文/中込智子
ブルーハーツと言われて真っ先に思い出すのが
ヒロトの全裸というのは我ながらどうかと思うのですが、実は全裸自体は、当時のパンク・シーンではさして珍しいことではありませんでした。ステージで脱ぐ、もしくは脱ぎっぱのまま登場というのは、反抗や抗議、疑問などを投げかける手段として、割とポピュラーなものであったのです。が、ブルーハーツのステージにおけるそれは、それまでとは明らかに何かが違いました。というのも、基本的にパンク・バンドにおける全裸には、凶暴さや恐怖感を増幅するスリリングな効果があったのに対し、ブルーハーツのそれは、どこか非常に清々しかったのです。熱気渦巻くエネルギッシュなライヴ・イベント。女子もたくさん。そして全裸。轟く悲鳴と笑いの渦……当時、ヒロトは語りました。「あれはいなかっぺ大将なんじゃよ〜」。興奮すると脱いでしまう主人公を持つ往年の名作アニメ『いなかっぺ大将』における、大ちゃんどばっとまるはだか。アレであると彼はのたまったのです。なんだそれ。
文中で触れられているミニコミ『O-Geletzt VOL.4』。巻頭で
ブルーハーツのロング・インタビューを掲載。
非常にウケた我々は、当時仲間内で作っていたミニコミの表紙に「ヒロトの全裸使ってもいい?」と聞きました。「ええよ〜」と、ものすごくあっさり快諾を得たので、存分に刷りました。が、売り物としてさすがにちんこ丸出しはヤバかろうと、刷り上がった一冊一冊のちんこ部分にピンクの丸シールを手作業で貼り続けたところ、何やらかえって珍妙なこととなり……ワクワクして持ち込んだ各種外盤店で文字通り爆笑されたことを誇らしく思い返す今日このごろ。ちなみに全裸は公序良俗違反ですから発覚すれば捕まるわけですが、当時のストリート・シーンでそんなことに目くじらを立てる人間は皆無でした。よい時代です。
1985年、私はデザイン会社で働きながら、パンク系バンドのライヴに通いまくり、デザイン学校時代の同級生とライヴハウス・シーンのミニコミを作りながら、やはり同級生だった
杉本恭一がいる
レピッシュというバンドのマネージャーをやっていました。ブルーハーツの存在を知ったのは、そのミニコミ仲間からの情報。「登場するやいなや、みるみる内に動員を伸ばしているバンドがいるよ。ライヴの熱気もすさまじいよ!」。実際、彼らの名前は驚くほど短期間にライヴハウス・シーン一帯に浸透することとなり、その怒濤の勢いにはシーンの誰もがド胆を抜かれていたのです。そんなおり、
ジャンプスというバンドの島さんから1本の電話がありました。「<ジャスト・ア・ビート・ショウ>にレピッシュ、出ない?」。
『JUST A BEAT SHOW』(1986年)
ブルーハーツは「人にやさしく」、「ハ
ンマー」、「未来はぼくらの手の中」
の3曲で参加。
<ジャスト・ア・ビート・ショウ>というのはジャンプスが企画していたシリーズ・ライヴの名称で、かつ、当時ジャンプスは同名のライヴ・オムニバス・レコードの制作に着手しており、85年末、ジャンプス、ブルーハーツ、ロンドン・タイムス、ホルモンズでレコーディング・ライヴが行なわれました。が、録音に失敗し、翌86年にもう一度やり直すことになったものの、突如ホルモンズが解散してしまったので、代わりに出ないかと声が掛かった次第。当時、動員こそあったものの、ジャンル的に対バンできるバンドが皆無といってよく、シーンにおけるバンド仲間に縁がなかった我々は、「喜んで!」と即答。そしてこれがきっかけとなり、はじめて仲間らしい仲間を得ることとなり、さまざまなイベントやライヴで一緒に出演することも珍しくなくなりました。