ドレスコーズの志摩遼平監修のレーベル、JESUS RECORDSから、新作e.p.『
(冬の)路上』がリリースされるのを機に、初めて聴きました。
ギリシャラブ。ありあまる才気が、衒学的とも思える歌詞、そして情報量の多い演奏にあって、それでも“もどかしさ”をもてあましている。音楽のそんな風情に最初はとまどい、けれど幾度か聴き返すうちに、加速度的に“忘れられない人”に……。ヴォーカリスト天川悠雅が書く歌詞の“文学性”がしばしば取りざたされる、その一方で、言葉が持つ“音楽性”について、きわめて意識的な人たちでもあると思う。今回はメールでの質疑応答だったが、対面取材とは違った、いい意味で削ぎ落とされた回答で応じてくれている。“ライヴ”で再会できる日が、ますます楽しみになってきた。
――「からだだけの愛」には、歌詞カードに表記されていない“音の遊び”が随所に含まれていますよね。“猿”“愛”と来て、(聞かないとわからない)“アイアイ”が出てきて、“オッオッ”という母音つながりのコーラスがそこに続く。言葉の意味と響きを交錯させる作詞のスタイルが、どういった経緯をたどってこの曲へと至ったのか、お聞かせ願えますか。
天川悠雅(vo) 「〈からだだけの愛〉は、酒に酔っているときに(歌詞や曲の展開も含めて)一気に書いてしまった曲なので、曲を書く、まさにその瞬間には、(言葉に関して)明確な方法意識はなかったといえます。ただ、たとえば、ランボーの詩に、『母音』というものがあります。“Aは黒、Eは白、Iは赤、U緑、O青よ、母音らよ、何時の日にかわれ語らばや、人知れぬ君らが生い立ちを”(註)というのが冒頭の一文で、そのあとに母音の“生い立ち”、なぜその母音がそれぞれの音に結びついたのかが、もちろんランボーの空想ですけれど、描かれています。ランボーは共感覚者であったといわれており、聴覚が色覚を喚起したそうです。ぼくは共感覚者ではありませんけれど、言語に限らずすべての芸術表現のあまねく持つ力の一つとして、本来何ら関わりのないあるものとあるものとを、結びつけることができる、ということがあるとおもいます。単なるスキャットや、歌詞カードに載っていない言葉が、しかし、歌詞カードに既に文字として書かれた、もっといえば黒インクの活字で定着させられた言葉よりもずっと真に迫っているように感じる、ということがあり、さらにそういう言葉や言葉ですらないような声が、他の言葉と、響きのうえでも、そして意味のうえでもつながりを持ち始め、歌詞カードに載っていた言葉が黒インクの呪縛から解き放たれて、また新しい意味が立ち現れてくる、そんな瞬間を、ぼくは常に待っています。それが、酒に酔ったぼくの無意識にまで浸透した考えであったなら、この曲にもそれが反映されている、という可能性だって、十分にあるとおもいます」
※註: ランボー著 堀口大學訳「ランボー詩集」昭和二六年 新潮社(P82〜P83)
――今回の「モデラートカンタービレ」もそうですが、ギリシャラブの曲の背景には、英米ロックの範疇に留まらない音楽の要素の“影”がうかがえます。『イッツ・オンリー・ア・ジョーク』収録の「パリ、兵庫」では、ウードとダラブッカ(を模した)の音色が聞こえてきました。ブラーがお好きだったそうですが、デーモン・アルバーンがバンドとは別途に手がけている、アフリカ(特に北アフリカ)音楽への興味はお持ちですか。北アフリカにかぎらず、関心を持っている地域があれば、それについても。 「アフリカ音楽、好きです。地理上の区分にあかるくないので、特に北アフリカといわれてもわからないのですけれど、デーモンがプロデュースしたマリの
アマドゥ・エ・マリアムは、それこそブラーにも負けない、最高のポップ・アーティストだとおもいますし、同じくマリの
ティナリウェンは〈パリ、兵庫〉を作る上でお手本としました。他にいま思いつくところだと、ジャマイカのTappa Zukieも友達に勧められて一時期聴いてました。最近は
ムラトゥ・アスタトゥケのジャズ作品を毎日聴いています。でも、こうして書いてみると、とりとめがないですね。実は自分がかろうじて体系的に把握できているのは、90年代のイギリスの音楽くらいのものなのだと、あらためてわかりました」
――「どういうわけか」は、ラテン・ファンクの骨子だけ抜き出したようなリズムにオーガスタス・パブロを思わせるピアニカが絡む、おもしろい構造をした曲ですよね。どういった成り行きを経て完成していったのか、教えてください。前作レコーディング中に“リズムに目が向くようになった”といったむねの発言を読んだことがあるのですが(ニュアンスが違っていたらごめんなさい)、具体的なきっかけがあれば、それもお聞かせください。 「オーガスタス・パブロ、いいですよね。デーモンが
