Babi、
スカートの澤部 渡、
カメラ = 万年筆の佐藤 望と佐藤優介の4人は、ユニークなアーティスト、バンドが次々と登場する現在の東京のシーンの中でも、とりわけ豊かな才能を持つ逸材だ。Babiは
『Botanical』、スカートは
『ひみつ』、カメラ = 万年筆は
『bamboo boat』と、全員今年新作をリリースしているが、それぞれの作品に触れていると、自在に音を操れるスキルを持ち、過去の音楽財産を吸収できる柔軟性もあり、なおかつ大衆音楽というフィールドで開かれていようとする高い志にも貫かれていることに気づかされる。そういう意味でも、今、最も洗練された若手アーティストたちと断言していいかもしれない。
ところでこの4人、ご存知の方も多いと思うが、少しずつ学年が違うし、佐藤 望だけ専攻(コース)も異なるものの、全員同じ昭和音楽大学の作曲学科出身。そこで、大学時代の勉強内容、当時の思惑、その頃の経験で今に生かされていることなどなどをざっくばらんに語ってもらった。さらにはこれから彼らが目指そうとしているポップ・ミュージックとは……? 4人揃っての鼎談は実はこれが初めてとのこと。本音混じりのトークを最後までたっぷりとお楽しみいただきたい。また澤部 渡、佐藤優介の両雄が発起人となって制作されたカーネーション トリビュート・アルバム
『なんできみはぼくよりぼくのことくわしいの?』(12月18日発売)には4人全員が参加。こちらも併せて注目。
澤部 渡 / 佐藤優介 / Babi / 佐藤 望
――確かな音楽教育をしっかりと受けてきた経歴を持ちつつも、新しいポピュラー・ミュージックを作ろうとしている貪欲な姿勢が共通していて、とても刺激的に感じます。そこでまずはみなさんが通っていた昭和音楽大学のお話から聞かせてください。4人は4人共が同級生ではないようですが、全員が同じ時期に通っていたことはあるのですか?
Babi 「重なってますね」
澤部 渡 「Babiさんが一番上で、その1学年下が僕で、その2学年下がカメラ = 万年筆の2人って感じですね。僕とBabiさんと優介くんがサウンド・プロデュース・コースで、望くんがデジタル・ミュージック・コースなんですけど……」
佐藤 望 「音楽学部、作曲学科まではみんな同じで、コースが僕だけ違ったんです」
佐藤優介 「でも僕らがBabiさんと交流するようになったのは、Babiさんが卒業しちゃう直前くらいでしたよね」
Babi 「卒業式の飲み会の時にちょっと話したとか、CDを貸し借りしたり……」
望 「あと、〈SHOWCASE〉という、学内の発表会みたいなものが年に一度あるんですよ。僕の行ってたコースにはなかったんですけど……。そこで互いの演奏を観たりはしていましたね」
澤部 「僕の発表の曲でBabiさんにコーラスをやってもらったり……」
望 「それで初めてBabiさんを知ったんだ。そもそも、Babiさんという人の曲がヤバい!って噂が既にあって、どんなもんかなって感じで観に行ったんです」
優介 「どんなもんかな……(笑)」
――上から目線!
望 「いやいや、大学1、2年の頃はこんなもんじゃなかったですよ。この大学には雑魚しかいない!くらいの気持ちでいましたね。一応、僕は主席で卒業したんですけど、とにかくすごい天狗でした」
――そもそもみなさんは大学に入った頃にはどういう活動を目標としていたのですか?
