2008年にスタートした都心型の野外フェスティバル<WORLD HAPPINESS>。5回目を迎える今年も
きゃりーぱみゅぱみゅ、
岡村靖幸、
EGO-WRAPPIN'などジャンルを超える個性豊かなアーティストが顔をそろえる中、初の参加が決定したのが
オリジナル・ラブ。このフェスの主演ともいえる
Yellow Magic Orchestraの
高橋幸宏とは旧知の間柄ではあるが、同じステージに立つのはこれが初めてというご両人。6月6日に還暦を迎え、8月にはトリビュート・アルバムがリリースされる高橋幸宏と、現在は<Overblow Tour>で精力的にライヴを展開中のオリジナル・ラブの
田島貴男が、お互いの音楽観から経年変化による今の心境までを語る対談が実現! 貴重なエピソードをまじえながらの熱いトークをお届けしよう。
YMOは高校時代に郡山総合体育館で観ました。
当時は郡山に有名なアーティストが来ることなんてめったになかったし。(田島)
郡山といえば、70年代はワンステップ・フェスティバルもあったね。
今思えば夏フェスの元祖みたいな。(高橋)
田島貴男(以下、田島) 「幸宏さんに初めてお会いしたのはEMIからデビューした頃ですかね。同じレーベルだったし、当時、幸宏さんが主催されていた有志のボーリング大会にも誘われて参加したことがありました」
高橋幸宏(以下、高橋) 「そうそう。田島くんヒドいんだよ、ボーリングの指の入れ方も知らなかったんだから(笑)」
田島 「アハハハ。今年の<WORLD HAPPINESS>は僕もすごく楽しみにしています。ワーハピのことはよく聞いていたんですよ。(
高桑)圭や
(白根)賢一とか昔からの友人が毎年のように参加しているんで。僕はYMOは高校時代に郡山総合体育館で観ました」
高橋 「83年かな? たぶん散開前のツアーのときだね。あの頃は大きめの会場がまだあまりなくて、北海道の会場なんか、普段は牛の品評会をやっているような場所だったのを覚えてる(笑)」
田島 「中学のときからYMOは聴いてましたけど、高校のバンドのメンバーが普段から人民帽を被っているようなすごいYMOフリークで、その人に連れていってもらいました。当時は郡山に有名なアーティストが来ることなんてめったになかったし」
高橋 「郡山といえば、70年代はワンステップ・フェスティバルもあったね。今思えば夏フェスの元祖みたいな」
田島 「僕は小6で郡山に引っ越して来たんでワンステップには間に合わなかったんです。高校の頃に地元でもそういうフェスがあったらしいと都市伝説のように聞いてました」
田島 「ごく初期のYMOのライヴの人力テクノというか、ものすごく高いテンションと張りつめた緊張感には驚きましたよ」
田島 「郡山時代からの音楽仲間なんですけど、僕も木暮もマッシュルーム・カットでした(笑)」
高橋 「賢ちゃんと高桑くんがYMO派だったらしいね。二人はいまは
THE BEATNIKSのリズム隊でもあるからね。僕はオリジナル・ラブは“俺は渋谷系じゃない!”と叫んだときのライヴを観ているんですよ」
田島 「うわっ、最初の渋公ですね! 今はさすがにあの頃よりもうちょっとマシな歌を歌えるようになってると思います」
昔の曲をライヴでやることに抵抗があった時期はありますね。
今はもうないけど(笑)。(田島)
演奏してて楽しいなら、そんなこと意識しなくてもいいんじゃないかと
思えるようになるんだよね。(高橋)
田島 「最近のYMOをNHKの番組で観たんですが、幸宏さんのドラムは昔とはまた違うスタイルでカッコイイですね。
スライ&ザ・ファミリー・ストーンのカヴァーを演奏していて」
高橋 「いまのYMOはファンク・バンドみたいになってるからね」
田島 「僕もそうなんですけど、歳を重ねるとリズムのポイントが違ってくるんですよね」
高橋 「うん。変わりますね。楽器は歳をとる方が上手くなるから。ただし、何でもできるのが上手いというのとは違う意味での上手さだけど」
田島 「経年変化でこうなるのかという成熟した面白さがあって、いまのほうがクロいと思いました(笑)」
高橋 「
細野(晴臣)さんがシンセ・ベースを弾かないからどうしてもそうなるんですよ。肩がこるからより軽いベースを持とうとする傾向があって(笑)、ヘフナーのベースでソウル弾いてるのはあの人くらいでしょ?」
田島 「そうですよね(笑)」
高橋 「去年のフジロックでは若い観客がYMOを新鮮に感じてくれたみたいだけど、昔のYMOを期待してもそのとおりにはやらないし、昔の曲を演奏するだけでも進歩だと思ってますから」
