イスラエル・ジャズを新次元に引き上げた若き天才、
シャイ・マエストロ(Shai Maestro)。もはやイスラエルのではなく、21世紀のジャズを代表する存在だ。2015年はそんな彼の重要性を物語るように、次々と参加作品がリリースされた。
また2016年1月には、現代ジャズの象徴的存在であり、
デヴィッド・ボウイの新作
『★』に登用されたことでも話題のドラマー、
マーク・ジュリアナが率いるジャズ・カルテットの一員として再び来日を果たすシャイ。9月に行なわれたソロ・ピアノ・ツアーのさなか、インタビューに応じてくれた。
――今年(2015年)、あなたが関わった作品が3作出ているので、これについて話を聞かせてください。まずはあなたのトリオ作『アントールド・ストーリーズ』から。これはどういうコンセプトで作ったんですか? 「ノー・コンセプトがコンセプトかな。通常のレコーディングでは、1日から5日くらいスタジオに入ってテイクを何度も重ねて、その中からいちばん良いテイクを集めて、ラフな写真をPhotoshopで加工して完璧にするように、きれいにエディットしてからリリースする。でも、音楽を作っているうちに、100%完全な人なんているわけがないし、みんな不完全な部分を持っていて、でもそれで良いんだと思うようになったんだ。だから今作はスタジオ録音ではあるけど、ライヴ・アルバムのように一切エディットとかしないで、ほぼワン・テイクで作ることにした。これまでは完成したアルバムを作ることにこだわってきたけど、今回は荒削りでロウなものにしようって。自分にとっては新しい試みだったよ」
――このタイトルにはどういう意味を込めましたか?
「“語られていない話”って、これから語られること、つまり可能性だと思うんだ。ポテンシャルといってもいいかな。このアルバムを作る過程は、鏡の中の自分を見るような経験だった。そこに美しさもあれば不完全さもあるってことに気づいてから、音楽的にも人間的にもどんどん広がっていったと思う。これまでと比べると、今作のストーリーは違う音楽の旅路を歩めたような気がしている。もっと精神的な探求ってところに来た感じかな」
――音楽的に広がったっていうのは、具体的にどういうところに感じていますか。
「自分では気づいていないことに美しさが秘められていることが多いんだ。頭で考えたり分析しすぎたりせずに、むしろそれを全部やめてしまった時にこそ、自分の根底にあるソース(源)に繋がることができると思う。音楽的にも弾いていて“あ、こんなことが ”って気づかされることがある。なぜだかわからないことが感じられたり、見えてくることがあって、僕はそこを開けたい、もっとその先に行ってみたいって思うようになったんだ」
――前のアルバム『ザ・ロード・トゥ・イサカ』(2013年)の時のインタビューでは、「シンプルなメロディの力強さを出したい。音楽がむやみに複雑に聞こえないように、高度だけどシンプルに聞こえるようにしている」って話をしてくれました。今作ではどんなところに気を配っていますか。 「作曲する時に自分に課していることは、たき火のそばでギターを弾きながら歌うってスタイルでも成立する曲であるかってことかな。あとからのアレンジや装飾、クレイジーなリズムを施すのは、人のメイクアップと同じなんだ。いくら飾ったとしても、コアな部分で曲として成り立たないと意味がない。それは作曲でもインプロヴィゼーションでも同じかも知れないね。たとえば7曲目の〈Shades〉は、あっちこっち行ってるような曲で、難しそうに聞こえるんだけど、ズームアウトして聴くとシンプルなんだ。近くだと見えないものが、離れて見るとなるほどってわかるような曲なんだ」
――あなたの表現は少しずつシンプルになってきたと感じています。無駄が削ぎ落されているっていうか、研磨されているというか。
「より自分になれたんだよね」
「イスラエルで同じ高校に通ってた親友なんだ。すばらしいミュージシャンのひとりで、今はニューヨークに住んでいる。茶道を学んでいるんだよ」
――彼の作品ってジャズというよりはほとんどインド音楽ですよね。
「オデッドは長い間インドの伝統音楽を学んでいて、インドでもっとも有名なフルート奏者のひとり、
ハリプラサ・チャオルシヤに師事していたんだ。インド音楽を探求する過程で、1年間ずっとひとつのラーガを練習し続けて、瞑想をして、そんな生活を送っていたようなやつなんだ。その翌年にはまた別のラーガを1年かけて練習する。クレイジーだよね(笑)。ラーガっていうのは人生のいろんな部分を象徴したような音楽だから、ひとつの音から別の音へ行くのにヒエラルキーがあって、それを学ばなければならないディープな音楽なんだよね。その後、カオスなニューヨークにやって来たんだけど、ジャズも含めてあらゆる音楽や文化があるニューヨークで、彼は僕のバンドとの共演を選んだんだ」
――たとえば、ライヴはどんな感じですか?
