現存しないレコード会社であるだけに、“ショーボート・レーベル”を擁していたことが、最も人口に膾炙していると言っていいかもしれない。73年、
南 佳孝や
吉田美奈子のファーストを送り出したショーボートの衝撃はそれくらい大きかったわけだが、その親会社に当たるトリオ・レコードにだって、知られざる聞きものがまだまだ残されている。そう実感させてくれるのが、このたび9点が復刻(うち3点は、あらたに編集されたコンピレーション)された“歌謡曲番外地 トリオ・レコード篇”だ。今回取材に応じていただいた中村俊夫氏は、80年から82年にかけてトリオに在籍。洋楽部に所属するかたわら、邦楽制作の現場にも参画。前出のコンピにも収録されている
三遊亭円丈「恋のホワン・ホワン」や
原めぐみ「見つめあう恋」といった“カルト・クラシック”を手がけた、言わば歴史の生き証人。そんな中村氏自身、トリオ入社以前は音楽雑誌の編集者。ことレコーディングに関しては、素人同然の立場からスタートしたというのだから、よくも悪くもアナーキーだったレーベル・カラーが、うかがい知れてもくる。
――トリオという会社自体、もともとはオーディオ・メーカーだったんですよね。
「創業が1969年。CBSソニーとけっこう近いんですよ。あそこもオーディオというか、家電メーカーが始めたレコード会社ですよね。一方トリオは、そもそもステレオで有名だった。ただソニーの場合、“CBSソニー”という子会社を作りましたけど、トリオ・レコードはあくまでトリオ株式会社の中の一部門だった」
――独立した会社ではなかったんですね。
「オフィス自体は、六本木に独立していたんですけど、会社のトップの名称は“レコード事業部長”。あくまで“レコード事業部”扱いでした。名刺にもそう書いてありましたから」
――立ち上げ当時には、洋楽を出していくねらいがあったんでしょうか。個人的には、レゲエとニュー・ウェーヴを出していたレーベル、というイメージがあるものですから。
「スタート時点では、まずジャズだったんじゃないかな」
――それはオーディオ・メーカーから派生したレーベルとして、納得がいきますね。
「ジャズと、73年から邦楽の制作も始めていたはずですよ。他社からそういう関係者を引っ張ってきた経緯があったんじゃないかな。ジャズと演歌・歌謡曲系をぼちぼち出していたんだなと、初期のカタログを見て思った記憶があります。75年には『プレイボーイ』誌の創業者
ヒュー・ヘフナーが設立したプレイボーイ・レコードと契約するんだけど、これには渡辺音楽出版も絡んでいたはず。ここの第一回発売がバルビ・ベントンっていうヒュー・ヘフナーの愛人って噂されていた女性歌手で、邦楽作品の第一回発売が
木の実ナナだったから。ナベプロから出向のスタッフもいたんじゃないかな? プレイボーイ・レコードの傘下にバークレーっていうレーベルがあって、こちらからは
ルビナーズとか
グレッグ・キーン・バンドとか出てた」
――中村さんが入社された時点では、ショーボート・レーベルは立ち上がって久しかった?
「ショーボートのスタートは1973年で、僕がトリオ・レコードに入社したのが1980年の9月。それまでは、音楽雑誌(『ヤング・ロック』)の編集者だった。雑誌が廃刊になったところでたまたま話をいただいて、トリオに行ったんです。なんで僕に声がかかったかというと、それまでショーボートとかをやっていたスタッフが、当時徳間が作ったジャパン・レコードや、ヤング・ジャパンが設立したポリスターに一気に移っちゃってたんですよ。洋楽もそうだけど、邦楽も人がいなくなっちゃってた。そんな時に、まぎれ込んで入っちゃったんです。“PASSレーベル”が始まってた頃で、時代的にもテクノ〜ニュー・ウェーヴの波が来ていた。会社としても、そこは推してました。
リー・オスカーとか
カラパナとか、それまで売れていた人たちが下火になりつつあった時期でもあったし」
――70年代的なアーティストの人気が終わりを告げて……・。
「そうそうそう。“PASSレーベル”みたいなのが新しかった。注目はされてましたね。一方、ショーボート・レーベルは開店休業状態。やれるディレクターがいなくなっちゃって。僕が入ったのはそんな時期。入社早々やらされたのが、さっき言ったカラパナのライヴ・アルバム。〈JAPAN JAM II〉っていう、他には
サザンとか
チープ・トリックが出演した、横浜のイベントでのレコーディング。それを手伝ったのが、最初の現場でした」
――それまで、音楽制作の現場というのは。
「全然経験してない。そもそもが書き屋さん。雑誌の編集をやってたわけですから」
――そう思うと、めちゃめちゃ大胆な(笑)。
「採用した側としては、なんでもいいから音楽に詳しい人材がほしかったみたい。面接で訊かれたのが、“ニュー・ウェーヴに興味ありますか?”“大好きです”。雑誌時代、
YMOとかの取材もしてましたからね。今思うと、それが採用の決め手だった」
――カラパナの初仕事自体、とどこおりなく?
