ガレージ〜サイケ感覚でカンボジア歌謡黄金時代を今に蘇らせるバンド、デング・フィーヴァー来日インタビュー

デング・フィーバー   2014/12/17掲載
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ガレージ〜サイケ感覚でカンボジア歌謡黄金時代を今に蘇らせるバンド、デング・フィーヴァー来日インタビュー
 カンボジア系住民約5万人が住む、カリフォルニア州ロングビーチのカンボジア・タウン。2001年、この町でデング・フィーヴァー(デング熱)という物騒な名前のバンドが結成された。メンバーはザック・ホルツマン(ギター)とイーサン・ホルツマン(キーボード)のホルツマン兄弟を中心に、20歳を過ぎてからカリフォルニアへと渡ったカンボジア人のチョム・ニモル(ヴォーカル)をフロントに据えた編成。カンボジア人とアメリカ人という風変わりな構成からなるこのバンドは、60〜70年代のカンボジア歌謡をサイケデリック・ロック〜ガレージ感覚をもって再解釈した音を奏でる。

 カンボジアは1975年からの一時期、政権を握っていたクメール・ルージュ(カンボジア共産党 / ポル・ポト派)の粛清によって多くの知識人や芸術家が命を失った。“堕落した音楽”というレッテルを貼られたカンボジア歌謡のレコードの多くが闇に葬り去られ、それどころか歌手やミュージシャンたちは人知れず虐殺されたが、デング・フィーヴァーが奏でるのは、クメール・ルージュが破壊しつくす以前、カンボジア歌謡黄金時代に残された楽曲の数々である。

 デング・フィーヴァーはかねてから日本でも高い人気を誇ってきたが、2014年11月、彼らの1日かぎりの初来日公演が実現。来日記念盤としてベスト盤『Swallow The Sun』もリリースされた。ライヴの翌日、メンバーのチョム・ニモル、ザック・ホルツマン、そしてドラムスのポール・スミスという3人に話を聞くことができたのでお届けしよう。
――デング・フィーヴァーが結成されたのは2001年ですよね。ザックさんはどのようなきっかけでニモルさんと出会ったんでしょうか。
ザック・ホルツマン(以下、ザック) 「2週間ぐらいロングビーチのナイトクラブを回って、いろんな歌手を見て回っていたんだ。オーディションもしたんだけど、なかなかいい人が見つからなくてね。そんなときにドラゴンハウスという大きなナイトクラブでニモルが歌っているところを観たんだ。カンボジア人のバンドをバックに5人のシンガーが代わる代わる出てくるというステージだったんだけど、ニモルの歌に圧倒されてしまって。観た瞬間に“彼女しかいない”と思ったよ」
――ニモルさんはそのときどう思いました?
チョム・ニモル(以下、ニモル) 「最初は冗談だと思ったわ(笑)。当時は英語もそれほど喋れなかったし。でも、実際にリハーサルをやってみて、“この人たち、本気なんだ”と思ったの」
ザック 「2人の男がやってきて、いきなり“ハーイ、僕らのバンドで歌わない?”なんて声をかけてきても、フツーは本気だとは思わないよね(笑)」
――ザックさんはどうやってカンボジアの音楽にハマっていったんですか。
ザック 「サンフランシスコにいたころ、アクエリアスというレコードショップで働いていた友人が“これ、すげえから聴いてみな!”って1枚のカンボジア音楽のCDをくれたんだ。それが素晴らしくてね。ちょうど兄貴がカンボジア旅行から帰ってきたころだったんだけど、兄貴は兄貴でその旅行でカンボジア音楽の洗礼を受けていて。で、僕がギターでカンボジア音楽のフレーズを弾いていたら、“お前、なんでその曲を知ってるんだ?”って驚いてね。2人で話しているうちにアイデアが膨らんでいって、“カンボジア音楽をベースにしたバンドをやってみよう”という話になったんだ」
――ところで、友人から薦められたCDって何だったんですか。
