セルゲイ・ナカリャコフ 世界有数のトランペット奏者が新作アルバムで挑んだヴィトマン作曲の超難曲

セルゲイ・ナカリャコフ   2023/10/27掲載
 1992年にドイツの旧TELDEC(テルデック)レーベルから15歳の若さでCDデビューを果たし、華麗なるテクニックと温かみのある音色、幅広いレパートリーで聴衆を魅了してきたトランペット / フリューゲルホルン奏者。その凜々しくも甘い容姿も相まって日本ではアイドル的な人気も博し、NHK連続テレビ小説『天うらら』(1998年)のテーマ曲奏者にフィーチャーされたり、五木寛之のベストセラー随筆を原作とした映画『大河の一滴』(2001年)にロシア人トランペッター役で出演するなどの活躍をみせた。そんなナカリャコフも現在46歳。近年では樫本大進が音楽監督を務める「ル・ポン国際音楽祭」やピアノ界の巨匠が主催する「別府アルゲリッチ音楽祭」出演でもクラシック・ファンの熱い視線を集めている。今年も昨年に続いて「サントリーホール ARKクラシックス」のさまざまなステージに登場し、聴衆を大いに沸かせたばかりだ。
――「サントリーホール ARKクラシックス」、今年は計4夜に出演されました。
「昨年も全力を出しましたが、今年は(イェルク・)ヴィトマン作品が最初の出番だったのでとくに集中して臨みました。ほかにも日本のトップ金管奏者が集結したARK BRASSとはアンサンブルの魅力を、ピアノの髙木(竜馬)さんと辻井(伸行)さんとの共演ではそれぞれのデュオの魅力を、サントリーホール ブルーローズの親密な空間で皆さんに楽しんでいただけたと思います」
――やはり圧巻は、世界的に注目されている作曲家のヴィトマンが書いた、“循環呼吸”を自在に駆使するあなたにしか演奏不可能といわれている、トランペット史上もっとも超絶技巧を要する「不条理~トランペット小協奏曲」でした!
※循環呼吸:鼻でブレスする間、口にためた空気を使用してプレイを続ける特殊な演奏法で、まるで息継ぎをまったくしていないように聴こえる。ヴィトマン作曲の本曲では頻繁にこの技法が求められ、とくに冒頭では約2分間にわたって循環呼吸+超絶技巧が要求される。
「本当にクレイジーな曲なんです(笑)。しかもトランペットだけでなく、小オーケストラの各楽器にもそれぞれの限界を強いる。でも伊藤(翔)さん指揮するARKシンフォニエッタが事前にしっかりと準備してくれていたので、本番はとてもすばらしいものになりました。残念なのは自分のステージを聴衆として生で体験することができない点でしょうか(笑)」
――実際にこの目で見るまでは信じられませんでした、どうやって音を出しているんだろうって。冒頭も壮絶ですが、最後のほうに登場して半音階を多用するバレル・オルガン(自動オルガンの一種)の音色がまるで電子楽器のようで、トランペットとサウンド対決するところも聴きどころですね。
「まさにあそこは機械仕掛けの楽器 vs 人の手による生身の演奏との真剣勝負になっています。ただバレル・オルガンの装置があまりに大がかりなために、今回のARKクラシックスのステージでは録音を使用しました」
セルゲイ・ナカリャコフ
――そもそも「不条理~トランペット小協奏曲」はどのようにして誕生したのですか?
「ある日彼(ヴィトマン)から連絡があって“あなたのために曲を書きたい”と言われたんです。ミュンヘンで会うことになって、彼の教室に自分の楽器を持って伺い、そこでデモンストレーションのようにいろんなテクニックを披露しました。当時私は現代音楽について明るいほうではなかったので、そういう方法が一般的なのかどうかはわかりませんでしたが“とにかく技巧の限界まで行きたい”ということでしたので、彼が楽器演奏という身体的刺激から直接インスピレーションを得ようとしていることは理解できました」
――2002年に曲が完成して、最初に楽譜を見た時の第一印象はいかがでしたか?
「楽譜が真っ黒で、すごく怖かった(笑)。じつは、皆さんが聴いている作品はセカンド・ヴァージョンです。初稿譜はひとつのラインが15分間も続くありえないものだったので、実際に演奏されることはありませんでした。彼に“君は循環呼吸ができるから大丈夫だよね?”って言われたのですが、やはり人間の身体には限界があってこれを15分間も続けたら唇に血が通わなくなると思って“すみませんが、できません”とお断りしました。その時の彼の悲しそうな顔といったら……まるで人生最悪の日みたいな落胆ぶりだったのですが、幸い書き直すことを受け入れてくれたのです。でも結果としてそれでよかったと思います。あまりに超絶技巧が続くと、聴いているほうも感覚が麻痺してしまうから。こうして完成した〈不条理〉は革命的でありながら表現力も豊かで、大好きな作品になりました……まあ、最初の2分間はけっして短くはないのですが(笑)。彼は耳を惹き付けて離さない作品を生み出す現代屈指の作曲家にして、自身も抜群の技巧と自在の表現力を持つクラリネット奏者で、さらには指揮者でもあるマルチな才能を持った音楽家ですね」
――公式にあなた以外でこの「不条理」を指定されたとおり“つねにプレスティッシモで”演奏できたソリストはいるんですか?