「洋楽部長と担当ディレクターのアシスタントとして、一緒にやっただけだったんで、そんなに大変ではなかった。ライヴ・レコーディングの実態は学びましたね。“ライヴ”と言ったって、あとでギターをごっそり差し替えたり、化粧直しするんだなとか(笑)。ただ、カラパナの手伝い以降、“これをやってくれ”みたいな指示がなくて。雑誌関係にはいくらでも知り合いがいたから、洋楽プロモーションの手伝いをするうちに、この会社は与えられるのを待つんじゃなく、自分で探さないと……と感じるようになったんです。というのも、トリオ自体、海外のメジャー・レーベルと契約してたわけじゃないから」
――CBSソニーが米コロンビアを持ってる、みたいな環境ではなかったわけですね。
「ではないから、(おもしろそうな音源を)一本買いしていくほかないわけです。世界各国からいろいろ売り込みは来てたけど、他のディレクターが興味のなかったカセットやレコード盤が段ボール箱に入ったまま、倉庫に山積みになってたわけ。どんな売り込みが来てるのか、あれこれ聴いてるうちに、おもしろいのを見つけたんですよ。リボルバーっていう覆面バンドのアルバム。要は、
ジョン・レノンと
ポール・マッカートニーが
ビートルズ以外のアーティストに提供した曲がありますよね、
ピーター&ゴードンの〈愛なき世界〉とか。それをビートルズ自身が演奏してたらどうなるだろうという仮定に基づいて、イギリスのスタジオ・ミュージシャンたちが作ったアルバムだったんです。それを出したのが、今でもよく覚えてるんだけど、1980年のクリスマス・シーズン。そしたら(発売予定日前の)12月8日に、“ジョン・レノン射殺”のニュースが報じられて」
――ああ……。
「ワーナー・パイオニアから発売予定だった『
ダブル・ファンタジー』に、すごいイニシャルがついた。僕がやった
リボルバー(『
愛なき世界〜ノーザン・ソングス』として、09年にCD化)にも、お店が興味を持ってくれてね。当初1千枚程度だったイニシャルが3千枚になって、最終的には1万5千枚くらい売れたんです。制作費がほとんどかかってない上に、お店では“ビートルズ”のコーナーに入れてくれる。“なんだろう?”って買ってくれたビートルズ・ファンがいたみたい。当時トリオの洋楽といったら、ジャズで3千枚売れたら“大ヒット”ですよ。そんな中での1万枚超えでしょ。僕、けっこうほめられたんです。それはよかったんですが、翌年、81年に、今度は邦楽のほうから“手伝ってほしい”という話が来た。それが今回『
歌穂・めぐみ・ともみ〜トリオ・レコード三人娘シングル・コレクション』に収録されている原めぐみだった。80年11月にデビューした、トリオ・レコードとしては初めて手がけた女の子アイドルだったんだけど、鳴かず飛ばずだったんです。80年って、各社ともアイドルに力を入れてた年だったでしょ」
「そうそう。ダントツでしたよね。あと、
河合奈保子。そんな中にあって、トリオはかなり遅れを取っていたんです。ちっちゃい会社だから、おカネもそんなにかけられないしね。そうこうするうちに、今度は彼女の所属事務所が倒産しちゃったんです」
――あらら。
「結局、トリオの邦楽宣伝部あずかりになっていた。宣伝部としては次のシングルを出さなきゃなんないのに、デビュー・シングルの制作ディレクターもいなくなっちゃってて……といった話になったんです。宣伝制作スタッフと僕が昼飯食ってた時に。それまで僕、勘違いしてたのね。〈ボーイハント〉っていう彼女のデビュー・シングルが、
コニー・フランシスのカヴァーだって。それは間違いでオリジナル曲だったんだけど、前年の80年に
シャネルズがデビューしていたり、コダックが
ジャン&ディーンの〈サーフ・シティ〉をCMに使ったり、60年代のアメリカン・ポップスがリバイバルしてた時期だったんです。僕自身、その手が大好きだったんで、邦楽のスタッフから“次に原めぐみに歌わせる作家、誰に書かせたらいいと思う?”と訊かれた時、“60年代ポップスのカヴァーにしたら”って、アイディアともつかぬ提案が浮かんできた。そしたらけっこう乗ってきて、言い出しっぺの僕も制作にかかわることになったんです」
――なりゆきディレクターだったんですね(笑)。
「邦楽のスタッフもアイディアがなかったんでしょうね。“なんでも好きにやっていい”という話だった。80年には
大瀧(詠一)さんの『
ロング・バケーション』も出ていたし、僕自身
フィル・スペクターが大好きだったから、
ロネッツとかああいう感じの音で、女の子アイドルをやれたらおもしろいんじゃないの?って提案して。向こうもノーアイディアだったから、もうなんでもいいよと(笑)」
――原めぐみさん本人とは、当時お話されたんですか?
