真木柚布子の通算50枚目のシングル「紅傘の雪」は、前作「時には花のように」に続いて真木自らが“市原まい子”名義で作詞を手がけ、「砂の城」「ふられ上手」(2009年)、「夜明けのチャチャチャ」(2017年)などの提供曲がある樋口義高がスケールの大きなメロディをつけた、情念ほとばしる歌唱も迫力満点のドラマチック演歌である。カップリングの「満天の夢」も同じコンビだが、こちらはビギンのリズムが軽快なお得意のリズム歌謡。デビュー32年目の2021年を好対照の2曲で走り出した彼女に、テレビ番組『令和歌謡塾』(BS日テレ)の収録後に東京メディアシティの控室で話を聞いた。
――ジャケットのお着物と髪型が、今日のお姿とは対照的ですね。
「ドラマ性のある作品なので、きれいなだけじゃないものにしようって言ってこんな感じになりました。雪国のさびれた花街の芸者さんみたいな主人公を思い描いて書いた詞ですし、雪のなか男性を追いかけるわけですから、髪は少し乱れたイメージですね。普通に乱れるのは簡単なんですけど、きれいに乱れさせるのはプロの手を借りないと難しいので、今日は普通にしました(笑)。着物のほうですが、ジャケットで着ているのはお借りしたものなので、今回は自分の持っているものからいろいろ探して、曲名の“紅傘”に合わせて赤でいこうかなと。番組でもちらっとお話ししたんですけど、こういう着物ってかわいく着ようと思えばかわいくなるんですね。でも今回はちょっと粋な感じにしようと思って、衿や帯の選び方を工夫しました。差し色次第で着物って全然雰囲気が変わるんですよ」
――大人の雰囲気ですね。赤い着物に紺の衿はとても印象的です。
「よかった。白のほうがいいかなとかいろいろ考えたんですけど、白だと普通になりすぎちゃうの。なので玄人っぽくしてみました。赤い草履は着物に合わせたものなんですけど、歌詞に“赤きつま掛け”が出てきますでしょう。つま掛けというのは下駄のつま先につけるカバーみたいなものなんですけど、それは無理だったので、せめて赤い草履をと」
――僕は着物を着たことが一度もないのでとても興味深いお話です。
「そんな大したもんじゃないんですけど、ちょっとうるさいんです(笑)。長いこと着ていますし、その前には芝居や踊りもやっていたので、こだわりがあるっていうかね。コンサートじゃない普通の営業でも、ただ1枚着るんじゃなく引き抜き(早替え用に重ねる別の着物)を乗せて、合わせて草履も変えたりします。振袖を着るときは、切った袖を使って作ったお揃いの草履を履くから、引き抜きをする場合は草履も2足必要になるんです。無難に白1足だけ持っていけば楽なんですけど、どうしても着物に合わせた草履を持ちたいので、いつも30キロぐらいの荷物を引きずって旅しています」
――30キロ!それは大変ですね。
「40分のステージでも、一回引き抜くと着物が変わってお客さんも喜んでくださるんですよ。そのときに草履も替えて出てくると“おおー!”って言ってもらえるので、それが快感でやっているようなところもあります(笑)」
――それで今日の着物は“紅傘”にかけていらっしゃるわけですが。
「雪の白と紅傘の赤の色の対照からイメージできるような、女性の情念みたいなものを描きたいなと思ったんです。“絡みつく けだしの裾のもどかしさ”とありますけど、けだしってもしかしたらわからない人がいるかもしれないな、とくに男性は……」
――わからないです(笑)。
「そうよね。着物の下着のことです。お腰(腰巻)ともいいますね。着物の汚れを防いで足さばきをよくするために着るものです」
――……あ、お腰ですね。“起こし?”と思っていました。何も知らなくてすみません!
「いえいえ。男性を追って雪のなかを漕ぐように歩いていく情景を描いているんですけども、湿気が多いと、けだしが足にまとわりつくんです。“行かせてよ 行かせてよ”と、できれば走って追いかけたいけど思うように走れない、そのもどかしさを表現したかったんですね。もしかしたらわからない人がいるかなと思うと、これからキャンペーンもあるのでちょっと不安ですけど(笑)」
――それはむしろレクチャーしてあげてください。
――市原まい子は真木さんのペンネームだそうですが、歌詞が先で、後から曲をつけてもらったんでしょうか?
