ノルウェー在住の日本人ピアニスト、田中鮎美がECMレコードからのデビュー作『スべイクエアス・サイレンス−水響く−』をリリースする。クリスティアン・メオス・スヴェンセン(b)、ペール・オッドヴァール・ヨハンセン(ds)と組んだトリオ編成によるこの作品は、田中のオリジナル曲4曲とトリオのメンバーとの即興演奏3曲を収録し、北欧的でありつつ日本的、と表現したくなる“静寂の美”を感じさせる音楽だ。ノルウェーの田中鮎美とのオンラインによるインタビューをお届けする。
――まず、田中さんの音楽的な経歴を教えていただけますか?
「最初はエレクトーンを習って、その後ピアノを弾くようになりました。ピアノになったとき、最初はジャズをやろうとしていたんですけど、10年前にノルウェーに来てからは、クラシックのピアノも勉強しました」
――ジャズを志して、なぜアメリカではなくノルウェーを選んだのですか?
「日本にいる当時からジャズを演奏したかったんですけど、それは即興演奏がしたい、というのがいちばん大きな理由でした。それでいろいろジャズを聴いていると、私はアメリカのジャズよりも、たとえばヤン・ガルバレクとか、ボボ・ステンソンとか、ノルウェーのジャズがいちばん好きだ、ということがわかったんです。それがノルウェーに渡った理由ですね」
――2011年にノルウェー国立音楽院に入られたんですね。そこで学んだ授業というのはどういうものなんですか?
「大学の学部とマスター(大学院)に行ったんですけど、学部のときはクラシックも含んだピアノのレッスン――それは亡くなったミシャ・アルペリンというウクライナの先生に習いました――と、音楽の歴史、コンピュータを使って音楽を作る授業や、即興演奏、あとアンサンブルのレッスンもありました」
――アメリカのバークリー音楽大学のメソッド、それは世界各地の大学のジャズ・コースでも採用されていると思いますが、それとは違うものなんですか?
「私はバークリーに行っていないので詳しいことはわかりませんけど、バークリーに行った人たちに聞くとまったく違うみたいです。バークリーはこれをやったら次はこれ、という具合にシステム化されているそうですが、ノルウェー国立音楽院はシステムにはなっていないんです。でも、自分がこういう音楽をやってみたいと言うと、大学にいるすばらしいミュージシャンたちが話をしたりレッスンをしてくれますし、大学にいないミュージシャンも呼んでくれて、レッスンを受けることもできます」
――今の田中さんの音楽は、“いわゆるジャズのピアノ・トリオ”とは違うなにか、だと思うんです。その個性は、最初から一貫しているものですか?
「先生のミシャ・アルペリンにいつも言われていたのは、自分の声を見つけろ、ということでした。私は編成としてはピアノ・トリオをやっていますが、たとえばビル・エヴァンスのような演奏の仕方はとてもじゃないけどできない。じゃあ自分は何ができるのか、と考えて、演奏の仕方や曲の作り方に自分なりのものを出そうとしたんだと思いますね」
――今のトリオを結成したきっかけを教えてください。
「クリスティアン・メオス・スヴェンセンは弓を使った奏法、クラシックのコンテンポラリーな技法も学んでいて、大学で一緒だったんですが、彼となら新しい何かを作れるのでは、と思って一緒にやることにしました。ドラマーのペール・オッドヴァール・ヨハンセンは単純に彼の演奏が好きで、彼はちょっと上の世代なんですけど、テクニックをひけらかさずに、音楽が必要としているものを演奏する、大好きなドラマーです」
――このトリオにおけるそれぞれの立ち位置はどういう感じだと思っていますか?
「ピアノ、ベース、ドラムスのトリオという感じではなく、たとえばベースがすごく高い音で、倍音を使って弓で弾いたりするんですけど、それはベースという楽器の役割というより、そこでその音が必要だから演奏する、ということです。ドラムスも同じで、スティックじゃなくってコントラバスの弓を使ってシンバルを鳴らしたりします。ピアノ・トリオという形態なんだけど、シンフォニー・オーケストラのような音楽を、べつに話し合ったわけはないんだけど、3人が目指しているのかな、と思います」
――誰かがソロをとっている、という感じがあまりしなくて、三者がさまざまな線をそれぞれ描いている、というところがすごく新鮮ですね。そして、田中さんが書かれた曲と、3人が即興でやった曲の間に、それほど違いがないように思えます。田中さんの書いた曲は、あえてシンプルに書かれていて、そこから即興を導き出すきっかけのように思えるのですが?