「やることが決まって、初めて紹介されたんです。こちらのアイディアをいろいろ話したら、彼女も“ぜひお願いします”って。もともとそういう音楽に接していた人ではなかったので、ロネッツを聴かせて、こういう音でこんな感じのことをやりたいんだ、という話はしました」
――教育したんですね(笑)。
「彼女自身、後年のインタビューで、“やってみたいと思った”とは言ってましたね。先ほど大瀧さんの名前が出ましたけど、81年6月に、『ロンバケ』のコンサートがあったんですよ。その会場で、雑誌時代からつきあいがあった
ジューシィ・フルーツの
沖山優司に会った。彼もスペクターとか大好きだからね。原めぐみのシングルの話をしたら、“手伝わせてください!”“じゃあB面、まだ何も決まってないから、曲書く?”みたいな(笑)」
――案外、そんなものなんですね(笑)。
「B面だしね(笑)。で、昔話をしているうちに、(ヴォーカルの)イリアの話題になった。ジューシィで活躍していたのは当然知ってたけど、ふと思い出したのが、ジューシィ以前に彼女が在籍していたガールズ。彼女たちがスロッグっていうGSグループと相乗りで作った、『グリース』のカヴァー・アルバムのことだったんです。全曲日本語でやってたんだけど、その中に1曲、イリアが日本語詞をつけた曲があった。彼女なら、センスのいい日本語詞が書けるんじゃないかと。そう思って、沖山くんを通じて連絡して書いてもらったのが、〈見つめあう恋〉だったんです」
――80年代前半っておもしろい時代で、ニュー・ウェーヴ系女性アーティストと女の子アイドルとが、こと“歌唱”に関して言うと、表裏一体の関係にあったりしますよね。
「テクノ・ポップの音作りが、アイドル歌謡の中でも主流になりつつあった、そういう時期でしたよね。他にそういうことをやれる人が、トリオ・レコードにはいなかった。PASSレーベルを担当してた芝 省三くんがやれればよかったんだけど、できなかった。僕自身、そっちの人脈はなかったから、自分がわかる、できる範囲でやるとなると、フィル・スペクターみたいな方向に行っちゃったんですよね」
――ジューシィ・フルーツ自体、芸能界とテクノ〜ニュー・ウェーヴ系の“なか”を取った存在だったというか。
「そうそうそう。原めぐみにも、そういう可能性だって、あったと思うんですよね。あの時どれくらい出したのかな。数字は僕、把握してないけど、そんなに売れるものじゃなかった。それがウルトラヴァイブの社長の高(護)さんがやってた『リメンバー』って雑誌が、原めぐみを取り上げてくれて。中古盤の価格が2、3万にまではね上がった時期があるんです。言われましたよ、“オリコンに廃盤チャートがあったら、ヒット・ディレクターだ”って(笑)。価格換算したら、けっこう売れましたからね」
――カルト率が高い。
「カルト率が高い(笑)。出した時は売れないけど」
――もう1点、中村さんが手がけられた“カルトな名作”として挙げられるのが、三遊亭円丈師匠の「恋のホワン・ホワン」。
ニック・ロウの「クルエル・トゥ・ビー・カインド」をカヴァーした、大問題作です(笑)。
「これはね、大鷹さん(俊一。音楽評論家。この時期、『ミュージック・マガジン』営業部に勤務していた)が持ってきたんですよ」
――そうだったんですか(驚)。
「当時、円丈さんは“実験落語会”っていう、落語におけるニュー・ウェーヴみたいなイベントをやっていて、それを企画していた人と大鷹さんが飲み友だちだった。その友だち経由で、“円丈さんで何か作りたいんだけど、中村くんのとこでやれない?”って。それで僕も円丈さんを観に行って、自分の中のイメージでは『スネークマン・ショー』。ああいう感じで、音楽とギャグをくっつけたアルバムをやったらどう?みたいな話になったんです。その時点では、僕は円丈さんに歌を歌わせようとは考えてなかった。それも大鷹さんですよ。〈クルエル・トゥ・ビー・カインド〉がいいんじゃない?って、薦められた」