「歌詞が先です。テーマを決めるのに時間がかかりました。じつを言うと最初は〈満天の夢〉がA面のつもりだったんですよ。ディレクターと話して、ビギンのリズムで一曲作ってみようということでスタートしたのが〈満天の夢〉で、こっちはなんとなくイメージがあったもんですから、わりとスムーズに書けたんです。そこへもう一曲という話になったときに、ガラッと雰囲気の違うものにしたいのと、わたし“演歌ミュージカル一人芝居”というのものをコンサートでやってるので、それにつながるような作品なら挿入歌にもできるしと思って、いろいろ調べたりしながら模索しました」
――そういう経緯があったんですね。
「ミュージック・ビデオに出てくる山形の銀山温泉の映像を見て、こういうところにいる女性像、不誠実な男性を“自分って本当にバカだな……”と思いつつ追いかけてしまう女の性(さが)みたいなイメージで書こうと思って。テーマさえ決まれば早いんですけど、それが決まるまでに時間がかかりました。“二十四本の 骨さえも 砕けて落ちる 蛇の目傘”ってフレーズにしても、蛇の目傘って骨の数が16本、24本、36本とあって、数が多いほど高級なんです。この歌に出てくるような女性はそんなに高級な傘を持っているとは思えないし、“にじゅうしほん”という語呂がはまったのもあって」
――隅々まで設計された歌詞なんですね。
「そんな設計もしていないんですけど、本格的な演歌の作詞は初挑戦なんです。10年ぐらい前に〈愛をありがとう〉(2009年、〈別離(わかれ)の雨〉のB面)という曲で作詞したことはあるんですけど、これは“幼い頃の 夢を追いかけて ここまで来たの”と自分のことを書いたものですし、前作の〈時には花のように〉(2020年)も、癒しの応援歌みたいなテーマに沿って桜、バラ、すみれ、百合の4つの花に心持ちを喩えた歌で、演歌とは全然違うタイプでしたので」
――2曲ともに鼻濁音の美しさが印象に残りました。
「ありがとうございます。意識はしていないんですが、役者時代の経験が生きているんでしょうね」
――歌唱面で工夫されたのはどんなところですか?
「サビ前で“しがみつく しがみつく”と2回繰り返して、ちょっと空けて“♪しがみ〜つく〜”と歌っているんですけど、ここで変調、調子が変わっているんです。この間(ま)のとり方がね、入りやすくアレンジしていただいているんですけど、もしかするとみなさんには難しいんじゃないか、と不安になりましてね。何か教えて差し上げるいい方法はないかなと思って、(テーブルを叩いてリズムをとりながら)“♪しがみつく、しがみつく、しがみつく、しがみ〜つく〜”と歌って、この3つ目を心の中で歌うようにすれば歌えるんじゃないかな?と。そういうワンポイントレッスンをしていこうと思っています。ここでくじけられちゃうと困りますから(笑)」
――たしかに最後の“しがみつく”はちょっと難しいかもしれません。
「演歌はいい歌なら売れるってわけじゃなく、自分が歌えるか、歌えないかで買うかどうかを決める方が多くて、歌いやすい歌を求まれたりもするんです。でも難しいのはここだけなんですよ。あとはメリハリをつけるだけなんですけど、“♪女の性の愚かさよ〜〜”って自然となるように樋口先生が作ってくださっているので。曲をいただいたとき、わたしもここはちょっと難しいんじゃないかなと思ったんですけど、樋口先生は“ここがいいんだ”と譲れなかったみたいです(笑)」
――“歌を語り 人生を演じ 儚さを舞う”を標榜されている真木さんとしては、腕の見せどころのような曲なんじゃないでしょうか。
「そう思います。“演歌ミュージカル”をテーマにずっとやっているんですけど、これなら踊りもつけやすいし、演技もできるしね。ただカラオケの画面を見て歌うよりも、詞を覚えていただいて、歌の世界に入り込んで主人公になりきって歌うと、楽しさが全然違うんですよ。その楽しさをみなさんにも知ってほしいですね」
――いずれにせよ僕ら素人は真木さんのようには歌えませんが……(笑)。
「みなさんお上手ですよ。難しい歌を好んで歌われる上級者もたくさんいらっしゃいます。初級者の方たちが歌いやすい歌ももちろん大事ですけど、そこにだけ向けてやっていたら演歌の世界はダメになっちゃうから、やっぱり面白かったり、感動的だったり、“難しいけどいい歌だね”って言われるような歌を歌っていかなきゃいけないと思いますね。歌いがいのある、聴きがいのある、勉強しがいのある歌をね。一曲マスターすれば一段うまくなって、さらにもうひとつ難しい歌に挑戦できるじゃないですか。わたしがみなさんにお教えしているのは、“もっと歌を楽しむために練習して、勉強してください”ということなんです。声の出し方ひとつとっても、今まで出なかった音が出るようになればそれまで歌えなかった歌も歌えるし、そしたらまた楽しくなるでしょう」
――教えることも歌手活動の大事な一部分なんですね。
――真木さんが“演歌ミュージカル”を標榜されていることには、もともと役者さんだったことが関係してると思いますか?
