる人もいるだろう。筆者もそう思うが、こういう原稿になっているのには理由がある。本作『るつぼ』の取材の冒頭、中村 中はまっすぐにこっちを見て、こう言ったのだ。
「まず、アルバムを聴いた感想を聴かせていただけますか?」
『るつぼ』を聴いて、思うところがありまくった筆者は、長々と感想を述べさせてもらった。そのとき話したことをまとめたのものが、冒頭の“前置き”である。それを受けて彼女は、「ありがとうございます。まさにいまの話を載せてほしいんですよ」と言ったのだった。
「いまのお話を私なりに噛み砕くと、“日本は今後、どうなっていくか心配になった”ということだと思うんですが、そのことを発信してほしいんですよね。このアルバムは“インタビューを受けるのが難しいだろうな”と思ったんです。喋りすぎて聞き手の発想力を奪いたくないというか。アルバムにはインターネットの歌も入ってるんですが、考える前に検索して、すぐに答えを求めたがる傾向がある気がするんですね。もっと自分の感覚で生きていいし、好き嫌いで物事を判断してもいい。だからこのアルバムについても、私が説明するのではなくて、聴いてくれた方々が“私はこう思った”“俺はこう感じた”ということを発信してほしいと思っていて。そうやって自分の感覚を鍛えていかないと、どんどん長いものに巻かれて、“自分はマジョリティだと思って安心してたのに、実はそこに自分はなかった”ということになるんじゃないかなって」
答えをあらかじめ用意するのではなく、聴き手に対し“あなたはどう感じますか?”と思考を促す。『るつぼ』はそういう作品である。「今日も上から下へ丸投げ 骨折り損の幕開け」(「羊の群れ」)、「一体 誰が僕のこと 人間として見てくれた」(「箱庭」)、「平成最後の日本の空には 見えない蜘蛛の巣」(「蜘蛛の巣」)といった歌詞がいまの社会の写し鏡であることはまちがいないと思うが、その言葉をどう受け止め、どう行動するか(しないか)はすべて“あなた次第”というわけだ。
『るつぼ』の中心にあるのは、美しく繊細な筆致と、現代社会に対する冷徹な視線がひとつになった歌詞だろう。
大竹しのぶ、
藤あや子などへの楽曲提供でも知られる中村。日本語の響き、奥深い意味合いを存分に活かした歌詞の世界は、本作によって、さらなる高みへと達している。
「気を付けて歌詞を書きましたね、今回は。私たちは“るつぼ”のなかで生きざるを得ないわけですが、だからと言って、不本意な力の渦に巻き込まれ、流されるような歌詞を書いてはいけないな、と。つまり、自分の言葉で書くということですよね。“こういう言葉のほうが伝わりやすいから”ではなくて、“私がこの言い方をしたい”という理由で書こうと思っていたので。変な言い回しでも、そうしないといけないなって。あとはそうだな、現代における“おかしいこと”というのは、大半が人間が作り出しているものじゃないですか。その当事者にとっては“うるさいな”と感じることも含まれてるだろうけど、そこを気にして書いてちゃいけないとも思ってました。ウソがない表現? それはどうなのかな……ちょっと持ち帰って考えてもいいですか(笑)。でも、シンガー・ソングライターの仕事って、そういうことですよね。私自身ブレるし、迷うことも多いけど、ウソがない歌を書きたいとは思っているので。残す意味があるものだけを書こうという気持ちも強くなっていますね。それはずっと意識していたことなんだけど、振り返ってみると“甘かったな”と感じるところもあるので」
収録曲の内容を詳しく説明することは避けたいが(まずはできるだけ先入観を持たず、初めて世界を見る人のように聴いてほしいと思う)、アルバムの最後に収められている楽曲にだけは触れておく必要がある。中村自身の言葉によると、『るつぼ』に収録された10曲のうち、世の中の“おかしなこと”を描き出した1曲目から9曲目は“前座”のようなもので、アルバムのキモは最後の「孤独を歩こう」なのだという。
「〈孤独を歩こう〉で歌っていることは、いつも思っていることです。この曲には“神様”という言葉が出て来るんだけど、神は民を導くもので、神の意志ひとつで民は良い場所に導かれることもあるし、良くないところに連れていかれることもある。でも私は“そんなものは必要ない”と思ってるんです。誰かに守ってもらうことも、導いてもらうことも必要ないなって。なぜなら、私が信じているのは人間であり、自分だから。大切な"君"に顔向け出来ないような生き方をしなければ、それでいいんですよね。そのためには自分の感覚を磨いて、まわりに惑わされないで、自分の判断で生きられるようにしないと。〈羊の群れ〉みたいな状況にいる人は“そんな生き方、簡単にできないよ”と思うかもしれない。だけど、“いつか出し抜いてやる”という気持ちは持っていてほしいなって」
もうひとつ記しておきたいのは、このアルバムが音楽として優れているという事実だ。創作のモチベーションは上記の通りだが、歌詞の情景とストーリーを際立たせるメロディ、
かどしゅんたろう(ds)、えらめぐみ(b)といった新進ミュージシャンたちによる演奏、丸山 桂、森 佑允などの気鋭のトラックメイカーたちによるサウンド、そして、楽曲に豊かな感情を与えるヴォーカル。確かな技術に支えられたプロダクションによって、ヒリヒリとした手触りと切実なメッセージ性をたたえた“歌”がまっすぐに響く――これこそが本作『るつぼ』の醍醐味だろう。しかし、何度も言うが、このアルバムを聴いてどう感じるか、どう受け止めるかは、すべてあなたの自由だ。
「私は、音楽を聴くだけで、聴いてくれる人が苦しみから解放されるわけではないと思っているんです。望んでいるのは、『るつぼ』を聴いた人のなかで自分の“好き”が明確になったり、新しい感覚が芽生えたりしたら良いなというくらいで。それが動き出す力、生きる力を養うことにつながればなって。……でも、受け取り方は何でもいいし、自由に聴いてもらえればそれでいいんですよね、やっぱり。“わからなかった”でも“好きじゃない”でも良いんです。最初から解釈の仕方が決まってたり、“よかったです”しか聞こえてこないなんて、ちょっと気持ち悪いですから」
取材・文 / 森 朋之(2018年10月)