――大鷹さん、何考えてたんだろう(笑)。
「僕も〈クルエル・トゥ・ビー・カインド〉は好きな曲だったんです。ちょっとスペクターぽいつくりだし、原めぐみをやったノウハウで、円丈さんもイケるんじゃないかと思ったんですよね。あんなに大変な作業になるとは、思ってなかったけど(笑)」
――円丈さんご本人の反応は、どうだったんですか。
「音楽に関しては、大鷹さんと僕にまかせてくれました。時間がかかったのは、ギャグ部分のレコーディングですね。一度録ったのを再生しては、“おもしろくない……”って始まるから。レコーディング特性を活かしたギャグを目指していたんですよ。多重録音を活用してみたり。いわゆる“落語家のレコード”だけは作りたくないって、それは最初におっしゃってましたね」
――なのに、歴史に残ったのは「ホワン・ホワン」だった(笑)。
「そうだね〜(笑)」
――“ホワン・ホワン”というフレーズ自体、どうやって生まれたんですか。
「それは作詞家の有川正沙子さんが、最初から書いてきていた。彼女はもともとRVCの洋楽デスクにいた人だったんですよ。その頃すでに独立していて、寺尾 聰さんのアルバムとかに作品提供していて、けっこう売れっ子になりつつあった。これは有川さんに訊いてみないとわからないね。僕も“ホワン・ホワンってなんですか?”とは訊かなかったし(笑)」
――ある意味、衝撃のフレーズだと思うんですけど(笑)。
「僕がのんきだったってことも、あるのかもしれないけど(笑)。そこがトリオ・レコードのアナーキーさというか、けっこうなんでも自由にできましたね。一応新譜会議とかはあって、出席すると営業担当が好き勝手なことを言ってるんだけど。そこさえ耐えれば、結局出せる、みたいな(笑)」
――会社の体質もあったんでしょうか。
「今振り返ると、たとえば酒井政利さんみたいな“プロ中のプロ”が一人もいなかった」
――カリスマ・プロデューサーが引っ張る会社ではなかったと。
「逆にそこが、ぼくみたいな素人上がりにはやりやすかったんですよね」
――制作のプロセスで、ミキシングにはどの程度かかわられたのでしょう。
「原めぐみに関しては、アレンジャーはもちろん立てたけど、こういうサウンドにしてほしいといった指示は、全部僕がやっていました。それこそ最終ミキシングについては、わたくしがOKテイクを出していた」
――スペクター的な音作りって、それこそテクスチャーの問題がありますよね。
「それを分かるアレンジャーが、当時いなかった。大瀧さん以外いないのかな、と思ってたんだけど、原めぐみの編曲担当だった藤田(大士)さんには、ロネッツからなにから、スペクターものを随分聴いてもらいました。そしたら、一度それを譜面に起こしてきたんだよね。こういう音を作るには、どういう楽器が何台必要かを、全部書き出してきてくれた。彼が言うには、“これはピアノ1台じゃできませんよ”。そりゃそうだよね。レッキング・クルーがチームを挙げてやってたんだから。“ドラムも何かやってるんじゃないですか”って分析もしてきてくれたので、じゃあ予算内でその音に近づけるにはどういう楽器編成でやろうとか、そういう研究はしましたね」
――いい話ですね。
「藤田さんが言うには、ブラスがキモになってる。ブラスに加えて、ストリングスがこれだけ必要だと。当時、すべてが生音なわけですよ。予算内では無理ということになって、ブラスとストリングスのどっちを削るか悩んで悩んで。最終的に、サックスだけ入れて、何回か重ねたのかな。ストリングスは1台だけじゃ成り立たないから、ストリングスのほうを選んだ記憶があります」
――ブラスは最低限におさえて。
