大沢伸一ワークス〜その魅力を回顧/分析
時代を巻き込みながらも、
常に革新を求めている姿勢
『SO2』
本人名義としては、約3年ぶりとなる2枚目のオリジナル・アルバム
『SO2』をリリースする
大沢伸一。彼の音楽活動を集約するのは難しい。日本のみならず、世界的に高い評価を受けているプロデューサー/コンポーザー/リミキサーであり、DJとしても依然として国内No.1の動員を誇り、当然ながら海外でも数多くのツアーを行なっている。だからとって、エレクトロ系のサウンドクリエイターだと言い切ることもできない。大沢伸一のもうひとつの顔、コラボレーション・ユニットとなっているバンド
“MONDO GROSSO”では、デビュー当時からバンドが解体するまで、長らくリーダー兼ベーシストの役割を担うプレイヤーであったし、プロデュース・ワークのなかには、アコースティック・サウンドとの親和性が高い名作も数多くある。ジャンル的にも、アシッド・ジャズ/ファンク/ソウル/ロック/ブラジリアンからヒップホップ・ソウル/2ステップ/ハウス/テクノ/ダブ/ドラムンベース/トリップホップ/ニュー・レイヴと縦横無尽。ちなみに彼の音源をダウンロードで購入すると<Alternative & Punk>というジャンルにカテゴライズされるのだが、これが果たして正解なのだろうか。確かに、アシッド・ジャズ/ディーヴァ/エレクトロといった時代を巻き込むブームを生み出しながらも、常に革新を求めている姿勢はパンクではあるのだが……。
大沢伸一は、自身が中心となって89年に京都で結成したバンド“MONDO GROSSO”(以下MG)の1stアルバム
『MONDO GOROSSO』(1993年)でメジャー・デビューを果たした。現在は、前述の通りソロ・ユニットになっているが、当初はバンド形態で活動しており、
沖野修也が主宰するアーティスト集団
<KYOTO JAZZ MASSIVE>の一員でもあった彼らのライヴ(西麻布Yellowなど)は常に超満員。UKで隆盛を誇った「ジャズで踊る」ムーブメント“アシッド・ジャズ”や“ジャズ・ファンク”に“アフロ・キューバン”など、次から次へと現れる新しいダンス・ミュージックの手法をいち早く取り込んだパフォーマンスが国内外で話題を呼び、95年には、女性シンガーの
マンデイ満ちるも参加した初のヨーロッパ・ツアーを大成功に収めた。洋楽からの影響ではなく、
ブラン・ニュー・ヘヴィーズや
ヤング・ディサイプルズ、
ガリアーノといったアーティストの交流から生まれる音楽は、世界との同時代性を強く感じさせてくれるものでもあった。しかし、やがて彼は、ジャングルなどが流行り出したヨーロッパの音楽シーンから離れ、ニューヨーク発のR&Bポップ〜ヒップホップ・ソウルに大きな可能性を感じるようになり、4枚目のアルバム
『Born Free』(1995年)のリミックス盤の制作が、のちのプロデュース・ワークにも色濃く反映されていくことになる。
『Closer』
MGは96年のライヴを最後に、デビュー当初の中心メンバーが脱退。大沢のソロ・ユニットとなってからもコンスタントに制作を続けていたが、ジャジーなR&Bがつまった7枚目のアルバム
『Closer』(97年)を発表後、大沢はプロデュース業に専念するためにMGとしてのオリジナル作品の制作を休止。セルフ・プロデュース能力の高いマンデイ満ちるのアルバム
『デリシャス・ポイズン』(96年)には、彼女のフュージュン〜ヨーロピアン・ジャズ志向を具現化するバック・バンド“ザ・パラドックス”の一員として参加し、続くヒーリング系のダンス・アルバム
『マーメイド』(98年)では、アレンジやリミックス、プログラミングでのバックアップを担当していたが、MG休止以前のプロデュース・ワークとして欠かせないのは、
UAと
Charaとの出会いであろう。
UA『11』
8組のプロデューサーが参加したUAのアルバム
『11』(96年)で大沢が手がけたオープニング曲「リズム」(クールなUKソウル仕様)では、のちに“ディーヴァ”や“歌姫”とカテゴライズされるようになる和製R&Bブームの到来を高らかと告げ、タイトル曲を含む2曲を共作したCharaの大ヒット・アルバム
『ジュニア・スウィート』(97年)は、彼女のソウル・シンガーとしての才能を開花させるアレンジが光っていた。
クラブ・シーンとポップ・シーン、
洋楽と邦楽を自由に行き来しながら、
次々と優れた作品を生み出していく――
98年には、クラブ・ミュージックを軸にしたレーベル<ソニーアソシエイテッド・レコーズ>に移籍し、99年には同社内に自身のレーベル“RealEyes”を発足。新レーベル第1弾アーティストとして、当時23歳のシンガー、