「もちろん。歌も芝居だと思っています。だからこそ、自分がイメージをちゃんと抱いて歌わないと、見ているお客さんにもイメージが湧かないですよね。たとえば〈美唄の風〉(2018年)では“山よ川よ 花よ鳥よ”って歌っていますけど、そのときに山や川が自分で見えていないとお客さんには想像できないし、花が咲いて鳥が飛んでいる情景を脳裏に描いて歌えてこそ、故郷のなつかしさを感じていただけると思うんです」
――女優デビューが先で、当時も松本真季というお名前でレコードを何枚か出されていますよね。
「そうです(笑)。よくお調べいただいてありがとうございます。そもそも物心ついたころからずっと歌っていて、本当は歌手になりたかったんですよ。ただ子供のころはすごく人見知りで、家では上手に歌えるのに、学校で歌わされると恥ずかしくてヘタになっちゃうの。『スター誕生』(日本テレビ系)に出たくて出たくてたまらなかったんですけど、絶対あがって失敗しちゃうなと思ったら出られなくて。お芝居も子供のころから好きで、漫画本のセリフを読んでは楽しんでいたんです。だからまずお芝居の訓練をして、そのうちに歌もやれたら、という感じで劇団四季研究所に入りました」
――セリフの練習に使った漫画本ってどんなものですか?
「『マーガレット』(集英社)とか『少女フレンド』(講談社)とか、当時の少女漫画です。学校から帰ってくると、物置に山積みになっていたのを下から引っ張り出してね。漫画って表情が描いてあるから、すごく勉強になるんですよ。いい教科書だったと思います。小学校では演劇部がなかったので人形劇部に入って、中学にもなかったので音楽部。高校でやっと演劇部があったんですよ。新入生っていろんな部活に顔を出してどこに入るか決めますけど、わたしは演劇部にまっしぐらでした」
――演劇部でのご活躍は?