田島 「ああ、分かります。僕も昔の曲をライヴでやることに抵抗があった時期はありますね。今はもうないけど(笑)」
高橋 「演奏してて楽しいなら、そんなこと意識しなくてもいいんじゃないかと思えるようになるんだよね」
田島 「分かりやすい過去のヒット曲とかあると、それを乗り越えたいとイキがる時期は誰にでもあるんじゃないですかね。でもその曲も自分が作った曲なんだと受けとめられるようになっていく」
高橋 「そうなんだよね。自分たちの過去の曲を否定する必要なんてないんだよね。アレンジをすごく変えてやってみたりもしたけど、それもあんまり意味がないかなという風になっていく」
田島 「音楽に限らず、過去の自分の仕事を超えたいと葛藤する時期ってあると思うんですよ。その葛藤も大事なんですけどね」
高橋 「おこがましい例えだけど、
バート・バカラックを観るとスタイルがまったく変わってないのに古さを感じさせない。歳をとって自分の中にも何かしらの普遍性があるとしたら、それを表現しておきたいと思うようになるのかな。普遍性を持ったら、そこにはもう古さも新しさもないから」
田島 「そうですよね。そこへいくまでがなかなか大変なんですけどね」
高橋 「
スティーヴ・ライヒにも同じことを感じたかな。何十年も同じ譜面で演奏していても出て来るものは決して同じじゃない」
田島 「僕も<接吻>は、今はメロディはなるべく変えずにフェイクを入れたりしないで歌おうとしていますね」
高橋 「歳をとるのも悪くないと思えるのはそのへんだね。人間関係もそう。でないと、今YMOはやってないです(笑)」
田島 「YMOはスタジオ・ミュージシャンとして第一線で活躍されていた技術のある人たちが組んだバンドだったから音楽の内容はもちろん、演奏の緊張感が違ったと思うんですよね」
高橋 「
クラフトワークと同じステージに立つことになって、教授から“どうしようか?”というメールが来たんだけど、“僕たちは僕たちらしくやればいいんじゃないの”って返事したら、“そうだね。演奏は僕たちの方が上手いもんね”って(笑)」
田島 「アハハハ。確かに。演奏力がないからテクノをやるというその後の人たちとはそこが根本的に違うんですよね。僕はテクニックより新しいセンスが重要という価値観のニューウェイヴ全盛期に音楽に目覚めた世代だから」
高橋 「僕たちはむしろそっちに憧れていたんだけどね」
田島 「幸宏さんの世代のミュージシャンはスポーツ選手でいえば競技能力が高くて、パンクやニューウェイブはそのカウンターとして出てきたものだけど、やっぱり音楽の水準の高さはあってしかるべきだと思うようになりましたね。僕も音楽を続けていく中、どうやってその両方の意識をキープしていくかは課題でもあって。YMOは技術とアートのバランスの面白さがあるからこそ、今も影響力があるんだと思う」
高橋 「それは田島くんの言うとおりで、YMOも最初はアメリカではフュージョンの扱いだったし、80年代の前半はそれを壊すことに一生懸命だった。日本はその後、バブルに向かっていくんだけど、音楽の世界もどんどん様変わりして、僕らが思い描いていたマーケットじゃないとその頃は僕ももがいていましたよ。ただ、新しい音楽をみつけてわくわくするクセはいまだに直らないね」
田島 「探すと面白い音楽はまだまだあるんですよね。ルーツ・ミュージックはこっちに置いといて」
高橋 「そうそう。ルーツはルーツとして置いてある。そっちばかりに偏ると頭が固くなってくるからね(笑)」
田島 「そう。趣味的になりすぎたりするんですよね」
高橋 「僕なんか古い音楽のことは、逆に
高田漣くんのような若い人たちに教えてもらったりしてます。そんな漣くんも子供の頃は“お父さん(
高田渡)は、なんでYMOみたいな音楽やらないの?”とダダをこねていたっていう(笑)」
田島 「僕もそうでしたけど、90年代はヒップホップのネタ探しやCDの再発で、昔の音源をこぞって聴くようなところがありましたね」
高橋 「それこそオリジナル・ラブや
フリッパーズ・ギターが影響を受けた音楽を探して聴いてみたいというのはすごくあったんじゃない?」
田島 「影響力という意味では幸宏さんのドラムに憧れた人は僕らの世代にはすごく多いですよ。幸宏さんのドラムはヴォーカリストが歌いやすいドラムなんですよ」
高橋 「それは僕が歌うということが大きいでしょうね。唯一ちょっと邪魔していたなと思うのが、<時間よ止まれ>」
田島 「ええっ!