澤部 「僕の場合はぼんやりとしてて。もともと音楽は好きだったんですけど、将来どうするか?ってことをバッと決めていたわけでもなくて……いまだに何が正解だったのかわかっていないですね(苦笑)。ただ、総合的になんでもやれそうな学科だったのでここなら何かできそうだ、という感じはしていましたね」
Babi 「私は最初はピアノ科を受ける予定で昭和音大のパンフレットを見ていて。で、この学校の学科を見つけて面白そうだなって。最終的に見学に行って四大に行ったのですが、最初は短大でいいのでは?と父に言われた感じで……(笑)」
澤部 「(笑)そんな理由で!」
Babi 「まあ、作曲をやりたいという思いはありましたね。ただ、それもぼんやりしていました」
望 「僕はもっとギラギラしていました。高校卒業後、いったん日大の芸術学部に進学したんですけど、そこを3ヶ月でやめて、その後、芸大を2回受験して失敗して、で、こりゃ縁がないなと思って、学費の免除があるところを探したら昭和音大があったから、まあ、ここでいいやって感じで入ったんです」
優介 「僕もぼんやりでしたよ」
澤部 「でも、そういうぼんやりさんたちがこうして揃っているという偶然もまた(笑)。まあ、望くんは最初からギラギラしてましたけど」
望 「いや、まあ、もちろん僕はその頃は割とちゃんと目標があって。最初に通ってた日芸(日大芸術学部)は、演劇とか映画とか他にいろんな学科があって、それこそギラギラした人たちがいたんですけど、当時はインスタレーションのようなことがやりたかったんです。それと、芸大というブランドにこだわってもいたんで(笑)。でも、結局昭和音大に行って、この学校は自分以外みんな雑魚だとプライドばかりが高くなって」
澤部 「僕の場合、あと、高校時代にギターを習ってて、その時の先生が、昭和音大で講師をやっていたというのもきっかけでしたね」
優介 「ギター習っていたんだ。初耳!」
澤部 「そう、○○先生に」
全員 「えーーーっ!!!」
Babi 「知らなかった!」
澤部 「そうなんです。中学入ってロック・バンドでギター弾くことになって。やるんだったらちゃんと習った方がいいんじゃないの?とかって言われて3、4年くらい……。素直だったんですよねえ。そこでブルース・ギターの基本を教わりましたが、結局いわゆるギタリストにはならなかったのでちょっと申し訳ない気持ちがありますね……」
――みなさん、楽器はいつ頃からやっていたのですか?
優介 「ずっと家にピアノがあって、ちっちゃい時から触ってました。そもそも、母がピアノの先生をやっていて……」
Babi / 澤部 「えーーーっ!!! 知らなかった!」
優介 「個人で教室をやっていたんです。習うというよりはひとりで遊んでる時間が多かったですけど。それでちっちゃい時から曲を作ったりしていました」
Babi 「私は2歳くらいの頃からピアノ弾いたり曲を作るようになって。翌年ヤマハの音楽教室に入って。そこから2年くらい経った頃に、作曲専門コースに行ったんですけど、自分の理解力が乏しくついて行けぬまま卒業し、その後個人の先生の方に移ったんですけど、その先生に昭和音大のピアノ科を勧められていました(笑)」
望 「僕は兄2人の影響で少年合唱をやっていました。ピアノとかもあったので適当に触ったりしていたんですけど、ちゃんと弾き出したのは高校の頃ですね。小さい頃はあまりピアノ自体に興味もなかったんで……」
澤部 「僕はクラシックとかじゃなく、ポップスとかを聴いていて、中学高校の頃はバンドをやっていたこともあるんですけど、ロックなんてもうイヤだ!って思うに至ったんです。なんだろう、あまり合わなかったのかもしれない。中学の頃は
GLAYとか
椎名林檎のカヴァー・バンドでギターを弾いたりしていましたね。で、だんだんこれは違う、これはおかしいぞ、と思うようになっていって……。だからいわゆる普通のロック・バンドをやることにはあまり積極的にはなれなくなったんですよ」
Babi 「私も昔はバンドをやってましたよ。高校でガールズ・ハードロック・バンドでドラムをやってました(笑)」
――なぜドラムを?