「1年のときに舞台を一回踏んだんですけど、そのころにはもう週に一度、東京の養成所に通っていたんです。舞台が始まる前は毎日稽古があるから、とても埼玉の秩父からは通えないってことで2年から都内に転校したので、そこの高校には1年までしかいなかったんです。養成所でお芝居をやって、舞台を踏みながら学校にも行って……という日々でした。そこに山口百恵さん主演の『エデンの海』のオーディションの話がきたんです。主役をいじめる4人の不良少女役で、ひとりは山本由香利ちゃんっていう子が決まっていたので、あと3人にわたし(当時の芸名は安武まゆみ)と浅野温子さんが入って、落ちちゃった子たちは生徒役で出たりしていました。それがスクリーンデビューです」
――歌だと緊張してしまうけど、お芝居はできたんですね。
「言われてみればそうですね。お芝居ももちろん緊張はしたんですけど、どうして歌だとあんなにあがっちゃったのかはわからないです。自意識過剰だったのかも(笑)」
――他人を演じることでいくぶん自意識から解放されるとか、演技を通して歌にアプローチし直したのが効果的だったみたいなこともあるのかなと思ったんですが。
「そうですね……自分でも考えたことがなかったです。学校でギターを弾きながら友達と3人でハモって歌ったりはしていたんですよ。ただ(『スター誕生』で)テレビで歌うというのが怖くて怖くてしょうがなかったのかな。もしかしたらテレビが怖かったのかもしれない、今思うと」
――今はバリバリ活躍されているのに、不思議なものですね。
「松本真季の名前でポップスを歌って3年で4作出しましたけど、ほとんど売れなかったんです。女優とかけ持ちだったから、レコード会社も“女優さんが歌っている”っていうふうにしか見ていなかったんでしょうね。わたしはそんなつもりは全然なくて、いたって真剣に取り組んでいたんですけど、どうも会社的には本気で売ろうとしていなかったみたいで(笑)。そうこうするうちに歌い手のリストラの話があって、ディレクターから“君は最初に名前が挙がるよ。いっそ雰囲気も名前も変えて、着物を着て演歌をやらへんか?そしたらなんとか残せるかもしれない”って言われて、“これから女優に戻っても真ん中には立てないし、思いきってやってみようか”と芝居を捨てて歌一本に絞って、市川昭介先生のところにレッスンに通い始めたんです」
――いよいよ演歌歌手・真木柚布子の誕生ですね。
「もともと歌はジャンルを超えて何でも歌っていたし、ずっと踊りをやってきて時代劇にも出ていたから、着物を着ることには抵抗がなかったし、コブシも回せたし、できるかもしれないな、っていう軽い気持ちでレッスンにうかがったんですけど、市川先生にコテンコテンに自信を砕かれました(笑)。最初のとき“6時から”って言われて夜6時に行ったんですよ。そしたら先生がゴルフで遅れちゃって、8時に帰ってらしたんですね。それからすぐに手を洗ってピアノの前に座ってくださって、レッスンが始まったんですけど、それから一度の休みもなく、夜中の2時まで」
――えー!
「もうね一字一句止められるの。“あー”ってひと声出すと“んん”(首を左右に振る仕草)って。“あー”って別の歌い方をしても“んん”、“あー”“んん”“あー”“んん”で、何が正解なのかわからないんですよ(笑)。わたしは“女優のわりには上手だね”とか“演歌をやっていなかったのに歌えるね”とか、ほめてもらえるんじゃないかって生意気な考えがあったんですけど、ことごとく思い上がりをくじかれて、“わたしはなんてヘタなんだ……”と思い知らされました」
――大人になってから自信をコテンパンに崩されたのはしんどかったでしょうね。
「しんどかったです(笑)。でも同時に“なんて楽しいんだ”とも思いました。じつはね、女優時代に徳間さんのオーディションを受けたことがあるんです。“わたし、演歌もジャズも歌えるんですよ”みたいな感じでいろんなタイプの違う歌を入れて歌ったんですけど、徳間の人に“うまいんだけど……何がやりたいの?”って言われちゃって。それが自分でもわからなくてすごく困ったという経験があったんです」
――何でもできてしまったからこそ、中心がなかった?
「そうなんです。でも、市川先生に〈いのち花〉という曲をいただいて30歳でデビューしたとき、演歌って“演じる歌”、まさにお芝居なんだなって気づいたんです。わたしの好きな踊りもつけられるし、演技もできるし、もしかしたらわたしの軸になるのはこれかもしれないと思って、一気にはまっていって。ですから、最初から“演歌ミュージカル一人芝居”をやろうって決めて、規模は小さいなりに歌と踊りと芝居を組み合わせてやってきたんです。ここ10年ぐらいは自分のオリジナル曲で作っていますけど、それまでは〈十三夜〉とか〈明治一代女〉とか、ひとの歌も盛り込んでやっていました」
――歌に踊りにお芝居に着物と、それまでやってきたことが全部、演歌でつながったんですね。
「つながったんですよ。それでコンサートをやるのもすごく楽しくなってね、“あれもこれもやろう、こういうふうにやろう”って、アイディアがいっぱい出てきて」
――僕はコンサートにお邪魔したことがないんですが、“演歌ミュージカル一人芝居”はどんな感じでやっているんですか?
