月額定額制のストリーミングサービスの普及とともに幅広い音楽との出会いが容易になっている昨今、あえて一社の音源だけで100枚の名盤を提案するという、クラシック音盤の世界で定期的に行なわれてきた企画の意義はさまざまに検証・再検討される必要があるのだろう。ソニークラシカルはその意味で、かなり早くから特徴的な再検討と検証を進め「ベスト・クラシック100極」に反映させている。クラシックの広範なジャンル全体を百科事典的に網羅するのはやめ(それこそストリーミングサービスの幅広さには敵わないスタイルだ)、100枚でカバーしきれない分野まで無理に追わず、本当に勧めるべき名盤を厳選して光をあてる。そのうえでは同一楽曲の重複もいとわず、むしろ聴き比べを楽しんでもらう。結果的に演奏者や曲目に大きな偏りは生じるにせよ、かならず一線を越えた何かと出会える状況をむしろ好ましく感じる人はおそらく、日頃からクラシックに親しんでいるか否かを問わず少なくないに違いない。
そのうえで、ソニークラシカルはラインナップを一新した「ベスト・クラシック100極」の発売に際し、ジャンルを越えた幅広い国際的活躍で知られる角野隼斗にイメージ・キャラクター就任を依頼、同シリーズ紹介のためのコンピレーション制作も手を携えて行なった。充実の2枚組、どのような面白さがあるのだろう。
ピアノがあれば何でも自分で弾いてしまえる角野隼斗というプレイヤーが、ほかの演奏家の弾いた録音を選んで勧める。どんな心境になるものだろう? と尋ねてみたところ「自分が演奏するしないをそんなに分けて考えているわけではなくて……」との答えが返ってきた。
「ピアノという楽器が、やろうと思えばどんな曲でも弾けてしまうからかもしれませんが」と角野は続ける。考えてみれば、その人の演奏解釈を披露するのが実演家ではあるにせよ、そこでは当人ではない誰かの音楽を弾いてもいるわけで、既存の音源でコンピレーションを編むのは“これは”と思う音楽に惹き込まれた経験を経てそれを紹介するという意味で共通している。
「(ソニーが権利を持つ100枚からという)限られた、偏りもある選択肢からバランスよく選んでゆくのは大変ながらも楽しかったですね。ピアノの録音では(グレン・)グールドと(アルトゥール・)ルービンシュタインと(ウラディミール・)ホロヴィッツが多くて、僕もこの3人は大好きですから選びたいのだけど、それだけになってしまっては……とか。知らなかった音源を聴いてゆくのも面白いことでした。(ジョージ・セル来日時の)1970年東京でのライヴ録音(『ライヴ・イン・東京1970』)に触れて、当時はこんな雰囲気だったのか、と想像しながら聴いたり」
自分で弾いて伝えるという手段にとらわれず、感じるところのあった音楽のありようを誰かと共有しようとする角野の言葉に惹き込まれる。「聴いて直感的に心躍るものとか、気づきを与えてくれるものとか、インスピレーションを与えてくれたりとか。自分がピアノという楽器でできないことを本当に鮮やかにやられてしまうと、惚れてしまいがちではありますね。自分が演奏しない楽器の音楽もそうですし、ピアノの場合でもそれはあります」
角野隼斗監修・選曲によるこのコンピレーションCDは、廉価でありながら2枚組になっている。ほかのジャンルよりもはるかに長いトラックが多いのがクラシックなので不思議はないにせよ、こうしたシリーズ紹介盤ではCD一枚で多様さを示せるよう、短いトラックを厳選するという制作方針もしばしば取られるので、あえて長い楽章を除外しない選び方も特徴的と言える。収録曲目を見るとマーラーの交響曲やラフマニノフ自作自演の協奏曲の楽章や、ガーシュウィン「ラプソディ・イン・ブルー」など、そうとう長いトラックもめずらしくない(選曲当初はブルックナーの交響曲第8番の冒頭楽章まで候補に挙がっていたらしい)。
「あまりに長いものを入れると曲数が少なくなってしまいますが、短いトラックに限定すると逆に選べる曲が限られてしまいますから。それでも曲を選んでいく中で、いろいろ入れると雑多になってしまわないか? とも思い、ソニーの担当の方に相談したところ、ピアノとそれ以外で分けてみては? とご提案いただきました」