Babi 「余ってたから……(笑)。ハード・ロックは、母と兄が
クラプトンや
ディープ・パープルとかが好きだったんで、自分もそこに合わせていきたくてやってみたんです。ちょうどパンクとかも流行っていた時期だったんですけど、それなら私はハード・ロックで攻めるぞ、と(笑)。その後、大学で3ピース・バンドをやってました。あんまりポップスとかを聴かずに育ったんで、ミスチルとかを聴いてみたら?と、友達に言われて(笑)」
澤部 「結局、ミスチルなんだなあ(笑)」
Babi 「母親が固定観念が付き過ぎない様にと、あまり音楽を聴かせない生活をしていたんですね。クラプトンとか
イーグルスとかは家でもかかってたんですけど……自分の好きな音楽との出会い方がわからなかったんだと思います」
澤部 「ああ、わかる気がする……」
Babi 「大学に入ってからですよ、本当に好きだなと思える音楽に出会ったのって。それまでってクラシックとかピアノの曲で、好きな曲が少しあるな、という程度でしたから」
望 「僕も高校の時は軽音の部長としてバンドをやってましたけど、ヴィジュアル系でしたよ。
MALICE MIZERのコピー・バンド」
全員 「(大爆笑)」
澤部 「ヴィジュアル系! 似合いそうだよね〜! それ観たいなあ!」
望 「ベースとして
TOKIOの〈AMBITIOUS JAPAN!〉をコピーした時の映像なら残ってるかも」
――なぜベースを?
望 「余ってたから……」
澤部 「大学ではあんなにプライド高くてギラギラしてたのに……(笑)」
望 「いや、もちろん、家ではTOKIOもMALICE MIZERも聴いてなかったですよ」
優介 「音楽の話で意気投合とか、なかったです……。小学生の時とか無理矢理、自分でカセットに
YMOをダビングしたのを友達に配ったりして……。でもそれでクラスの間とかで流行ったんですよ、YMOとか
ムーンライダーズが。福島のごく一部でですけど……」
澤部 「へぇ〜!」
優介 「友達とコピー・バンドとかは、なかったですね、ほとんど引きこもって曲作ってばかりでした」
澤部 「やっぱり大学に入ってからですよね、いろいろと自分のやりたいことや趣味がわかってきて、ようやく形に出来るようになったのって。僕も大学入ってすぐにスカートって名乗って曲作ったり活動を始めました」
――そのくらい大学の授業やカリキュラムが刺激的だったと。具体的にどういう授業内容だったのですか?
Babi 「いや、あの大学って同じサウンド・プロデュース・コースでも年度によって内容が全然違うんですよ」
澤部 「こんなに近い年代なのに1学年違うだけで全然違うことを教わってるんです。新設の学科だったからですかね」
Babi 「私の時は、最初の2年はメジャー・シーンを軸にしたポップスを打ち込みで作るということに集中した講義でした。私の場合は先生が好きと言ってくれるかな、と伺いながら割と追い込んだり追い込まれたりして打ち込みスパルタ?!的に(笑)厳しくやっていましたね……。毎日夜中まで曲を作って提出してましたね。でも、その時に打ち込みを集中してやっていたので、すごく身につきましたね。その後、映像音楽や、楽譜の書き方とかを教わりました」
優介 「編曲や楽器の特性とかが後半でしたね」
Babi 「そうそう。で、最後の学年の時に牧村憲一さんの授業があったんですけど、その時にコソコソと作った曲を聴いてもらったら、“今まで媚びた音楽を作ってたでしょ?”って言われて(笑)。まあ、すごい計算して音楽作ってたんで、その通りだったんですけどね。でも、その後、媚びないで曲を作ることを勧められて……で、今に至っているんです。すごくいい流れの4年間でしたね。最初修行の期間があって、最後は自分の個性を尊重してもらえて」