「たしかにシンプルに書くことを心がけました。曲に縛られるのではなく、曲が出発点になって彼らが生きるようなことをやりたいので。ここはこの音から始めてくださいとか、ここは何も弾かないで、といったことを示したりはしています」
――田中さんの曲には、いわゆるアメリカの“コンテンポラリー・ジャズ”の人たちが使うような和音が出てきませんね。シンプルだけど深い音の響きがある、というか。
「今回は私の曲の中でもとくにシンプルなのかもしれません。私がイメージする複雑な和音は、ジャズというよりも現代音楽的なものに近いですね。ジャズのかっこいい和音は好きですし、自分でも弾いたりするんですけど、自分のものだという気になれない。何か、違うものを借りてるという感じで。リスナーとしては好きですけど」
――これは田中さんが日本人だから、という先入観のせいもあると思いますが、水墨画とか墨絵みたいな感じがするんですよ。3人が描く線が、とても薄い墨の色から真っ黒までの階調があり、自由に動いて絵ができあがっていく過程を見ているような。ご本人はそういうことを考えたりはしていますか?
「そういうふうに聴いていただいてうれしいです。私は武満徹さんの本を読むのが好きなんですけど、彼は日本の美術や音楽にも詳しい方で、たとえば尺八奏者の音のかすれ方に美を感じる、ということを書いてらっしゃいました。それを読んだときに、これは私の音楽に対する考え方に近いな、と思うことがあって。私は日本の美術に詳しくないですけど、日本の美術には“間”があって、西洋の音楽はすべてが埋まっている感じですけど、その“間”は私のやりたい音楽に通じると思っています」
――クリスティアンのベースも、ある意味尺八のようなかすれ方がありますね。
「クリスティアンは日本の文化にすごく興味があって、お経を毎朝唱えてたりするんです。日本の伝統音楽にも興味があって、影響を受けているのだと思います」
――薩摩琵琶みたいに、ベンベンって弦を叩くところもありますね。ドラムスのヨハンセンさんは、派手に叩きまくったりはしませんが、あるべきところに美しいシンバルが絶妙のタイミングで出てくる、という感じですね。
「彼は雄弁ではなく、必要なところで必要な音を出すドラマーですね。音がすごく美しくて、シンバルだけでさまざまな音を出して、一人で何十分も演奏できると思うんです。それを聴いていて、私もピアノでこういう音を出そう、と思わせてくれる魅力的なミュージシャンだと思います」
©Camilla Jensen 2021
――ピアノという楽器って、ベースやドラムスに比べて音色や音程のヴァリエーションが付けにくいと思うんですよ。田中さんのトリオが目指している音楽は、西洋音楽的なきれいな音ではなく、音がかすれたり割れたり、といった表現が大事なように思えますが、そのあたりはどう感じていらっしゃいますか?
「ピアノは半音の音程しか出ないということに限界を感じますけど、その与えられた条件の中で、音色をどう変えるとかニュアンスをどう出していくか、ということにおもしろさを感じます。あと、ピアノの内部の弦をはじくとか、弦を手で押さえて弾くとか、ということもしますね」
――やるべきときには内部奏法もやる、という感じですね。
「ヨーロッパではみんな普通にやっていますね。ただ、ピアノを傷つけないための配慮は必要だと思いますけど。ピアノの弦を押さえて弾くと倍音の出方が変わりますので、それがおもしろいですね」
――田中鮎美トリオの音楽は、自由な即興でありながらいわゆるフリー・ジャズではない美しさがあるところが特徴だと思いますが、3人でこういう音楽をやろう、という相談はしているんですか?
「ほとんどしていません。逆に言葉でいろいろ話すと、音楽がそれに囚われてしまうのでは、という恐怖がありますね。ただ、3人が共通の音楽に興味があって、たとえば日本の伝統音楽だったりノルウェーのフォーク・ソングだったり、もちろんジャズもですが、なので音を出しているときにお互いに理解しやすいんだと思います」
――ところで、ECMのオーナーでプロデューサーのマンフレート・アイヒャーはどんな人なんですか?
「ミュージシャンにとても優しい人です。彼がスタジオにいるとすごいエネルギーを感じて、音楽がどんどん良くなっていくように感じますね。そしてとても耳がいい人なんだと思います」
――やはり、カリスマ的なオーラがある人なんですね。このアルバムは録音もとてもよくて、田中さんたちの繊細な演奏の細部がくっきりと聞こえてきます。今日はありがとうございました。
取材・文/村井康司