ザック 「『Cambodian Rocks』(註1)だよ」
註1: Cambodian Rocks / ニューヨークのレーベル、パラレル・ワールドから2000年に発表されたブートレッグ・コンピ。60〜70年代のカンボジア歌謡に世界的注目が集まるきっかけのひとつとなった作品。
――やっぱり(笑)。みんなあれから入ってますよね。
ザック 「そうだよね。そういえばあのコンピはカンボジア音楽のカセットを集めているドイツ人がコンパイルしたということになってるんだけど、実はこんな話があってね。ロングビーチでヘアサロンとCD屋を兼ねたお店を経営してる女性と話していたんだけど、彼女は“あのCDに入ってる曲は全部私が紹介したものなの”って話してたな(笑)。どっちにしたって素晴らしいコンピレーションだと思うけどね」
――『Cambodian Rocks』で初めてカンボジア歌謡に触れたとき、どのような部分に関心を持ったんですか。
ザック 「異なる文化を完全にコピーした音楽には僕自身あまり関心がないんだけど、60年代のカンボジアのミュージシャンたちはベトナム戦争のころにイギリスのロックンロールを耳にして、そこに自分たちの伝統を混ぜ合わせて新しいものを作った。自分たちで解釈し直して、単なるコピーじゃないものを作ったんだよね。あとは楽器編成だね。同じような音楽をやっていても、楽器編成が違うと全然違うものに聴こえる。僕はチャパイ(註2)というカンボジアの伝統弦楽器を改造したギターを弾いてるんだけど、あの楽器が入るだけで独特の雰囲気が出るんだよね。カンボジアの楽器は本当におもしろいよ」
註2: チャパイ / Chapei。二弦の伝統楽器。長いネックが特徴で、ギターや三味線のようにバチで弾く。ザックはひとつのボディーにチャパイとギターのネック2本が付いた改造楽器を使用している。
――カンボジア音楽に触れる前には何を聴いていたんですか。世界各国のサイケを聴いていた?
ザック 「そうだね。トルコのサイケとか日本のタケシ・テラウチ……寺内タケシとバニーズは最高だね! あとは“エチオピーク”シリーズ(註3)ムラトゥ・アスタトゥケ(註4)、そういうものはカンボジア音楽に触れる前から聴いていたよ」
註3: “エチオピーク”シリーズ / 60〜70年代のエチオピア産ジャズ〜ファンクをまとめたコンピ・シリーズ(アーティスト単体の作品もあり)。98年の第一弾から数多くの作品がリリースされており、今日のエチオ・ジャズ〜ファンク・ブームを準備したシリーズといえる。
註4: ムラトゥ・アスタトゥケ / 1943年生まれのエチオピア人マルチ・インストゥルメンタリスト〜作曲家〜アレンジャー。60年代から70年代にかけてエチオ・ジャズの重要な作品を発表。2000年代に入ってから再評価され、後に活発な活動を再開した。
――ポールさんは?
ポール・スミス(以下、ポール) 「もともとザックやイーサンとジャム・セッションをする仲で、彼らから各国のサイケデリック・ミュージックを聴かせてもらったんだ。俺はもともとモータウンを聴いて育ったようなものだから、モータウンからの影響も感じさせる60〜70年代のカンボジア音楽は馴染みやすかったんだよ。あと、なによりも惹かれたのは時代のエネルギー。自由で開かれたものを感じて、そこに惹かれたんだ」
――なるほど。で、ニモルさんのご出身はカンボジアのバタンバン(註5)ですよね。
註5: バタンバン / カンボジア西部バッタンバン州の州都。首都プノンペンに続くカンボジア第2の都市。かつてのポル・ポト派の活動拠点。ポル・ポト政権時代は廃墟と化したが、後に復興した。