澤部 「たった1年違うだけなのに僕とは全然違うんだなあ。新設の学科だったからなのか、自分の向上心のなさの問題なのかわかりませんが僕はいまだに楽譜の読み書きが満足にできないし。1年の時とある必修の授業があって、そこでMIDIのこととかLogicのこととか教わるんですけど、全然その授業に馴染めなくて。友達もできないし楽しくないし、苦しい以外の何物でもないのが最初でしたね。でも、2年とかになってソルフェージュの授業があったんですけど、これが面白かったんですね。普通のソルフェージュの授業は楽譜を読むための基礎訓練みたいな授業なんですけど、僕が習った森 篤史という先生は“今日は
プリンスのビデオを観ましょう”とか
E, W & Fの〈After the Love Has Gone〉を聴いて何回転調するか数えたりとそんな感じの授業で(笑)。大体の人は退屈そうにしてるんですけど、食いつく人はすごく食いつく授業で、そこでやっと友達が出てきて大学が楽しくなってきて(笑)」
Babi 「私の時もその授業あった。あれは最高!」
澤部 「で、1年のときの必修のポピュラー音楽概論という、後に牧村さんが講師を引き継がれる授業があったんですけど、その頃は高田先生という方が講義をされてました。“今日は
ビートルズを聴きます”とか、そんな感じで。でも、それがとても勉強になったというか、楽しかったんですね。結局、10代とかそんなんですから、僕も含めてみんな音楽なんてロクに知らないんですよ。“〈ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー〉という曲を知ってる人いますか?”と先生が聞いても、誰も手を挙げない。次に“じゃあ〈イエスタデイ〉は?”。そこでやっと全員手が挙がる。すると、“Aメロが7小節なんです。普通は8小節とか偶数で終わるんだけど、この曲は奇数の7小節で終るんですよ”というように教えてくれるんです。“ああ、なるほど。そういう風に聴くと面白いな”とか気づかされるわけです。そういう面がとても重要だったと今は思います」
優介 「僕も1年生の時、Babiさんと同じくポップスの打ち込みを教えてくれる先生だったんですけど……。ポップスが作れなかったので、すごく評価悪かったですよ(笑)」
Babi 「それ覚えてる。私的にはどう考えても良い曲だったので、成績が悪いと聞いて“その評価についてはわかんない!”って言ってた記憶が……(笑)」
澤部 「それって〈魔の山〉のこと?」
優介 「そうです」
澤部 「あれは名曲だよね! 今でもiPhoneに入ってるし、時々聴いてるもん(笑)」
望 「その曲で歌ってるのが僕なんですよ」
――もうカメラ = 万年筆としてやっていたんですか!
望 「まだなかったですね」
優介 「自分で歌うのがほんとに苦手で。確か最初、別の子にお願いしていたんですけど、録音の日にドタキャンされちゃったのかな……」
望 「で、僕が他の人の曲のヴォーカルを頼まれて歌っていたところに優介がやってきて、それでヴォーカルを頼まれたんです」
澤部 「いやあ、あの曲は本当に名曲。あれと〈正気のサタデーナイト〉(笑)は本当にすごい」
優介 「でもその先生の指向からは、外れちゃってたのかな」
Babi 「大衆性に重きを置いたJポップを、という空気だったり、先生も色んな方がいたので。まあ、でも、私も入学した頃まではそういう作曲家になりたいと思ってたな」
優介 「やっぱり牧村先生の授業で背中を押された感じっていうのはありましたね。理論的な授業ではないんですけど、その人に合った、その人が求めている音楽のヒントを与えてくれるような内容だったんですよ」
澤部 「そうそう、カウンセラーみたいなね」