「ほとんど音が無いような静寂の中で、オーディエンスは何が起こるんだろうって耳を澄ましてるんだけど、何も起こらずに終わるっていうような。ある意味、成熟したコンサートだよね」
――これはどのくらい作曲されているんですか?
「2小節から10小節くらい、そこにすべての世界が詰まっている。1曲についてベースラインはひとつだけで、それを繰り返してメロディを載せる。だから、いろんなことに惑わされることなく、ひとつのことに集中できるんだ。最近、人間の脳に関する本を読んだんだけど、クリエイティヴになるためにはある程度制約があったほうがいいらしい。枠の中で自由になるって、ある種のパラドックスなんだけど。自分としてはジャズのハーモニーに行きたいって思っても、それを抑えて行かないように、メロディを外れたくなっても、そのメロディに留まれって言い聞かせながらやっているんだ。聴いてる人もそこに何かが生まれる寸前の緊迫感と美しさを感じていると思うよ」
――わかります。弛緩する直前の音って気がします。すごく気持ち良いんだけど、どこか緊張感がある。
「それって最初に僕が『アントールド・ストリーズ』の時に話した可能性ってことなんだよね。オーディエンスも演奏者もそこに行こうと思えば行けるのに行かない状態、潜在力があるっていうことの面白さなんだよ」
――きっちり型があって、そのなかで最小限の音とレンジで大きな宇宙を描くっていうのは、日本の文化にもありますね。日本庭園の枯山水と同じです。
「僕は京都の嵐山で庭園を見て、まさにそれを感じたよ。2m四方くらいの中にすべてがあった。すごく惹きこまれたよ」
――オデッドが茶道に興味があるっていうのはすごく納得できますね。では、次はマーク・ジュリアナの『ファミリー・ファースト』の話を聞かせてもらってもいいですか? ――マークのオリジナル曲はどんな感じで送られてきたんですか?
「最初はベーシックなMIDIで作ったビービービーみたいな電子音で送られてきたんだ。メンバーにイメージを植え付けたくないから、全部削ぎ落したネイキッドな音を聴かせたってマークは言ってたかな」
――MIDIをアコースティックの生演奏に変換していく作業だったんですね。実際に演奏するときはどんな感じで進めたんですか?
「リハーサルでは細かいところまで詰めたんだけど、一旦、曲に関するヴィジョンを自分のものとして得たら、あとはもう自分の感覚で演奏してもいいって言われたね。その後のギグでも変化していったし。あらかじめ構築した部分もあるけど、そのなかですごく自由なものになっているんだ」
――マークはずっとエレクトロニックな音楽をやってたんだけど、突然アコースティックなジャズをやろうって思ったのはなぜだと思いますか?
「ずっとエレクトロニックだったからこそ、アコースティックをやりたくなったんだよ。人間はいろんな面を持った複雑な生き物だからね。これまでとは違った面を出したかったんじゃないかな」
――ちなみにこれはどれくらいが譜面に書かれていて、どれくらいが即興なんですか?
「〈One Month〉はすべて作曲されていたね。たとえば〈Autum Leaves〉のようなスタンダードを演奏するように、元々書かれていたメロディがインプロヴィゼーションでどんどん変わっていくようなジャズの伝統的なアプローチだね。〈Long Branch〉も小さなセクションがあって、ピアノ・ソロがあって、またセクションがあってみたいなことを繰り返すジャズの典型的なアプローチ。〈The Importance Of Brothers〉は、最初ベースのフリーのイントロがあって、ジェイソンがサックスで出てきて、そのあと自分のソロがあるんだけど、マークが好きにやっていいよって言ってくれたから、すべて自由にやったよ」
――このアルバムってアコースティックなんだけど、体温が低い感じのフィーリングがあって、それがすごく個性的だと思うんですよね。
「マークはすごくエネルギーを持っている人なんだ。身体の内に炎を秘めている感じだね。“自分は燃えてるんだ”ってアピールしなくても、自分の中に炎があるってわかっていればいいんだよね。オデッドの音楽で、ギリギリのところで抑えている(それで緊張感が生まれる)って話をしたよね、それと通じるところがあるかな」
――なるほど。
「それともうひとつ。マークって演奏が素晴らしいだけじゃなくて、同時に共演者の演奏をとても深く聴いているんだ。彼は素晴らしいリスナーでもあって、ものすごくディープに音楽を聴いている。それって意外と気づかれていない点だと思うんだよね。だから、彼の音楽は細かいディテールまですべて意識的にやっている。このアルバムでもそれが出ていると思うよ」
――最後に今やっているプロジェクトが他にあれば教えてもらっていいですか?
