サクソフォン奏者として、新たにバッハの音楽に息を吹き込む――上野耕平が挑むJ.S.バッハの無伴奏作品集

上野耕平   2018/01/11掲載
はてなブックマークに追加
 サクソフォン奏者・上野耕平の3rdアルバム『BREATH-J.S.Bach×Kohei Ueno-』がすごいことになっている! “第28回 日本管打楽器コンクール サクソフォン部門”に史上最年少で優勝したのが2011年夏。2014年には『アドルフに告ぐ』でCDデビューを果たすなど、瞬く間にクラシック・サクソフォン界のエースに駆け上った上野が今回挑んだのは、なんとJ.S.バッハの無伴奏作品集。むろんバッハにサクソフォン曲はないから、ほかの楽器のための作品をサクソフォンに移植しているわけだが、まず注目すべきはその選曲。「無伴奏チェロ組曲第1番BMV1007」「無伴奏フルートのためのパルティータBWV1013」「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番BMV1004」(つまり終曲が〈シャコンヌ〉)。いずれも各楽器の“バイブル”とさえ呼ばれる音楽史上屈指の傑作を並べたのだ。そして、それをサクソフォンで吹くチャレンジ。上野は「こんなのを選んで、俺はアホか! と思うぐらい大変でした」と笑う。その苦心は、そして結果的に得たたしかな手ごたえは……。
――今回、バッハの無伴奏作品ばかりを選んだのはなぜ?
 「まず“バッハ”であることに意義がありました。サクソフォンという楽器、クラシックという音楽を、より多くの人に訴えかけるのに、バッハの音楽はすごく力を持っていると思っているんです。ふだんクラシックを聴いていない人にも“刺さる”音楽。いろんな人をクラシック音楽に引きずり込む入り口になるかなと。そして、そのためにはサクソフォンという楽器は最適だと思うんですね。誰もが知っているメジャーな楽器ですし、ヴァイオリンやピアノに比べてクラシックのイメージが薄いというのも、むしろプラスかなと思います。“おいで、おいで!”と引きずり込みやすい。聴いた人が“バッハいいじゃん。原曲も聴いてみたいな”と感じてくれたらうれしいですね。

 直接のきっかけとなったのは〈無伴奏フルートのためのパルティータ〉です。2016年の4月に東京オペラシティの“B→C(ビートゥーシー): バッハからコンテンポラリーヘ”のリサイタルで吹いたのが、とてもしっくりきたというか、すごく相性が良いと感じました。これ、サックスでイケるなって思ったんです。じゃあ、バッハのオール無伴奏というのはどうだろうと。そうすると、管楽器のための無伴奏作品は〈フルート・パルティータ〉1曲だけですから、ほかは弦楽作品ということになります」
――「無伴奏チェロ組曲第1番」と「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番」は、それぞれの楽器の“バイブル”と呼ばれる、弦楽器のために書かれた音楽を代表するような孤高の傑作です。
 「最初は〈無伴奏チェロ組曲〉の第1番と第2番にしようと思っていたんです。“でも、やっぱり”と思って、1曲は〈無伴奏ヴァイオリン〉に。より大変なほうに変えてしまいました。フルートをソプラノで、ヴァイオリンをアルトで、チェロをバリトンで、と3種類のサクソフォンを使って、アルバムとしてのヴァリエーションも豊かになりますので、それならやっぱり終曲に《シャコンヌ》のある第2番。アルバムの最後は《シャコンヌ》を聴いて終わってほしいなと思いました。人間そのものと向き合うみたいな音楽ですから、何かを残しつつ終わる。ハッピーエンドじゃないのが好きなんです。答えは見つからない。