望 「僕はコースが違ったんで、レッスンというのがあったんですよ。1、2年の時は少人数で、3、4年になると1対1で先生に指導してもらえるという。毎週曲を作っていって、それについて何かしらコメントをもらっていましたね。まあ、作曲って結局は教わることってなくて。センスを磨くだけなんですよね。クラシックの先生についていたんで、技法もクラシック音楽なんですけど、3、4年時の先生は1時間のレッスン中、ただ会話をしたり、互いに瞑想したりで。“一人暮らしなんでしょ? 何を食べてますか?”とか聞かれて」
澤部 「いい先生だねー」
望 「“塩は何を使ってますか?”“岩塩がいいよ”とか(笑)。僕は牧村先生の授業がとれなかったので潜ってましたね」
澤部 「音楽にもっと興味を持てるようにきっかけを作ってくれたのが牧村先生だったんですよね。音大って技術とかそういう部分も大事ですけど、感性というかアンテナの部分も大事だと思うんです。でも、卒業後、音楽に携わってる人は案外少なくて、アパレル行った人もいたし……」
望 「その人、アパレルの後、キャンギャルになったんですよ」
澤部 「マジで〜!」
Babi 「私の代や先輩は優秀な人が多くて、マニュピレーターとかアレンジャーになっていった人もいるよ」
――でも、ここにいるみなさんは自分が作り手になりたいという意識がそれぞれあった。
澤部 「そうですね」
優介 「時期的に東日本大震災を挟んで、1stアルバムを作っていたんですけど。震災の後、1曲をひたすら作り込むようになっちゃって。おかしいんじゃないか?って自分でも思うくらい、作り直して作り直して作り直して……」
望 「カメラ = 万年筆としてアルバムを出そうというのは、震災前から決めていたんです」
優介 「それまでの自分の総決算をやっておかなきゃ、っていう焦りみたいなのがでてきて。とにかく革命的に新しいことをやって突きつけなきゃっていう」
Babi 「うん、真っ赤のジャケだし」
望 「僕はクラシックでも現代音楽をずっと聴いてきていて。現代音楽は常に新しいことをやってないといけないというようなところがあって、新しいと思っていても過去に誰かがもうやってるよってことがよくあるわけです。つまり、つまんなくても新しいものをやんなきゃいけなかった。僕はその状況に飽き飽きしていたんです。面白い手法がいっぱいあるにも関わらず、現代音楽の表現方法にこだわったりしていて……。たいていは蓄積をどう生かしていくか?よりも手法の方ばかりに目が行ってしまっているんですよ。だから、それをどうにかポップスの方にもってこれないかな?ということはずっと考えていましたね。というか、クラシックとポップスを分けて考えている時点でもう古いというか。優介とはそこが一致していたんです」
澤部 「左翼って言われてたもんねえ(笑)」
――カメラ = 万年筆としては、当時仮想敵はどういうところに置いていたの?
優介 「大学と東電(笑)」
澤部 「わはははは」
優介 「音楽的には……正直、若手もベテランも皆つまらないな、と思うようになってしまってたので」
望 「(みんな)日和ってんじゃねーよ!って意識はありましたね」
澤部 「僕は先鋭的でいたいってタイプじゃないんですよ。今も昔も。先人の轍を踏んで行こうというか、蓄積してきたものを成熟させていこうという気持ちの方が強いんです。音楽で新しいことをやるぞ、ってやるのは素晴らしいことだと思うし、そういう音楽は大好物ですが、果たしてそれは自分がやるべきかと言われたら違う気がしています」
Babi 「私はカメラ〜の2人とも澤部くんとも違って、本当に普通に自分の好きな、自分に合った音楽を作りたいって気持ちが強かったですね。それは今でもそうなんですけど、自分がワクワクするような音楽があまり聞こえてこないな〜ってずっと思っていたんですよね」
――大学時代はどういう音楽が好きだったの?