ピアニストが選ぶならピアノで1枚、というわけだ。そのうえで幅広い角野の関心領域、もう1枚のトラックにも彼の選曲眼が生きている。「バランスよく選ぶにしても“自分”というフィルターを通すことにはなるので、それならばその“自分”の好みを、と」
はっきり選曲者の顔がわかるほうが指標も明確になって、むやみに全方向的なバランスをめざした場合よりも頼もしい案内になりうる。「クラシックの演奏家として僕を知った人もいれば、YouTuberのCateen(かてぃん)として、あるいはJ-POPアーティストとのコラボレーションで知った人もいて。自分に興味を持ってくれている方とは好みに重なる部分があるはずで、この選曲から関心を拡げてゆける……そういう視点でも選んでいます」
収録時間を別にすると、今回の選曲に際しての角野の意識は「ストリーミングのプレイリストとほぼ一緒」であるという。
多くの音源がアルバム単位でリリースされている状況そのものは、今もCD全盛期と変わらない。しかしストリーミング配信ではプレイリストやレコメンド機能の充実によって、アルバムの曲順やストーリーから各トラックが自由に切り出され、トラック単位で音楽が認識されやすくなっている。偶然の出会いもトラック単位で起こりやすく「ストリーミングの影響もあって、最近は文脈を離れた聴き方が増えてきたように思います」と角野も語る。
「そうした聴き方のメリットの一つは(知らない音楽への)入口がたくさんあるということですね。交響曲や組曲をかならず最初から……というのではなく、プレイリストにはバラバラに入っていたりして、そういう形で好きな感じの現代音楽や作曲家にたどりつきやすくなっていたり。ストリーミングのいい影響ですよね」
CDをプレーヤーに入れて聴くのが当たり前だった頃より、多くの人に予期せぬ出会いへの心構えが自然とある時代と言えるかもしれない。モノラル録音特有の古めかしい音響も、ほかのジャンルの音楽ではめったにないトラックの長さも、その意味ではクラシックを聴き慣れているか否かにまったく関係なく受け入れられやすい状況が今はある。
ストリーミングでリスナーの傾向をもとに提案されるトラックも、大手レーベルの比較的新しいアルバムばかりとは限らず「どの棚にあるか、いちばん手前にあるものと奥のほうに埋もれているものとの区別がつきにくい。レコメンデーションがありますから、何が手前にあるかは人それぞれ」。CDの形では日本向けの発売だが「(ストリーミング配信の)プレイリストとして全世界に公開されても面白いかもしれない」。聴き手の環境を問わず、このコンピレーションを通じて予期せぬ出会いが起こるかもしれない。
角野隼斗が触れてきた音楽は、ピアノという楽器を介してジャンルを越えて幅広い。その彼がクラシックという枠内で監修・選曲したコンピレーションCDではあるけれど「(ベスト・クラシック100極の)イメージ・キャラクターという立場での意識は“クラシックの名盤を最初に紹介するならこうであるべき”という感じより“(ジャンルを問わず幅広く存在するこの世の)音楽のなかに、クラシック音楽のこういうものがあるよ”というのに近いですね」
CDという形態に合わせ、角野なりに「流れは意識して」組んである曲順どおり、あえて通して聴いてみることで出会える発見もありそうだ。どんなシチュエーションで聴くのがいいでしょう? との質問に対する答えが印象的だった。「どんなシチュエーションでもいいと思います。時間の取れるときに、その人にとって新しい音楽をこのコンピレーションを通して発見してもらえたらうれしいですね」
取材・文/白沢達生
「ベスト・クラシック100極」 ソニー・クラシカルとRCAレッド・シール。いずれも100年以上の歴史を誇る世界的な2大メジャー・レーベルの豊富なカタログから、極め付きの名盤100枚を再発する人気シリーズが、ラインナップも新たに4年ぶりに発売されました。公式サイトには100枚のラインナップの紹介のほか、角野隼斗のインタビュー動画、岸田繁、市川沙耶、平野啓一郎ら多彩な著名人によるおすすめのアルバムなどを掲載するデジタルパンフレットへのリンクなど、充実のコンテンツを掲載しています。
「ベスト・クラシック100極」公式サイト