ピアニスト、ラン・ランの新作は満を持して臨んだ『バッハ:ゴルトベルク変奏曲』

ラン・ラン   2020/09/02掲載
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 世界的人気を誇るピアニスト、ラン・ランがバッハの大作『ゴルトベルク変奏曲』の録音をリリースする(9月4日発売)。リピートを省略せずに弾いた結果、演奏時間はなんと約90分。しかも、スタジオ録音に先駆けて収録したライプツィヒ聖トーマス教会でのライヴ演奏(デラックス・エディションのみ収録)も併録するという、たいへんなボリュームのアルバムである。20年近い準備期間を費やし、満を持して録音に臨んだというラン・ランに、8月終わりのリモート取材で話を伺った。
New Album
ラン・ラン(p)
『バッハ:ゴルトベルク変奏曲』

UCCG-40110〜3/デラックス・エディション
――今回の『ゴルトベルク変奏曲』の録音は、実現までに20年もの時間をかけたそうですね。
「『ゴルトベルク変奏曲』は、ピアニストの通常のレパートリーとしては、おそらく最長の作品だと思います。私の場合だと、リピートを省略せずに演奏して約90分かかります。したがって、この作品を録音するには、それなりの戦略を立てなければいけません。その準備のほとんどは、メンタルな作業に費やし、新しい知識を多く学びました。この曲の感情的な側面や知的な側面だけでなく、音楽に対する考え方も学びなおしたんです。プロコフィエフやベートーヴェンの協奏曲の録音でも、知識の吸収にこれほど時間を費やしたことはありません」
――10歳の時にグレン・グールドの演奏を聴いたのが、『ゴルトベルク変奏曲』に興味をいだくきっかけになったとか。
「1981年にグールドが収録した有名な全曲映像をテレビで見て、強烈な印象を受けました。というのは、グールドのバッハは、私が予想していたバッハと大きく違っていたからです。バッハは、もっとアカデミックな音楽だと思っていたのですが、グールドのバッハはもっと抽象的で、新しい演奏の可能性をいくつも示していました。とくにテンポがユニークですね。それと、彼はバロック音楽の本質を非常に深く理解していました。自分の演奏意図と目標を正確に把握していなければ、あのような演奏はできません。グールドのおかげで、バッハとは何か、その全体像を理解するための扉が開いたんです」
ラン・ラン(p)
© OLAF HEINE
――『ゴルトベルク変奏曲』の録音に先駆け、今年3月にヴィースバーデンで初めて公開演奏を披露したそうですね。
「ええ。その日は、とてもナーバスになっていました。聴衆の前で『ゴルトベルク変奏曲』の演奏を生まれて初めて披露するというプレッシャーもあったのですが、ヴィースバーデンには、じつは妻ジーナ・アリスの実家があるんです。演奏会場の客席に妻の親戚が大挙して押し寄せたので、本当に緊張しました。この日の演奏ほど緊張したことはありません(爆笑)。でも、第10変奏をすぎたあたりから、とてもリラックスして演奏できるようになりました。バッハの演奏は、時に恐ろしく感じます。ロマン派の音楽と違い、たんにメロディを追えばいいというものではありません。バッハの音楽にはじつに多くの声部が含まれているのですが、ひとつの声部でミスをすると、それがほかの声部に波及する恐れがある。そういう意味で、非常に怖い音楽です」
――演奏は、休憩なしで全曲通したのですか?
「もちろん。それから、本番前に飲みすぎないように気をつけました。演奏中にトイレに行きたくなるようなことがないようにね(笑)。実際、100分近い音楽を休憩抜きで演奏するのは体力的にもハードですが、いくつかの変奏ではテンポが遅くなりますから、そこで息をつくことができます」
――その後、バッハゆかりの聖トーマス教会でも全曲演奏をなさったのですね。
「ええ。聖トーマス教会は通常のコンサートホールと違い、ピアノの両脇を客席が挟む形で演奏するのですが、実際に聴衆が座った状態で演奏すると、本当に素晴らしい響きがします。時おり、魔法のような音の瞬間が現れるんです。そのサウンドから、多くのインスピレーションを受け、より即興的でパーソナルな演奏をすることができました。バッハ自身が眠る聖トーマス教会で『ゴルトベルク変奏曲』を演奏することができて、アジア人として本当に名誉に思っています」
ラン・ラン(p)
ライプツィヒ聖トーマス教会でバッハの墓に手を合わせるラン・ラン
©STEFAN HOEDERATH
――その後、すぐにベルリンでのスタジオ録音に臨んだのですか?