birdをデビューさせた。生楽器の香りが強いソウル/R&B/ジャズに乗せられたヴォーカルには人肌感覚の心地よさがあり、彼女は一躍、広く一般にも受け入れられる存在となった。また、彼は同時期に、フォーキー・ソウルと形容された
wyolicaのプロデュースも手がけている。彼らの音楽には、R&Bをそのまま表現するのではなく、日本人なりの解釈を通した日常サイズの和み感があり、birdとはまた異なる大沢ワークの多彩さをみせた。翌年には、
FPMの田中知之や
Masters At Workも参加したコンピ・アルバム
『SAKURAHILLS DISCO 3000』(2000年)をリリース。沖野が経営するクラブ<THE ROOM>(渋谷区桜丘)でかかるような<ルーム・クラシック>(分かりやすく言うと、メロディが良くて、泣きながら踊れるような曲)をテーマにしたディスコ・アルバムをもって、21世紀に突入。
『MG4』
同年4月にはbirdをフィーチャーし、大ヒットしたスピリチュアルなソウル・ナンバー「LIFE」を含むMONDO GROSSO名義のアルバム
『MG4』を世界23ヵ国でリリース。その後も、クラブ・シーンとポップ・シーン、洋楽と邦楽を自由に行き来しながら、次々と優れた作品を生み出していった。当時若干14歳の
Crystal Kayをヴォーカルに迎えた“
藤原ヒロシ+大沢伸一”名義の映画主題歌「LOST CHILD」(2001年)、高速ワルツのジャズ・ポップとなった
中島美嘉の7thシングル
「Love Addicted」(2003年)や
平井堅の
「Nostalgia」(2004年)など立て続けにプロデュース。また、当時そのフィーチャリング・センスが話題となった
BoAが歌う
「EVERYTHING NEED LOVE」、さらに
Dragon Ashの
Kjを迎えた
「SHINING」やUAとの久しぶりの再会となった「光」を収録したMONDO GROSSO名義のアルバム
『Next Wave』(2003年)も大きな反響を集めた。2004年以降は、国内外のさまざまなアーティストのリミックスや、新人シンガー・
信近エリのプロデュースに加え、自身のレギュラー・パーティ名
『FEARLESS』をタイトルとしたミックスCDやコンピレーション・アルバムを通した新人の紹介や育成、隠れた佳曲の発掘に力を入れていたが、2006年にavexへの移籍が決定。
『The One』
レーベル移籍第1弾プロダクツは、フランスのクリエイター集団<Kitsune>とタッグを組んだミックスCD
『KITSUNE UDON』(2007年)となったが、同年9月には、前作『Next Wave』から約4年ぶり、ソロ名義としては1作目となる
『The One』が到着。のちに、ロックを導入したエレクトロ・サウンドが世界的な潮流となるのはご存じの通りだが、エッジーでアグレッシヴなトラックの根底に流れていた“歌もの”への回帰は、J-POPシーンにも強い影響を与えており、現在まで続くエレクトロ・ブームを巻き起こすきっかけとなった。2009年には、彼がプロデュースして大ヒットした
安室奈美恵の「WHAT A FEELING」のセルフ・リミックスなどを始めとする国内外のリミックス・ワークを集めた
『TEPPAN-YAKI A COLLECTION OF REMIXES』、そしてavexの20周年を記念して結成された、FPMの田中知之、
m-floの☆Taku Takahashiとのプロデュース・チーム
“ravex”として、BoA、
DJ OZMA、
後藤真希や
土屋アンナなどのavexのアーティストをヴォーカリストとして迎えて制作されたお祭りアルバム
『trax』をリリース。そして、いよいよ発表された彼の新作『SO2』は、メロディやハーモニーよりもよりリズムに焦点が絞られており、ダンスに不可欠なビートの源流に迫っている印象を受けた。それは、エレクトロ・ハウスやミニマル・テクノを含むさまざまな音楽から、自らの感性に沿った取捨選択とハイブリッドな交合を果たした、次世代ダンス・ミュージックの到来を想起させる独自ブレンドの音楽となっている。
彼の音楽にジャンルのラベルは似合わない。「音楽にジャンルはない。あるのは良い音楽と悪い音楽だけだ」という名言を残したデューク・エリントンの言葉を借りるのであれば、大沢は、あらゆるジャンルを飲み込んだ良い音楽、現代を生きる人々の心と身体が自然と弾むような最新のダンス・ミュージックを創り出す、“愛と裏切りとユーモアをもった音楽家”と言うことができるだろう。
文/永堀アツオ