Babi 「も、好きだけど、それ以上にスクリャービンなの。和音の流れがすごい不思議な感じで。あと、アイスランドの“キラキラ”周辺とか……。その頃、牧村先生が授業でブリジット・フォンテーヌの〈ラジオのように〉をかけたんです。それがとにかく衝撃的で。世界に目を向けてみると素晴らしい好きな音楽がいっぱいあるのに、私はまだまだ知らなくて、私の周囲でも知ってる人が少ないんだなって思いましたね。さっきも話しましたけど、私、親からあまりポップスとかの音楽を聴かされてなかったんですよ。どの曲を聴いてもその曲を自分の曲みたいにピアノで弾いちゃうところが幼い頃あったようで、これは危ない!ってことになって(笑)。大学の時に教わった森先生も“曲を聴き過ぎるのも良くない”って言ってて。確かに最近、曲を作った時は楽しくても、時間を置くと新鮮じゃなくなっちゃうことも多いんで。曲作りに影響され過ぎちゃうのは良くないですからね」
――みなさんはそれぞれ1人で曲を作れるコンポーザーであり、スタジオで他の仲間と一緒に入って曲を作るようなセッション型の曲作りを基本はしないですよね?
全員 「しないですね」
望 「でも、憧れますよ」
澤部 「
昆虫キッズの話とかを聴いていたら、理想的だなあ!って思いますよ」
優介 「昆虫キッズは理想ですよね」
澤部 「うん、あんなすごいバンド他にいない」
望 「ただ、少なくとも僕は我が強いから、自分のやりたいことを通したいんですよね。そうなると、我が弱い人と組まないといけなくなる。でもそれじゃ意味がない。だから(優介と)2人が限界なんですよ。メンバー全員が曲書けるバンドとかカッコいいとは思うんですけど……」
澤部 「大変だろうねー!」
Babi 「殺し合いになりますよ(笑)。私、大学の頃にやってたバンドがそんな感じでしたけど、もうエゴのぶつけあいで……」
望 「でもそれで譲歩するとつまらなくなっちゃう」
澤部 「結局、僕なんかいい曲が書けるうちはいい曲を書き続けるのみってことに尽きるんですよ。でも、それって職人的な意味じゃなく、もっと気まぐれで自分自身に振り回されるような方法なんですが……その上でとにかくいい曲が書ける、という感じでいたいですね」
Babi 「私の場合、音楽が真ん中にドン!とあるわけじゃなくて生活の一部なんで、こういう感じの作り手になりたい!って明確な目標があるわけでもないんですよね。きっと、結婚とかして子供とかが出来たら子供のための曲を作るんだろうなあって思ったりします。こういうのって好き嫌いがあると思うんで、“聴いて聴いて”って気持ちもあまりないですし。気に入ってくれる人がいるともちろん嬉しいんですけど、人生の変化によって変わっていくのも面白いなと思いますね。ただ、今は色んな人と出会って経験して、録音や技術への好奇心もあるので、試してみたいことはたくさんありますよ」
――そういえば、望くんは、今、佐渡島在住だそうですが。なぜ佐渡に?
望 「いや、まあ、電車の広告で見たからなんですけど」
澤部 「そうなんだ! 知らなかった!」
望 「まあ、勉強をしにいってるって感じなんですよ。僕はあまり天の恵みとか偶然に支配されたくないんで、言ってみれば職人的ってことになっちゃうんですけど、作りたい時に自分の考えている音楽がちゃんと作れるようになりたいんです。そのために蓄積が必要なんで、こっそり隠れて佐渡で勉強しよう……って。東京じゃできないですよね。生活に追われちゃって。蓄積ができて、思うように曲が作れるようになったら……ですけど、東京には戻ってきますけど」
澤部 「カメラ = 万年筆はデータのやりとりで続けるんだよね?」
望 「そうですね。最新作の曲も、8割方が僕と優介のどちらかが作ったものを2人でまとめるようなスタイルなんですよ。そういう意味ではあまり変わらないと思いますよ」
優介 「
伊福部 昭が座右の銘にしていた言葉があって、“大楽必易 大礼必簡”っていう、優れた音楽は実はわかり易いものなんだ、っていうことを言っているんですけど。それがいいなあというか、理想的だなと思ってるんですけど……」
Babi 「わあ……」
澤部 「いいこと言うなあ〜」
優介 「いや、もう、正気に戻ったんです(笑)」