矢沢永吉さんのあの曲のドラム、幸宏さんだったんですか!?」
高橋 「そう。歌いだしの“罪な……”の部分にフィルが少し被ってるんだよね(笑)。僕も自分で曲を作り、歌うようになってから、アル・ジャクソンやバーナード・パーディのドラムが好きになった」
田島 「そうなんですよね。歌を邪魔しないで生かすようなドラミングってなかなかできないんですよね」
学生時代から知ってる小山田くんがYMOでギターを弾いていたり、
圭と賢一がTHE BEATNIKSやっていたりするのが何か不思議な感じがするんですよ。(田島)
たしかに縁は異なものだね。
みんな音楽続けているからそういう奇跡も起こるんだよね。(高橋)
田島 「ワーハピに出演するアーティストって、ポップとアートを兼ねそろえている人たちが多くて、そこが夏フェスの中でも面白い特徴になっていますね。みんなカウンターだけでも、ポップだけでもないという人たちで。小山田(圭吾)くんにしてもそうだし」
高橋 「小山田くんはYMOに関しては完全に後追いで、どうやら彼にとっての先生はまりん(
砂原良徳)みたいだね(笑)。だって、93年のYMO再結成のときのコメントも『高橋幸宏さんとはボーリングをご一緒したことがありますが、YMOのことはあまり知りません』だもん(笑)」
田島 「だから、僕にしたら学生時代から知ってる小山田くんがYMOでギターを弾いていたり、圭と賢一がTHE BEATNIKSやっていたりするのが何か不思議な感じがするんですよ」
高橋 「賢ちゃんは
GREAT3のときにスタジオで会って、ドラムのヘッドにサインを頼まれたのが最初だったかな」
田島 「僕と木暮は大学で上京して、とにかく東京のライブハウスでやりたくてデモ・テープを作って回ったんですけど、どこも相手にしてくれなくて。唯一渋谷のラ・ママだけが貸し切りだったらOKだと。その頃、木暮はまだバンドを組んでなくて、雑誌でメンバー募集をして応募してきたのが圭と賢一だったんですよ。それがWOW WOW HIPPIESになった」
高橋 「たしかに縁は異なものだね。みんな音楽続けているからそういう奇跡も起こるんだよね。僕の世代もまだ現役が多いのには驚くけど、少し下の
桑田(佳祐)くんが“いつまで経っても少し上に先輩がいて感心する”って言ってたな」
田島 「僕が思うにその世代のミュージシャンは歌謡曲の世界と対抗して張り合おうとしていたイメージがあるんですが?」
高橋 「そういうところもあったかも知れないけど、僕は高校時代からスタジオで仕事していたから、ニューミュージック〜歌謡曲の仕事も相当やってきたし、でも、このままじゃいけないなというときにちょうど細野さんからYMOに誘われたんですよ」
田島 「なるほど。僕らがデビューした頃は言葉こそまだなかったかもしれないけど、いわゆるJ-POPシーンが出来上がってゆく最中でしたからね。歌謡曲に対抗すべくサウンドなり、歌詞を模索して切磋琢磨していた先輩方はそこが強いんですよね」
高橋 「だから、ニューウェイブが出て来たりすると飛びつくよね。いよいよこっちの出番が来たと。僕はロックやソウルのいちばん熱かった60年代は実体験ではあるけれど、日本で音楽をやって生きてゆくには歌謡曲の仕事もやりつつ、プロにはなったものの本当に好きなことはやってないなというジレンマはずっとありましたよ」
田島 「僕らの世代あたりからだと思うんですよ、自分なりに音楽をやればいいじゃん、というのが普通になってきたのは」
高橋 「今は誰でも音楽を作ることができて、発表できるようになったけど、もはやレコードやCDの時代じゃなくなってきたというところまで来たしね」
田島 「僕はあえて、今こそ買いたくなる音楽を作りたいと考えるようになってきましたね」
高橋 「僕はその時期は過ぎたかな。結果はついてくれば嬉しいけど」
田島 「僕はまだあがいています(笑)」
高橋 「いいね。その行為が自分にとって嫌なことじゃなければいいと思うな」
田島 「そうですね。だから僕は当分は楽しみながらあがいていきます!」
取材・文/佐野郷子(DO THE MONKEY)(2012年6月)
撮影/SUSIE