「いないかもしれません。楽譜どおりではなく、休みを入れながらの演奏は聴いたことがありますが。やはり循環呼吸が不可欠なのです」
――「ARKクラシックス」での実演を聴けなかった方も、この度エイベックス・クラシックスからリリースされた国内盤CD『空前絶後の超絶技巧~ヴィトマン:不条理』(※2014年にアイルランド室内管弦楽団と録音)でその妙技を堪能できますね。こちらのアルバムに収録されているハイドン:オーボエ協奏曲(フリューゲルホルン版)もけっこうな難曲ですが……
「そう、オーボエ協奏曲も演奏するのは非常に難しかったです。オリジナルはハ長調なのですが、自分の中でこの曲はチェロを弾いているようなイメージがふさわしいと思い、音の心地よさを優先しニ長調に移調して吹いています。でもそれだと指使いがたいへんなのです」
――加えて、フリューゲルホルンによる美しいモーツァルトのホルン協奏曲第4番も聴きどころです。
「フリューゲルホルンはとてもハイブリッドな楽器で、音色の中にいろんな楽器の音を含んでいるのがオリジナルのホルンとは違う味わいになっていると思います。トランペットの音はもちろん、フレンチホルン、トロンボーン、バスーン……などいろいろ入ってますよ。ちなみに私の使ってるフリューゲルホルンは伝統的なものではなく、4本ピストン搭載で大きなベルが特長の“ナカリャコフ・モデル”です」
セルゲイ・ナカリャコフ
――今回の来日にあわせて、2012年にワーナーミュージック・ジャパンからリリースされた『献呈~ドクシツェルに捧ぐ』がボーナス・トラックを追加して再発売されたのもファンには嬉しい話題です。こちらは少年時代のあなたが心を掴まれた、旧ソ連の伝説的な名トランペット奏者ドクシツェルが得意としていた作品を中心に集めた、文字どおり彼に捧げるアルバムになっています。
※ティモフェイ・ドクシツェル〈Timofei Dokshizer / 1921-2005〉:ウクライナのネジン生まれ。グラズノフ音楽アカデミーで最初にトランペットを学び、モスクワ音楽院とグネーシン音楽大学でさらに研鑽を積む。1941年に19歳で全ソヴィエト・コンクールに優勝して注目を集め、1945年からボリショイ劇場管弦楽団に籍を置いた。1947年にプラハ国際音楽コーンクールに優勝してからはソリストととしても積極的に活動を展開。レパートリーの開拓など、独奏楽器としてのトランペットの可能性を追究し、90年代まで演奏やレコーディングを続けた。
「彼はたんに偉大なトランペット奏者ではなく、トランペットを吹く偉大な音楽家。9歳でトランペットのレッスンを受けるようになった頃、モスクワで勉強していた姉がドクシツェルのLPレコードを買ってきてくれて、その中にバッハのプレリュードをトランペットとオルガン用にアレンジしたものがあり、その魂のこもった演奏に衝撃を受けました。それまで家にはジャズのレコードが何枚かあって、自分にとってトランペットはただ楽しい音楽というイメージだったのに、ドクシツェルの吹くバッハの変ホ短調のプレリュードを聴いて何かが変わった。そして突然、自分もクラシックの道に進まなくてはと思うようになりました……それはもう火花が飛んできて火がついたみたいに。それ以来、彼は私にとってずっとインスピレーションの源なのです」
セルゲイ・ナカリャコフ
――そういえば、今回の「ARKクラシックス」のジャズ公演(ARK JAZZ スタンダード・ジャズの魅力)に出演された話題のジャズ・トランペット奏者、松井秀太郎さんはあなたの演奏するチャイコフスキー『白鳥の湖』の「ナポリの踊り」を聴いてプロの道に進むことを決意されたそうですよ。
「とても光栄に思っています。松井さんの演奏を聴きましたがとても素晴らしかった! 彼の目の前に大いなる道が広がっているのが私にも見えました。ドクシツェルも、もしかしたら誰かの演奏に感動して演奏家を志したのかもしれないし、そうやって脈々と繋がっているのかも」
――あなたの前にもまだまだ道は広がっているはずです。今後の新作アルバムのリリースやレコーディングにも期待しています!
「アイディアはたくさんあります。録音したままになっている未編集の音源も。自分のプロジェクト以外に、いろんな人の企画にも積極的に参加したい。たとえば昨年ECM New Seriesからリリースされた現代作曲家ガルペリンのアルバム『Theory of Becoming』にも3曲、トランペットで参加しています」
※エフゲニー・ガルペリン〈Evgueni Galperine / 1974-〉:ロシア生まれで1990年にパリに移住。弟のサーシャとともにおもにフランス内外の映画音楽を手がけ、2017年に映画『ラブレス』でヨーロッパ映画賞作曲賞を受賞した。
――今後のご活躍を楽しみにしています。
「ありがとうございます。チャンスがあればまたいつでも日本に来たいです。友だちもたくさんいますし、よい想い出もいっぱい。またすぐにお目にかかりましょう!」

取材・文/東端哲也
Photo by Thierry Cohen
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