ゴリラズでピアニカを吹くのも、オーガスタス・パブロへの敬意を表明しているのだと、ぼくはおもっています。でも、このピアニカは、志磨さんのアイディアで入れたんです。まったく素晴らしい感覚だとおもいます。曲がリッチになった。この曲はずいぶん前、おそらくは2015年か16年からある曲です。チル・ウェイブという音楽を、ぼくはそれまでまったく聴かずにいまして、そのころはじめて聴きました。(それがチル・ウェイブというジャンルの特徴なのかぼくに聴いたもの固有の特徴なのかはわかりませんが)いいとおもったのは、ドラムにハイハットやライドのいわゆる“刻み”が欠けていて、シンプルで、サステインが短かったこと、反対によくないとおもったのは、音が空間いっぱいに広がっていて、隙間がなかったことです。そこで、シンプルなドラムに、抑制のきいたギターとベースのリフレインを土台に、ラテン・パーカッションを上物として扱う、隙間だらけの曲を作った、というわけです。当時聴いていた、
コンジュント・サンバカーナ、
ベベウ・ジルベルトらからの影響は少しあったように感じますね。きっかけは、ブラジルの音楽をよく聴くようになったことですね。リズムに意識がフォーカスするようになったから、ブラジルの音楽をよく聴くようになったともいえますけれど」
――「ブラスバンド」の歌詞の、“死”に言及した部分が大変印象的でした。こういった詞が生まれた背景を、さしつかえなければうかがえますか。“語り合わずに黙り合おうよ”から“爆音で”と続くくだりが、ギリシャラブというバンドのあり方を表明しているようにも聞こえて、興味深かったものですから。
「その指摘は正鵠を射ています。ヴァージニア・ウルフの『
波』は、ほとんど専ら会話文で構成されているにもかかわらず、沈黙を描いた作品でありますけれど、ぼくもおそらくは似たような方法意識でもって、スタティックな音像を常にひとつの理想として頭の中に置いて、音楽を――言葉も含めて――作っています。順番が前後しますが、〈ブラスバンド〉の詞が生まれた理由について、この曲を作った当時大学生だった自分の、音楽なんかやっていてこの先生きていけるのかなあ、という、自分自身の、将来への不安がありました。“花より団子”という諺がありますけれど、芸術というのは、いわば花を作ることでしょう。でもブラスバンドでは、団子を食べないと死んじゃうし、死んじゃだめだよ、というところまで描かないと、気が済まなかった」
――最初の質問でもうかがったように、意味だけでなく“響き”に留意した作詞をされていると思うのですが、天川さんの歌い回しも独特です。歌い手は多かれ少なかれ、生まれ持った“声質”に唱法を左右されると思うのですが、ご自身の声の特質は、いつ頃意識されましたか。歌い始めてから、唱法上の変遷はありましたか。
「ミニ・アルバム『
商品』を作ったあと、2015年ごろです。キーを下げて、低めの声で朗々と歌うようにしました。やっぱり無理のないキーで歌わないとだめですね」
――上の質問に付随して、影響を受けた歌い手がいたら教えてください。(映画がお好きということなので、なんでしたら“発語”に影響を受けた俳優でも)。
「
レオン・レッドボーンです。もちろんぼくが彼のように歌えているとも、これから先彼のように歌えるようになるともおもいませんが、ひとつの理想として。最近のひとだと
ザ・ナショナルのマット・バーニンガーとかでしょうか。俳優はちょっとおもいつかないなあ……、ごめんなさい」
――歌詞についてもうひとつ。前作収録の「ギリシャより愛をこめて」や「ヒモ」には、ある種のユーモアを感じさせるところがあります。“笑い”の感覚自体、期せずして生まれる部分と意図している部分、両面があると思うのですが、天川さんご自身の資質は、どちらとお考えですか。
「基本的には後者だとおもいます。それでも、聴く人によってはこちらのおもいもよらないところで笑ったりする。それが音楽のおもしろいところ、いや、というより、それが“笑い”のおもしろいところですよね」
――前作もそうでしたが、今回の5曲入りe.p.も、1曲1曲の音楽的な情報量に比して、曲の長さそのものはコンパクトです。アレンジが固まる過程で、枝葉を刈り取っていくのでしょうか。1曲をまとめ上げる中で留意、あるいは苦労されている点があったら、教えてください。
「その通りです。なるべく曲は短くしたい。でも最近は、曲の時間の長さよりも展開の多さ(少なさ)の方に拘泥しはじめています。10分の曲でも、展開が一つしかなければ聴けるんじゃないかとおもって。それこそ、アフリカやラテンアメリカの音楽にはそういう曲がごまんとありますよね、でもいわゆるポップスやロックの枠組みの中でそれをやるとなると一筋縄にはいかない。いまちょうど、苦戦しているところです」