「『能代お菊』は秋田の能代を舞台にした瞽女(ごぜ)の物語なんですけど、これには面白い話があってね、津軽三味線を一曲ステージで披露しなきゃならなくて、本番まで半年しかなくて焦っていたんです。そしたらたまたまある飲み会でわたしの向かいの席に座ったのが、今もたびたびご一緒している澤田勝春先生。“津軽三味線がさ……”って話しているのを聞いて“えっ!三味線?ぜひわたしに教えてください!”ってその場でお願いして、半年間特訓していただきました。わたしは主役の瞽女お菊と語り部のお婆さんの二役で、ポニーテールを丸めてかんざしを刺したらお婆さん、それを抜いたらお菊、というふうに演じ分けるんです」
――現代というか戦時中のお話もありますね。
「『知覧のホタル』ですね。特攻兵と少女の悲しい恋の物語ですけど、このときはお婆さんと15歳の少女と二十代の女性を演じました。早着替えとカツラですっごく大変でしたね(笑)。『北の浜唄』は同名のわたしの歌(2013年)をテーマに、青森で居酒屋を切り盛りする女将を演じた、ちょっとコミカルな要素もある作品です。『お光・吾作物語』は佐渡に暮らすお光という娘が本土の新潟から来た吾作を好きになって、たらい船を漕いで新潟に通うんですけど、吾作はそれが疎ましくなって目印の灯りを消してしまい、お光は真っ暗な海で死ぬという悲しいお話です。最新作の『藍染の高尾』は〈紺屋高尾〉(2018年)をテーマにしていて、初めて講談と7役に挑戦しました。一人芝居はここのところコロナのせいでやれていないんですけどね」
――あぁ……コロナの影響は深刻ですよね。
「1年ごとにコンサートとディナーショーを交互にやっていて、今年はまたコンサートで一人芝居をやるはずだったんですけど、ちょっと怖くてまだ決められないんです。来年になっちゃうかなと思うんですけど、〈紅傘の雪〉をテーマにしてみたいですね。“歌謡芝居”というのもやっていて、『九段の母』という例の有名な歌にセリフをつけていただいた10分ぐらいのレパートリーをデビュー当時から持っていて、営業先なんかで披露してきたんです。これを見たいがために呼んでくださる方も多くて、お芝居もやっている歌い手だってことを少しずつみなさんに認識していただけるようになったのかなと」
――今年は演歌歌手としてのデビューからは32年目、芸歴でいうと46年目になるんですね。
「恐ろしいですね(笑)。もうね、止まることができないから動いていくしかないんです。赤い靴を履いたバレリーナみたいなもので、一度赤い靴を履いてしまったからには、止まったら死んじゃうんですよ」
――“赤い靴を履いてしまったからには踊り続けるしかない”かっこいい!僕は大満足ですが、真木さんからぜひ言っておきたいことがありましたらお願いします。
「じつはコロナ禍でちょっと方向性を変えようかなと思っているんです。大きなイベントはリスクがあるし、そもそもそんなに大それた目標もないし、時代的にもますます先がどうなるかわからないから、細かくやっていかないといけないなって。まずひとつは、これまでわたしが身につけてきたことをみなさんにお教えして、一緒に楽しみながらお勉強していただけるような、“真木柚布子とともに 歌習い”みたいなレッスン会的なものをやってみたいなって思っています。あとは、小さな小屋を借りて、呼吸や汗や涙を感じていただけるような一人芝居をやりたいな、とか。それから、演歌ミュージカルや歌謡芝居の作品がいっぱいあるんですけど、大がかりで地方にはなかなか持っていけないんですよ。なので、ご覧になったことのない方のために、DVDの観賞会を前半にやって、後半は歌謡ショーみたいな中規模のイベントもやってみたいし。ほかにもいろいろ企画中ですので、楽しみにしていただきたいですね」
――すばらしい。コロナに負けない真木柚布子ですね。
「負けちゃいられないもんね!」
――僕はもう負けそうなので(笑)、真木さんのバイタリティに元気づけられます。
「いやいやいや、わたしもくじけそうになりますけど、こうして話しながら“そうだ、もっと頑張らなきゃ”って気合いを入れ直しているんですよ。頑張りましょう!」
――はい、頑張りましょう! インタビュイーの方に励まされたのは初めてかもしれません(笑)。ありがとうございました!
取材・文/高岡洋詞
撮影/西田周平