「たくさんあるんだけど(笑)。ひとつはソロだね。今回(2015年9月)、トリオで来日する予定だったのが、いろいろあってソロになったんだけど、これは何年分にも値する、とても貴重な経験になった。ツアーでは毎晩2セットやるんだけど、コンサートが終わると毎回からっぽになった自分がいる。ホテルに帰ってぐっすり眠ると、翌朝にはまるで輸血してもらって新しい血が入ったみたいにエネルギーが漲っている感じがして、毎日新しいことが始まるっていう感覚がある。そのうち形になると思うよ」
――ソロ・ピアノ・アルバムは聴いてみたいですね。ほかには?
「
テオ・ブレックマンとデュオでやってるよ。彼はハーモニーとメロディの真実を知っているんだ。彼とやると不協和音でできているものが不協和音に聴こえないんだ。たとえばCメジャーのハーモニーとCシャープ・メジャーのメロディっていう、本来だったら一緒にはならないはずの音を、ギリギリのところで同居させることができる。僕らのデュオは、あるヨーロッパのレーベルにレコーディングする予定さ」
――どういう経緯でテオとやるようになったんですか?
「彼のファンだったんだ。だから、自分から共演したいですってメールしたんだ。“I'm Shai Maestro. Piano player”ってね(笑)。東京のピット・インで録ったソロ・ピアノで
アントニオ・カルロス・ジョビンの曲をやっている映像を送ったら、OKって返信をくれてね。それから、
カミラ・メサ(Camila Meza)とのクインテットだね。チリ出身のシンガーなんだけど、彼女はすごいんだ。言葉が足りなくなるくらい素晴らしいよ」
「近々、新しいアルバムが出る予定だよ。
マット・ペンマンと
ケンドリック・スコットと一緒に作ったんだ。あとは、ブルガリアの素晴らしいシンガーがいるんだ。ネリ・アンドレーエヴァ(Neli Andreeva)っていうんだけど、『ザ・ロード・トゥ・イサカ』の最後の曲にも参加してもらった。YouTubeで
〈Malka Moma〉って曲を聴いて鳥肌がたつくらい衝撃を受けて、すぐにコンタクトをとった。将来的には彼女と、あと2人加えた形で何かやりたいと思っているよ」
――ヴォーカルとの共演が増えましたね。
「最終的にはメロディに戻ってくる。人間性、エネルギー、苦しみ、いろんなストーリーがあっても、最終的にはひとつのところからスタートするっていうか、戻るっていうか……。同じことなんだよね」
――ところで、好きなソロ・ピアノのアルバムってありますか?
――ツアーが終わったらゆっくり聴けますね。ソロはやっぱりたいへんなんですか?
「まず、ソロってひとりでしょ。グループだと、水に石をぱーんと投げるとさざ波がぱぱぱっと立ったり、何が起こるかって楽しみがあるけれど、ひとりだと自分が石であり水であるわけだからね。自分ひとりでアイディアを生んで、そのアイディアを実行して、美しく完成させることに責任を負わなければいけない。そうやっていろんなことが同時に行なわれている。あとは、自分がすでにわかっていることを弾いてしまう罠に陥りそうになるから、そうならないようにしないといけない。すでにわかっていることを弾いてしまうことによって、“今”からから外れてしまうから。でも万が一、そんな演奏をやってしまった時には、やってしまった自分を許す。それを罰するんじゃなくて自分を許して元に戻らせる。戻る頃にはもうへとへと……(笑)」
――その自分を許すっていうのは面白いですね。
「メディテーション(瞑想)とかやったりする?」
――やらないけど……。
「たとえば瞑想している時の呼吸法で、1から10までふーってやってる時に、5カウントくらいで、“あ、税金払うの忘れてた”とか邪念が出たとして、そうするとそこで呼吸をすることを忘れてしまうわけ。だけどそこで、呼吸しなきゃって無理に戻すんじゃなくて、その自分を許してゆっくりとその流れに戻ればいい。そういうことかな」
――その哲学ってもともと自分で持っていた美意識なんですか? あるいは自分の国のカルチャーや宗教から由来したものなのでしょうか。
「宗教ではないですね。でもスピリチュアル、精神性ではあると思う。すべてはもともと自分の中に持っているもので、それを無理やり押し出そうとするんじゃなくて、自然に出せるように、いろんなことを経験していくうちに学んでいったんじゃないかな。音楽はその中で自分に与えられた、とても恵まれたギフトだと思う。音楽をやっていると、つねに鏡に映る自分自身を見るような形になる。もちろんそれは見ようとするオープンな心があればの話だけど」
――自分に与えられたギフトっていう話、この間インタビューしたドクター・ロニー・スミスもしていました。じゃあ、こんなところで。わっ!すごい長時間! 取材・文 / 柳樂光隆(2015年9月)
通訳 / 丸山京子