「バリトン・サックスだけはどうしても入れたいということで、それだけは入れたんです。今だったら、シンセでどうにかなったかもしれないよね。そこの部分は物足りないと思う」
――そうやって、スペクター的な音を手探りで。
「情報が何もなかったですから。『ミュージック・マガジン』の特集内で、大瀧さんが一度だけ書いてたかな。それくらいしか、参考にできるものがなかった」
――円丈師匠の“レコーディングで笑いの実験をする”もそうですけど、それなりに志は高かった。
「笑いのクオリティには厳しい人でしたから、円丈師匠が納得のいくギャグを作り上げるまでが大変でした。師匠はカラオケの、どこから入っていいかわからないんですよ。僕がずっと隣りにくっついていて、肩をポンと叩くタイミングで、歌に入る(笑)。ヴォーカル、11回重ねてますから。まぁ、失礼な言い方になるかも知れませんが、円丈さんのレコーディングを経験したおかげで、どんなに歌が下手でも、レコードは作れるという確信は持てました(笑)。当時、ハーモナイザーって機械がようやくスタジオに導入されたこともあって、けっこう音程がはずれてても、なんとか修正できるようになってたから。スペクター的な音ってことで言えば、デジタル・リヴァーブの登場も大きかったです。スペクター独特の教会みたいなエコーが、それほど大きなスタジオじゃなくても簡単に取り出せるようになったりとか。そのあたり、機材の進化による影響は大きかったですね。トリオ・レコード自体、84年に店じまいしちゃったのかな。その前に僕は辞めてるんですけど、円丈さんのアルバムを作った翌年、82年は、レコード業界にとって未曾有の不況に襲われた年だったんです。貸しレコード屋が出てきて、レコード業界はそれを目の敵にしてね。ああいうのはやめさせろと、社員全員に嘆願書を書かせたりしていた。アナログ盤がどんどん売れなくなって、けっこう深刻な状況になってきた中で、親会社のトリオ的にも、レコード事業部がお荷物になってきてたんです。あともうちょっと頑張ってりゃ、CDの時代が来たのにね。親会社が再生装置を作ってるんだから、CD時代が到来すれば、その後も続いたと思います。トリオ本体も海外向けのブランド名だった“ケンウッド”に社名を変えて、そのケンウッドが今やビクターJVCと合併しちゃったわけですから。あのままやってたら、“ケンウッド・レコード”っていうのが、ビクターエンタテインメントと姉妹会社で残っていたかもしれないね」
取材・文 / 真保みゆき(2019年1月)
原めぐみ&斉藤巴美(斉藤智美)出演!
トリオレコード歌謡曲9タイトル一挙復刻記念・トーク&サイン会2019年2月26日(火)東京 dues 新宿
出演: 原めぐみ / 斉藤巴美(斉藤智美) / 中村俊夫 / 鈴木啓之19:30〜
第一部: 中村俊夫&鈴木啓之によるトリオレコード歌謡曲ヒストリー
第二部: 原めぐみ&斉藤巴美+中村俊夫&鈴木啓之によるエピソード・トーク
第三部: サイン会
※ディスクユニオン各店で対象商品(『歌謡曲番外地 歌穂・めぐみ・智美〜トリオレコード三人娘シングル・コレクション』 / 『歌謡曲番外地トリオレコード【歌謡曲・アイドル篇】愛してA・Chi・Chi!』 / 『歌謡曲番外地トリオレコード【TV・ノヴェルティ篇】恋のホワン・ホワン』)のいずれか1点以上購入につき先着でイベント参加券を進呈。※お問い合わせ: ディスクユニオン営業部 03-3511-9931
(平日10:00〜19:00 / 土日祝日を除く)
dues-shinjuku.diskunion.net/日本ロック昔ばなし#23
〜追憶の1969ニューロック元年〜2019年3月22日(金)東京 二子玉川 ジェミニシアター
出演: 岡井大二(四人囃子) / 中村俊夫開場 18:30 / 開演 19:30
※お問い合わせ: 070-4367-9825
www.geminitheater.jp/