「いえ、ライプツィヒの後、ブッパータールで3度めのライヴ演奏をしたのですが、今回のプロジェクトにおいて多くの知識をご教授いただいた古楽演奏家のアンドレアス・シュタイアーに客席で聴いてもらい、さまざま点を細かく指摘していただきました。〈この装飾音は少し過剰だね〉みたいな感じで。今回のプロジェクトでは、シュタイアー以外にも何人かのバロック演奏家の前で試演し、多くの貴重な意見をいただきました。たとえば、バッハのトリルはショパンのように演奏してはいけません。あくまでもバロック音楽として演奏する必要があります。最初のうちは、自分でも違いがよくわからなかったのですが、〈いやいや、こんな装飾音はバロック時代には存在しない。まるでドビュッシーみたいだ。そんなに時代を下ってはいけない〉みたいな指摘を受けることで、自分なりの演奏ルールを確立していきました。ブッパータールの後、さらに2週間かけて練習と研究を重ね、ようやく録音スタジオに入ったという次第です」
――今回の演奏では、その装飾音の加え方がとても魅力的です。
「バッハの時代には、装飾のスタイルが2種類ありました。フランス風と、イタリア風です。シュタイアーをはじめとするバロック演奏家のレッスンを受けた後、その実践として、自分でも実際にトリルや装飾音を加えて演奏してみることにしました。今回の録音が時期的にも非常に恵まれていたと思うのは、過去20年近く、ほとんどの奏者がこの作品をリピートの省略なしで演奏するようになったという点です。その結果、リピート部分で装飾音を加えて演奏する習慣が一般的になりました。もうひとつ、今回はピアノ演奏ですので、チェンバロとは違った仕方の装飾音に挑戦しています。言うまでもなく、ピアノとチェンバロの演奏法は大きく異なりますし、とくにピリオド楽器のフォルテピアノは、モダン・ピアノよりタッチがずっと軽いです。そういった知見をすべて組み合わせることで、バロック時代の装飾スタイルをモダン・ピアノに適した形で移植し、より自然な響きを追求していくことができました」
ラン・ラン(p)
©STEFAN HOEDERATH
――バロック演奏家以外で、『ゴルトベルク変奏曲』に関して影響を受けたアーティストは?
「マレイ・ペライアの録音が大好きです。彼は、早い時期からリピートを省略せずに演奏していた稀な存在ですね。それから、ダニエル・バレンボイムのブエノスアイレスのライヴ録音。彼は個々の変奏の間をまったく空けず、あたかも全体がひとつの作品であるかのように演奏しています。個々の変奏の最後の音を伸ばしたまま、アタッカで次の変奏に入るのですが、とても興味深い解釈だと思います。アンドラーシュ・シフのピアノ録音、ワンダ・ランドフスカのチェンバロ録音も好きです。ファンタスティックとしか言いようがない。どちらかというと、古い録音のほうが好きなんです。比較的新しい録音もいくつか聴きましたが、あまり感銘を受けませんでした。やっぱり古い録音のほうがいいですね」
――今回のコロナ禍で、今年予定されていた『ゴルトベルク変奏曲』の演奏ツアーが中断状態となり、本当に残念です。
「今年2020年は、我々すべてにとって不幸な年となりました。私のすぐれた音楽仲間も演奏予定がすべてキャンセルとなり、行き場がありません。非常につらい状況です。仮に教育活動に専念するにしても、ソーシャル・ディスタンスを守らなければいけませんから、非常にやりづらいですね。数ヵ月の我慢で終わるようなものでもないので、正直恐ろしいです。でも、こんな状況だからこそ、今後予定している『ゴルトベルク変奏曲』のツアーをキャンセルするようなことはしたくない。この作品を演奏することで、多くの人の心を慰めることができるからです。こんな時だからこそ、人々は以前にも増してバッハの音楽を強く必要としているのではないかと思います」
取材・文/前島秀国(サウンド&ヴィジュアル・ライター)
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