ニモル 「よく知ってるわね(笑)。私はバタンバンのなかでもタイ国境に近いトゥモルコル(Tmor Kol)という小さな町で生まれたの。バタンバンの中心部はそれなりに都会なんだけど、トゥモルコルは2階建ての建物すらないぐらいのド田舎(笑)。ロ・セレイソティア(註6)はバタンバンの生まれで、60年代はStung Khieuというバタンバンのナイトクラブで歌っていたの。バタンバンはセレイソティアやパン・ロン(註7)などたくさんの歌手を輩出した土地なのよ」
註6: ロ・セレイソティア / カンボジア独立の父であるノロドム・シハヌーク元国王から「王都の黄金の歌声(The Golden Voice Of The Royal Capital)」と呼ばれた歌姫。カンボジア歌謡黄金時代を象徴する歌手だが、70年代後半、クメール・ルージュによって虐殺されたといわれている。
註7: パン・ロン / ロ・セレイソティアと並び、60〜70年代に数多くのヒット曲を放った女性歌手。クメール・ルージュによって75年に殺されたとされている。
――ニモルさんの世代にとって、セレイソティアやシン・シサモット(註8)のような60〜70年代の歌手はどういう存在なんですか。
註8: シン・シサモット / 歌手〜プロデューサー〜作曲家としてカンボジア歌謡黄金時代を支えた人物。ジャズやラテン音楽を積極的に採り入れた楽曲を数多く発表したが、彼も70年代後半に消息を絶っている。
ニモル 「ラジオから流れていたから、自然と耳にするようになっていたの。カンボジア人だったら誰でも彼女の歌は知っていると思う」
――ニモルさんが子供だった80年代、カンボジアのラジオではセレイソティアのような歌謡曲が流れるようになってたんですか? クメール・ルージュが政権を握っていた75年から78年12月まではまったく流れていないどころか、その間にセレイソティアやシン・シサモットはクメール・ルージュに虐殺されたと言われてますが。
ニモル 「80年代を通じて少しずつ流れるようになっていたみたい。ただ、私は2歳から11歳ごろまでタイのスリン(註9)にあった難民キャンプで育ったの」
註9: スリン / カンボジア国境沿いに位置する、タイ東北部の県。かつてのクメール王朝時代の重要地域ということもあり、現在も住民の半数がクメール語を話す。
――えっ、そうなんですか?
ニモル 「そうそう。だから、私がラジオを聴いていたのはカンボジアじゃなくてタイで聴いていたの」
ザック 「クメール・ルージュは少しでも西洋的とみなすと、そのレコードを割ってしまったんだよね。辛うじて生き残ったレコードが渡ったのは、大きなカンボジア人コミュニティがあるフランスのパリ、それとロングビーチ。クメール・ルージュが政権から駆逐されてもラジオからはまだクメール・ルージュを賛美する歌が流れてたらしいよ。彼女のお姉さんも歌手だったんだけど、そういう歌を歌わされてたって」
――それは知りませんでした。
ザック 「お姉さんとは生き別れになってしまったんだって。お姉さんだけカンボジアに残って、それ以外の家族はタイの難民キャンプに逃げることができた。お姉さんの消息は分からなくなったらしいんだけど、あるとき難民キャンプのラジオからお姉さんの歌が流れてきたらしくて……」
ニモル 「そのとき姉さんが生きてるということがわかったの。その後ようやく彼女とも連絡が取れるようになってね。難民キャンプの人たちはタイに帰化する人とカンボジアに戻る人という2種類がいたんだけど、姉さんから“こっちには住む場所もあるし、戻ってきても大丈夫”と聞かされていたから私たちの家族はカンボジアに戻ったの。姉さんがいなかったらそのままタイに残っていたかもしれない」
ザック 「その経験を書いたのが僕らの〈Sister In The Radio〉(註10)という曲なんだ」
註10: Sister In The Radio / 2011年の『Cannibal Courtship』収録曲。
――ニモルさんの家族は音楽に携わってる人が多いんですか?