 でも、そもそも《シャコンヌ》をサクソフォンで吹くのは無理なんです。アルト・サクソフォンの標準音域の最高音から7度上まで必要ですし、不可能に近い。でも、後悔したくなかったし、“できる”より、“やりたい”のほうが勝っちゃったんです。利口な演奏家ならまずやろうとしません(爆笑)。コスパが悪すぎる! でもぼく、プログラムを決めるときに、完全にひとごと(演奏する側より、聴く側にたって)で決めるんです。それが大変かどうかなんか考えずに。ひとごとで決めてあとで苦しむっていうのをずっと続けてます」
――その課題はどのように解決したのでしょうか。
 「標準音域外の高音に関しては、今までのどんな運指表にも載っていないような新しい指づかいを自分で見つけて、なんとかクリアしました。ほんとに手がおかしくなりそうな無理な運指なのですけど。また、ヴァイオリンやチェロの無伴奏曲を吹こうとすると、どうしても重音の問題が出てきます。サクソフォンは単音楽器なので、そこはアルペッジョで吹くことになるわけですが、書いてある重音を全部吹くと、装飾音が多すぎて不自然になってしまう。それをどう選ぶか。さらに、なんと言ってもブレスの問題が大きいですね」
――弦楽器はいわば永遠に弾き続けることができるわけですからね。
 「はい。でも、たとえ弦楽器でもピアノでも、いちばん自然なのはブレスがあることだとぼくは思っています。だから意外といけるんじゃないか、むしろフレーズが変わったりして、弦楽器の原曲とは違った角度で見えるんじゃないかなと、ポジティヴに捉えていました。サクソフォンでやるという新しい良さが、意外とそういうところで見えるんじゃないかなと。とくにシャコンヌとかは、息を使って表現している良さがもろに出ると思いましたね。もちろんヴァイオリンでも、良いプレイヤーは息を感じますが、サクソフォンだと、それがよりダイレクトにわかります。人間が歌っているのに近いので」
――たとえば無伴奏チェロ組曲のプレリュードでは、1拍目のあとで一度フレーズをはっきり切って、ブレスをして新たなフレーズを始めているのは新鮮な感覚でした。
 「あそこは1拍目で和声が解決するので、和声的に、それをまたいでから息を吸って、ということですね。ただ、解決と同時に次の和声のスタートだったりもするので、場所によっていろんな方法を選んでいます」
――今回あらためて聴いて参考にしたヴァイオリン奏者やチェロ奏者の録音はありましたか?
 「いいえ。まったく聴いていません。そこを目指していたわけではないので。原曲の楽器の演奏を目指すのだったら、ヴァイオリンやチェロを習って弾いたほうがいい。最初からサクソフォンの曲として楽譜に向かっています。だからこそアルバム・タイトルも『ブレス』なんです。サクソフォン奏者として、新たにバッハの音楽に息を吹き込むという意味で」
――声部の歌い分けは苦労しましたか? 弦が4本ある楽器に比べたら不利ですよね。
 「とくに〈無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ〉ですね。《シャコンヌ》にいたっては完全に2声だったりするので。そこはやっぱりドイツまで行って教会で録音したからこそ。あの豊かな響きに助けてもらいました」
――ドイツのテュービンゲン郡にある田舎町の小さな教会での録音だったのですね。
 「シュトゥットガルトの南50キロほどの位置にあるメッシンゲンという町の、石造りの教会です。日本のコンサートホールは、木のぬくもりのある、豊かであたたかい響きがしますが、ぼくは、バッハの音楽には、もっと冷たい響きが欲しかったんです。録音の初日、最初に〈無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ〉の1曲目《アルマンド》を吹き始めたときに、“これだ!”と感じました。そこに至るまでの途中で何度、“これは無理だ”と思ったか。でも最初の一音を吹いた瞬間、バッハの音楽とサクソフォンを、あの響きがつないでくれました。

 残響も豊かで、バッハはああいう響きの中で音楽をしていたわけですから、だからこその重音というか、無伴奏作品でも声部が分かれていたりということなのかなと。別に音を同時に鳴らさなくても、しっかりハーモニーになるんですね。日本のコンサートホールで吹くとき、和声的に重要な音にテヌートをつけて強調していたのが、あそこでそれをやると、むしろやりすぎになっちゃうんですね。

 湿度の違いも大きいですね。空気が乾いているので音がより響きます。リードも調子が良い。湿度の高い日本で、いつもいかにハンディを背負って吹いているのかが、ヨーロッパに行くとよくわかります。使えるリードも増えますしね」
――CD付属のブックレットを見ると、ロウソクを置いて吹いている写真が載っていますね。
 「10月初めだったのですが、なにしろ寒くて。暖房もないので、日が当たらないとどんどん冷えてくるんですよ。サクソフォンって、楽器が冷えると音程がものすごく下がるんです。ありえないぐらい。普通なら吹いているうちに楽器が温まってくるんですけど、あれだけ寒いと口元しか温まらないんですね。そうすると、高い音は上がるのに、低い音はどんどん下がってゆくのでどうしようもない。そこで、教会からキャンドルをいただいて、火を灯して足元に置き、楽器を温めながら吹きました。炎のすぐ近くに寄せて、あぶるみたいにして。一度、なんか焦げ臭いなと思ったら、指が焦げてました(笑)。楽器じゃなくてよかった。でも、そうでもしないと録音不可能でしたね。

