7月10日(日)14時、東京音楽大学の中目黒・代官山キャンパスにあるTCMホールにおいて、東京音楽大学付属オーケストラ・アカデミーの演奏会が開催された。
プログラムはモーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466の第1楽章と、ベートーヴェンの交響曲第7番イ長調作品92の第1楽章で、約1時間のコンサートである。指揮は宮本文昭が担当し、コンチェルトのピアノ独奏は安並貴史が担当した。
宮本文昭は2000年から東京音楽大学音楽学部音楽科器楽専攻管・打楽器オーボエ教授に就任し、長年にわたって指揮活動も行なっていた。当日は、宮本文昭が指揮とともにトークも行ない、コンサートの司会的な役割を担った。
まず、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番第1楽章が登場。モーツァルトは自身の演奏会の最後にピアノ協奏曲を演奏し、華やかにフィナーレを飾ることを好んでいたが、ピアノ協奏曲第20番では足鍵盤を用いて低音を豊かにする工夫を施している。このK.466はそれまでのピアノ協奏曲とは一線を画し、芸術的レベルが格段に向上し、当時の愛好家の趣向に合わせた作品ではなく、歴史にひとつの指標を記したものとなった記念碑的なコンチェルトとなっている。おそらく、楽器の変遷と改良が、モーツァルトの発想と可能性と真理を探究する気概を後押ししたに違いない。
モーツァルトの作品がなければ、世界のピアノ音楽界はとても味気ないものになっていただろう。モーツァルトはシンプルで清涼で平穏なピアノ・ソナタをいくつも生み出したが、このコンチェルトも深々とした情感にあふれ、奏者の自由意志に任せる箇所もあり、全体がとても美しく寂寥感に包まれ、物憂げで悲壮感すらただよわせる。
安並貴史はそれらの細部まで神経を張り巡らし、構築感を大切にしながら作品への敬意を示すようにていねいに弾き込んでいく。
このピアノと密度濃い音の対話を繰り広げるのは、オーケストラ・アカデミーのメンバー。宮本文昭のからだ全体を大きく使った渾身の指揮に合わせ、ピアニストとのコミュニケーションを存分に重視。モーツァルト本来のかろやかさや華麗さ、歌心を隠し味としながら、K.466特有の不安感や孤独、悲壮感などをタペストリーのようにこまやかに織りなしていく。
安並貴史は東京音楽大学大学院にて博士号(音楽)取得。第14回シューベルト国際コンクール優勝ほか、第13回日本演奏家コンクール、第7回野島稔・よこすかピアノコンクール優勝をはじめ、国内外の数々の受賞歴を誇る。E.v.ドホナーニの研究を続け、多数の初演を行なうなど、演奏を通してドホナーニの音楽の普及に努めている。
安並貴史とオーケストラ・アカデミーの共演は、お互いの呼吸を呑み込んだ息の合ったものだったが、それを見事にまとめ上げたのは、指揮者の宮本文昭の力である。
彼はタクトを持たずに、みずからの腕と指のこまやかな動きでオーケストラに指示を与え、各セクションのメンバーへとこまやかなアイコンタクトを行なう。もちろん、ピアニストへの心配りは徹底したもので、ソリストとオーケストラの対話がスムーズにいくよう、膝を屈伸させてリズムを取り、腕を大きく広げてオーケストラの全員に動きが伝わるよう、コンタクトを取る。
次の曲目であるベートーヴェンの交響曲第7番の始まる前には、ちょっとしたリラックス・タイムがあった。宮本文昭が客席に向かい、「どなたか指揮台に立って、実際にオーケストラ・アカデミーを振ってみませんか」と声をかけたのである。「指揮棒をお渡ししますよ。私がこうやって振ってくださいと、アドバイスしますので、そのとおりにしていただければ大丈夫です」と。
すると小学生くらいの女生徒がふたり手を挙げた。そして親と一緒にステージに歩み寄り、女の子は指揮者からタクトを受け取ると、上下に振る方法を伝授され、指揮台に上った。アマチュア指揮者がタクトを振ると、即座にオーケストラ・アカデミーは交響曲第7番の一部を演奏開始。女の子は一生懸命タクトを振り、オーケストラはそれに合わせて演奏する。これがふたり続いた。
そしていよいよ後半のベートーヴェンの交響曲第7番第1楽章がスタート。オーケストラ・アカデミーの本領発揮である。交響曲第7番は、冒頭の堂々とした印象的な序奏から、すでにベートーヴェンの世界へと引き込まれる。オーボエやフルートなどが活躍し、弦楽器と管楽器の音の対話、応答が繰り返され、音楽は天上に飛翔するような美しさと歓喜、やすらぎ、抒情を表出し、聴き手の心を高揚させていく。
オーケストラ・アカデミーは、2022年4月開講。オーケストラ奏者として国内外のオーケストラで活躍できる音楽家を育成することを目標としている。在籍期間は1〜3年間で、大学卒業者または同等以上の演奏水準を備えた人が実技試験で選ばれる。東京音楽大学の教授および各地で活躍する演奏家・指揮者のもと、演奏活動を行なうことができ、この7月10日のステージにも教授陣が数名参加し、オーケストラ・アカデミーと一緒に演奏した。2022年度は、第22回別府アルゲリッチ音楽祭の東京公演に参加。このコンサートも聴いたが、指揮者のチョン・ミンとともにみずみずしく勢いに満ちた演奏を繰り広げ、同音楽祭の出演者、マルタ・アルゲリッチ、ミッシャ・マイスキーからも賞賛の拍手が送られていた。
今後は海外公演も視野に入っているというから、より大きくはばたいていくに違いない。彼らの演奏は、大海原に漕ぎ出す若き才能の萌芽を意識させる。全員がひたむきに音楽と対峙し、自身の持てる最高のものを表現しようと、前向きな姿勢と情熱を前面に押し出す。そこには、「音楽する楽しさ」と「オーケストラで演奏する醍醐味」「偉大なオーケストラ作品への敬意」「作曲家への愛情」が見てとれる。
今回、オーケストラ・アカデミーの本拠地である東京音楽大学のTCMホールで初めて演奏を聴いたが、木のぬくもりが感じられる、とても響きのよいホールだった。よく、「オーケストラの音は、練習しているホールの響きが育てる」ということばを耳にする。
ウィーン・フィルはウィーンの楽友協会、ボストン交響楽団はボストンのシンフォニーホール、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団はアムステルダムのコンセルトヘボウという世界3大音響のいいホールで日々練習を積んでいる。その響きを毎日耳にしているメンバーは、オーケストラがいかに美しく響くかを体感しているのである。
東京音楽大学のオーケストラ・アカデミーも、TCMホールの温かくぬくもりに満ちたヒューマンな音を生み出すホールで練習することができる。これは大きな利点である。若き俊英たちが自分の音を磨き、ほかの楽器の音との調和を考慮し、指揮者のタクトから多くを学び、至福のアンサンブルを生み出す。ここでじっくりと時間をかけてオーケストラ作品を学び、仲間たちと音楽する歓びに目覚め、自身の音楽を磨くことができればプロのオーケストラに入団してからも即戦力になりうる。オーケストラ・アカデミーは貴重な1〜3年間を与えてくれる学びの場。音楽人生の源泉である。
取材・文/伊熊よし子
撮影/有田周平