――基本的過ぎる質問でごめんなさい。なぜ“ギリシャ”(バンド名のほう)だったのですか。
「バンド名を決める話し合いが煮詰まって、ふと携帯電話(当時まだ“ガラケー”でした)でヤフーのニュースを見たら、ブラジル・ワールドカップの組み合わせ抽選の結果が載っていて、日本と同じグループに入っていた“ギリシャ”の文字が目に入ったからです。だから一歩間違えば、“コートジボワールラブ”になるところだった(笑)」
――欧米の映画や音楽への深い造詣をうかがわせる一方で、ギリシャラブの音楽には“日本”を感じさせる瞬間が多々あります。日本語で歌っているから、と言ってしまえばそれまでですが、天川さんご自身は、そうした“日本性”についてどうお考えですか。「ギリシャより愛をこめて」や今回の「モデラート・カンタービレ」が感じさせる、“21世紀にはからずも生まれてしまったグループサウンズ歌謡”(褒め言葉のつもりです)的なエキゾチックさの由来に、興味が湧いたものですから。
「“日本性”、他人からよくいわれるし、ぼく自身も自分の音楽にそういった性質があることは承知していますけれど、どこに由来するものなのか、皆目見当がつかないんです。グループサウンズはほとんど聴いていないし、いわゆる昭和歌謡も、人並み以上に聴いているという気はしません。ごめんなさい。でも、ぼくがききたいくらいなんです」
――『(冬の)路上』というe.p.を作る中で、背景にあった“気分”のようなものがもしあったら、教えてください。
「ポップな曲を作るぞ、という気分、
アニマル・コレクティヴが2016年にアルバム『
ペインティング・ウィズ』で、あるいはそのリードトラックである〈フロリダダ〉でみせた、ポップな音楽を作ってやる、その(ポップな)世界に分け入っていく、という気概にも似た気分がありました」
――『(冬の)路上』のレコーディングに際して、ドレスコーズ・志磨遼平さんとお話されたことがあれば教えてください。
「2017年にリリースされたドレスコーズのアルバム『
平凡』について、ぼくが
ローリング・ストーンズの『
アンダーカヴァー』を感じる、という話をしたら、志磨さんも、『アンダーカヴァー』や『
エモーショナル・レスキュー』は、『平凡』を作るときにちょっと参考にしたよ、という話をしてくれました。もしかしたら、志磨さんもぼくも、いま、(妙な言い方ですが)ロックから離れていく自分をみているところなのかもしれません。ロックから離れていくことに関して、まったく平気である、というわけではないのに、平気であるようなふりをして。ロックから離れて、自分の音楽が、これからどうなるのか、どういう地平において成立するのか、もしかしたら志磨さんにも、ぼくとおんなじで、それを(なかば客観的に)見ているという感覚があるのではないか、そのゆくえが、ロックから完全に脱却するということなのか、それとも、まったく新しい地平を、ロックと一緒に切り拓くのか。どちらにしろ、そういった感覚のもとに作られた傑作が、『平凡』だったのではないか、という風に、志磨さんと話しているうちに感じました。ぼくも、作っている音楽こそ違えど、そのあたりは彼と軌を一にするところです」
――天川さんにとっての“音楽を感じさせる”映画や書物があったら、教えていただけますか。
「朝吹真理子さんの『
流跡』という本です。はじめて読んだとき、ぼくがずっと理想として描いているような文章を、かんたんに書いてしまう作家があらわれたなあとおもいました。どこまでも静的でありながら、不穏の予感を読者のなかに確実に残し、それでいて快楽そのもののような……音楽でも、映画でも、本でも、言葉にすると、全部先に述べたような感じがぼくの理想かなあ」
――音楽を離れて、今関心を持っている事柄があれば、うかがわせてください。
「すごくつまらない回答であるとはわかっていますけれど、文章を書きたいです。いっぱい」
取材・文 / 真保みゆき(2017年12月)
2018年2月18日(日)
東京 新宿 レッドクロス
開場 18:00 / 開演 18:30
前売 2,500円 / 当日 3,000円(D別)
出演
ギリシャラブ / Gateballers / Gi Gi Giraffe
2018年2月25日(日)
京都 西院 ネガポジ
開場 18:00 / 開演 19:00
前売 2,400円 / 当日 2,900円(D別)
出演
ギリシャラブ / カネコアヤノ / 折坂悠太(合奏)