ザック 「ニモルの姉さんであるチョービン、それと兄さんや甥もバンドをやってるし、両親も伝統的な民謡を歌ってたらしいし……」
ニモル 「男女一組で演じる伝統的な喜劇があって、両親はそういうものをやっていたの」
ザック 「それにおじいちゃんとおばあちゃんも音楽をやっていて……」
ニモル 「やってないわよ(笑)」
ザック 「そっか。ニモルの一族は全員音楽をやってるのかと思ってた(笑)」
――ご両親はクメール・ルージュの時代に迫害されなかったんですか。
ニモル 「かなり危なかったみたい。姉さんはクメール・ルージュの時代にちょうど歌手をやっていたから一番危なかったらしくて。彼女は69年生まれで7歳ぐらいから歌っていたんだけど、クメール・ルージュを賛美する歌を歌うことで辛うじて生き延びたのね。だから、私たちの家族は本当にラッキーだったのよ」
――ところで、ここ最近トルコやアジア各国、アフリカの知られざる音源は次々に復刻されているのに、カンボジアはまだリイシューが進んでいないですよね。その状況に関してはどう思いますか。
ポール 「やっぱりクメール・ルージュによって失われてしまったレコードがあまりに多いというのが最大の障害だよね。トルコやアフリカの再発音源は国外の人がオリジナル盤を見つけ出してリマスタリングを施してるけど、カンボジアの場合はなかなか辿り着けている人がいない。カンボジア国内ではそういう古いレコードをリイシューしても需要がないし。セレイソティアやシン・シサモットのブートレッグCDRは町中で安価で買えるからね」
ザック 「そういえば、僕らの『Sleepwalking Through The Mekong』(註11)を撮った監督がカンボジア音楽に関する新しいドキュメンタリーを制作しているんだ。『Don't Think I've Forgotten : Cambodia's Lost Rock And Roll』というタイトルで、この前ちょうどニューヨークでプレミア上映が終わったばかりなんだ。それを観ると当時の状況がよく分かると思う」
註11: Sleepwalking Through The Mekong / デング・フィーヴァーが2005年に行ったカンボジア・ツアーの模様を収めたDVDおよびCD。2009年リリース。
――その『Sleepwalking Through the Mekong』にはカンボジアをツアーしてる映像も写ってますけど、現地に行ってみていかがでした?
ザック 「僕らにとってすごく重要な旅だったね。自分たちがやりたいことを続けてきただけだったから、カンボジアであんな反応をもらえるとは思いもしなかった。そこはニモルも一緒だったみたい。CTNっていう民間テレビ局の生放送でライヴ・パフォーマンスをやったんだけど、そのときは彼女の電話が鳴りやまなくてね」
ニモル 「あのときは緊張したわ。デング・フィーヴァーの一員として自分の国でパフォーマンスをするのはあのときが初めてだったから」
ザック 「あれはクレイジーな体験だった。CTNっていうのはカンボジア国民全員が観てるような人気のテレビ局なんだ。だから、番組に出たあとは町中を歩いていてもみんなが僕のヒゲをジロジロ観てね、それから“テレビに出てたあいつだ!”という顔で僕のことを見るんだ(笑)」
ニモル 「あなたはカンボジアで有名なのよ。なにせヒゲが特徴的だから(笑)」
ザック 「彼女のカンボジアの家族や友人の間では、ニモルがハリウッドのバンドに加入したという噂が広がっていたようで、てっきりビヨンセみたいなことをやってると思ったんだろうね。でも、帰ってきてみたらアメリカ人に囲まれてカンボジアの古い音楽をやってるもんだから、みんなメチャクチャびっくりしたって(笑)」
――そりゃそうだ(笑)。
ザック 「それでCTNに出た後も電話がひっきりなしにかかってきて、みんながいかに感動したかってことを口々に叫んでるんだ。僕らにとっても最高の日だったよ。素晴らしいアーティストを輩出してきたカンボジアの音楽に対する敬意がさらに深まったね」
ポール 「古い音楽を新しい形で表現した僕らのスタイルは、今のカンボジアの人たちにとって受け入れやすいものだったんだろうね。きっとタイミングが良かったんだと思う。今のカンボジアは急激に変化しているからね」
――現在の首都プノンペンのシーンはどう思いますか。とても興味深いアーティストが次々に登場していて、僕はとてもおもしろいと思っているんです。
ザック 「ここ3年ぐらいプノンペンに行けてないので、もう少し現地のシーンにも関わりたいと思ってる。3年前はメタルやヒップホップなど西欧の音楽を真似したアーティストばかりだったけど、それが最近になって変わってきてるみたいだね。カンボジアの経済成長の影響もあるのかもしれないけど、社会に余裕が出てきて、アートや音楽に集中できる環境が整いつつあるんだと思う。自分たちがやってる音楽に自信を感じられるようになってきてるし、そこから新しい音楽が生まれてきている」
ポール 「俺らもそういうシーンとコネクトするきっかけがあったらいいと思ってる。ただ、そういうものって自然に起きてくるものであって、無理矢理作るものじゃないからね」
取材・文 / 大石 始(2014年11月)
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