 準備を含めて本当に大変で、体当たりでしたけど、結局やってよかったですね。これをやったことによって……、なんていうのか、まだまだもっと別のこともできるんじゃないかという自信が深まったというのかな。それは自分に対してというよりは、サクソフォンという楽器に対して。あらためて、“サクソフォンってなんでもいける! この楽器、超すげー”って」
――どんなアルバムになったと感じていますか?
 「自分が丸裸という感じです。今の自分も、そしてサクソフォンという楽器も。ソプラノ、アルト、バリトンという3種類の楽器を使っているので、それぞれの楽器の音も、持っている表情もすごくよく出ていると思います。あとはバッハの音楽ですね。バッハの音楽の持つ説得力、強烈なメッセージ性。それをたった1本の楽器で書いている! CDを聴いてくれるみなさんに、上野耕平という奏者、サクソフォンという楽器、バッハの音楽、そしてその全部をひとつにしている“息=ブレス”を感じていただけたらうれしいです」
取材・文/宮本 明(2017年11月)
Concert Schedule
上野耕平
“上野耕平のサックス道!Vol.2
上野耕平無伴奏サクソフォン・リサイタル [BACH×KOHEI UENO] ”

2018年6月8日(金)東京 築地 浜離宮朝日ホール
開演 19:00

[予定曲目]
J.S.バッハ: 無伴奏チェロ組曲第1番ト長調BWV1007
J.S.バッハ: 無伴奏フルートのためのパルティータイ短調BWV1013
J.S.バッハ: 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調BWV1004

[チケット]
全席指定4,000円(3月一般発売予定)
※ファンクラブ先行発売あり。詳細はオフィシャルサイトにてご確認いただけます。

Info: http://uenokohei.com/information/
最新 CDJ PUSH
※ 掲載情報に間違い、不足がございますか?
└ 間違い、不足等がございましたら、こちらからお知らせください。
※ 当サイトに掲載している記事や情報はご提供可能です。
└ ニュースやレビュー等の記事、あるいはCD・DVD等のカタログ情報、いずれもご提供可能です。
   詳しくはこちらをご覧ください。
[インタビュー] 中国のプログレッシヴ・メタル・バンド 精神幻象(Mentism)、日本デビュー盤[インタビュー] シネマティックな115分のマインドトリップ 井出靖のリミックス・アルバム
[インタビュー] 人気ピアノYouTuberふたりによる ピアノ女子対談! 朝香智子×kiki ピアノ[インタビュー] ジャック・アントノフ   テイラー・スウィフト、サブリナ・カーペンターらを手がける人気プロデューサーに訊く
[インタビュー] 松井秀太郎  トランペットで歌うニューヨーク録音のアルバムが完成! 2025年にはホール・ツアーも[インタビュー] 90年代愛がとまらない! 平成リバイバルアーティストTnaka×短冊CD専門DJディスク百合おん
[インタビュー] ろう者の両親と、コーダの一人息子— 呉美保監督×吉沢亮のタッグによる “普遍的な家族の物語”[インタビュー] 田中彩子  デビュー10周年を迎え「これまでの私のベスト」な選曲のリサイタルを開催
[インタビュー] 宮本笑里  “ヴァイオリンで愛を奏でる”11年ぶりのベスト・アルバムを発表[インタビュー] YOYOKA    世界が注目する14歳のドラマーが語る、アメリカでの音楽活動と「Layfic Tone®」のヘッドフォン
[インタビュー] 松尾清憲 ソロ・デビュー40周年 めくるめくポップ・ワールド全開の新作[インタビュー] AATA  過去と現在の自分を全肯定してあげたい 10年間の集大成となる自信の一枚が完成
https://www.cdjournal.com/main/cdjpush/tamagawa-daifuku/2000000812
https://www.cdjournal.com/main/special/showa_shonen/798/f
e-onkyo musicではじめる ハイカラ ハイレゾ生活
Kaede 深夜のつぶやき
弊社サイトでは、CD、DVD、楽曲ダウンロード、グッズの販売は行っておりません。
JASRAC許諾番号:9009376005Y31015