刺激が刺激を生み、互いにライヴで火花を散らしながらも、合同飲み会はもちろん合同クリスマス会とか、男同士の付き合いとしてそれはどうなのか?な親交が深まります。レピッシュのドラマー、雪好くんがライヴ当日に倒れた時、ブルーハーツのドラマー梶原くんにヘルプを頼むとか、結構むりやりなことを頼んだこともありました、あの時はごめんなさい。あ、梶原くんといえば、彼は高円寺の風呂なしアパートに住んでいたのですが、銭湯に行ったらば湯舟で「ブルーハーツの人ですよね?」と話し掛けられ、上がるに上がれなくなって、のぼせてぶっ倒れてたりもしていましたが、それはともかく。ライヴハウス・シーン全体が猛烈に活気を帯びてきたこの85〜86年の2年間は、私にとって、特に忘れられない時代です。とりわけ思い出深いことは、私はこの頃、ミニコミの仲間たちと共にはじめてライヴ・イベントを企画したのですが、すでに大規模イベントからも頻繁に声がかかるようになっていたにも関わらず、またしても「ええよー」と快く引き受けてくれたブルーハーツがおり……小滝橋にあった旧新宿ロフトにて、ブルハ、レピッシュ、ロンタイらに加え、
グールのマサミさん率いるバットロッズ、キャ→、
ニューロティカ、
我殺といった面々が集って下さり、また、こちらが悪ノリして用意した卒業式風の寄せ書きにも率先して書き込んでくれ(この色紙、メンツも内容も今見てもかなり壮絶です)たのです。当時の我々はたかだか22、23歳の小娘だったわけですが、ロフトの店長もバンドの方々も、シロウトだろうが女だろうが熱意には熱意で応じるぜ!という応対をしてくれたことは、確実に今の私の財産になっています。心から感謝しています、ありがとう。
ところで、ブルーハーツの歌は、激しい人気と評判を呼ぶと共に、当時のパンク・シーンで、かなりの物議も醸しました。それは「がんばれ」という言葉に象徴されます。毒づいて当たり前、危険な言葉を使用して当たり前だった時代に、人を励ますとは何事か、という風潮が少なからずあり、私もこの点に関しては結構抵抗があったのです。毒づくことで救われる人間がこの世にはおり、そしてそういう闇を抱えた人間こそがパンクのシーンを形成していたわけですから、彼らへの反発はあって当たり前のことでした。が、同時にブルーハーツの「がんばれ」は、当時のシーンに大きな問題提起を投げかけました。パンクはすでに形骸化して様式美となってはいまいか。そもそも一切の決まりなどないのがパンクではないのか。彼らはアンチテーゼとしてのパンクを、さらにアンチする気概を見せつけていたと言えまいか。捻くれ、捩じれた感情・感覚を、捻くれ、捩じれたまま激情として打ち出すのが当時のパンクであったなら、ブルーハーツはそこにもうひとヒネリ加えることで、むしろ捩れをきつく絞った、一見ストレートに見える大変化球を投げ込んでいたのではないか──そう、彼らの歌はよくストレートだと言われましたが、今にして思えば、思ったことを単にダダ流しするような直球系の歌とは、明らかに趣を異にしていました。むしろ捩じれた感覚を捩じれたまま、分りやすく提示する、その手腕に優れていたバンドだと思うのです。ブルーハーツは、先にいくつか具体例を挙げたように、非常に人間味に溢れていると同時に、反骨精神と機智、そしてユーモアを等しく持っていた稀有なバンドでした。また彼らは、メジャーによくあるハッタリやゴリ押し刷り込みとはまったく無縁、しっかり地に足をつけた真っ当な活動を重ねる中で、猛烈な熱狂へと繋げていった、本物のバンドだったのです。25年経っても、まったく色褪せない彼らの歌が、再び大きく取り上げられることになった今回。それを嬉しく思うと共に──しかしやはりどうしても、つい全裸を思い出してしまう私がいます。オゲレツです。