クレイジーケンバンドが前作から約1年半ぶりとなる13枚目のオリジナル・アルバム
『ITALIAN GARDEN』が届けられた。結成から今年で15年。バンド誕生の地である横浜・本牧のレストランの店名を冠した今作では、さまざまな音楽の旨味を濃縮したヴァラエティ豊かなCKBサウンドはもちろん、震災後の日本の未来を時に優しく時に厳しい眼差しで見つめる
横山剣のリアルな言葉に心の真ん中を射抜かれること必至。ニュー・アルバムを完成させた剣さんに話を訊いた。
――クレイジーケンバンド(以下、CKB)のニュー・アルバム『ITALIAN GARDEN』がついに完成しました。この季節にCKBのアルバムが届けられるということがすごく新鮮です。CKBのアルバムって、個人的には夏の風物詩みたいなところがあったので。
「そうですね。ここ何年かアルバムが夏に出るというのが定着していましたからね」
――この時期にアルバムを発表することになったのは?
「一番大きかったのはクリエイティヴな理由。いつも春から秋に曲のアイディアが湧いてくるんだけど、夏リリースだと出せる曲が限られてしまうんですね。7月、8月くらいにギンギンの状態で出てきた曲のアイディアが、アルバムのレコーディングで中断してしまうという。せっかくポップコーンがパンパン弾けているような状態なのに。でも、春先にリリース・タイミングを移したことで、そのあたりの問題がクリアできて、今までだったらお蔵入りにせざるをえなかった曲を旬のタイミングでアルバムに入れることができるようになったんです」
――今まで以上にやりたいことを追求できるレコーディングだった、と。
「そうですね。急かされずにじっくり曲を形にすることができた。たとえば<BIBIMBOP>という曲は、作ってる最中に、いいメロディとかいい歌詞がバンバン浮かんできちゃって、何度も形を変えて最終形に辿りついたんです。その結果、すごく納得のいく仕上がりになった。あの曲が入ると入らないとではアルバム全体の印象が全然、違うものになっていたと思うので、そういう意味で、今回の制作環境は作品そのもののクオリティを上げるという意味でも、すごく良かったなと思います」
――サウンド的にはロックンロール、ソウル、ファンク、ラテン、歌謡など雑多な音楽の旨味が溶け合った、いつものハイブリッドなサウンドに加え、モンドでラウンジーな匂いも感じられて、どこか2ndアルバムの
『goldfish bowl』に共通する雰囲気を感じました。
「決してそこを目指したわけではないんですけど、自分でも近いなと思いました。1stアルバムの
『パンチ!パンチ!パンチ!』は、当時ライヴ演奏していた楽曲を集めた集大成的な作品だったんですけど、『goldfish bowl』はそれを踏まえたうえで、よりクリエイティヴなスタンスで曲作りやレコーディングに臨んだ作品だったので、そういう意味でも近い雰囲気があるかもしれないですね。作品全体のフォルムにも相通ずるものがあると思います」
――作品タイトルになっている『ITALIAN GARDEN』というのは、CKBが結成されたイタリアン・レストランの店名でもあるわけですが、結成15周年を迎えるにあたって、ある種、原点回帰のような思いはあったんですか?
「CKB発祥の地として重要な場所でもあるし、バンドの15周年を象徴するという意味でも、ぴったりかなと思って。タイトルに関しては中身とあまり一致しないところもあるんですけど(笑)、あくまでもそこは直感重視で」
――ちなみにイタリアンガーデンって、どんな雰囲気のお店だったんですか?
「本牧界隈の情報発信基地のような役割を果たしているお店でした。ヒップでお洒落な大人が集る不良の巣窟みたいな雰囲気というか。そこに集る格好いい大人たちに僕は子供の頃から憧れていたんですね。だからCKB以前の、自分にとっての原点ともいえる場所なんです。今回のアルバムには、そういう“子供目線から見た格好よさ”、みたいな雰囲気も、どこかに反映されているかもしれません」
――“子供目線”から見た格好よさ、ですか。
「はい。当時、イタリアンガーデンに出入りしていた方々の年齢を今の自分は、すっかり越えてしまってはいるんですけど、格好イイ大人が醸し出す“いぶし銀”のような魅力をなんとか音楽で表現できないかと思って。例えばシルバーでもキラキラした感じではなく、ちょっとマットな質感のシルバーというか」
――今回のアルバムでいえば、「夜明け」「女のグランプリ」「女と海と太陽と」続く作品中盤に、そのあたりのニュアンスが色濃く反映されているような印象を受けました。優雅でロマンティックなんだけど、どこか陰りのある感じというか。
「寂しさとか孤独を感じさせる人に憧れがあるのかもしれないですね。それこそ天地茂さんのようなニヒルな感じというか。天地さんって、すごくハンサムなんだけど、どこか哀しい目をしてますよね。年を重ねた男性にしか出すことのできない色気というか。田宮二郎さんとか勝新太郎さんとか、僕が憧れる格好イイ大人は、みなさん共通して、深い孤独や哀しみを抱えているような印象があるんです」
――華やかさの裏側にある孤独や哀しみ。
「そうですね。モナコにF1のレースを観にいったときも、レーシングノイズに何ともいえない哀しみを感じてしまって。レーサーは契約を切られたら終わりだし、事故を起こしたら死んでしまう可能性も高い。そういうギリギリの瞬間に生きる男のロマンや美しさのようなものを今回のアルバムではスパイスのように振り掛けているんです。ポジティヴなものが求められている時代に、一見ネガティヴとも思えるような要素を入れていいんだろうかとか、もしかしたら不謹慎じゃないかとか、そういう見方もあるのかもしれないですけど、都合の悪いものに蓋をしちゃう今のような時代だからこそ、そういうことじゃダメなんだと思うんです」
――特に震災後は自主規制というか、さまざまな表現にバイアスがかかってしまうような状況が生まれてしまいました。
「僕も一時期は自分の表現に対して慎重になっていたんですけど、被災地にお手伝いに行ったことによって、改めて気づかされることが多くて。現地の方々とじっくりお話させていただく機会があったんですけど、みなさんやっぱりエロい話や下世話な話も盛り上がるし。娯楽を求めている部分があるんですよ。だから変に萎縮しないで、今、自分が伝えたいと思うことをストレートに伝えたほうが聴いてくれる人に響くものになるんじゃないかと思って。それは今回のアルバムでも意識したところではあります」
――いかにして自分なりのスタンスで今の時代と向き合うかという。
「ええ。そこで改めて感じたのがユーモアの重要性だったんです。今は必要以上に物事をシリアスに受け取ってしまうような風潮があると思うんです。何でもかんでも不謹慎という言葉で包み込んでしまうことによって、ミラーに映らない死角にある大切な宝物を見落としてしまうことになるんじゃないかと。洒落を洒落として受け取れるような余裕というか、そういう心の豊かさを取り戻さないと日本は本当に駄目になってしまうんじゃないかと思って。今はどんな些細な表現にもクレームを付けてくる人がいますから。ちょっとでもスパイシーな表現を使うと、その表現だけに反応してきたり。スイカに塩をかけたら、より甘味が際立つということもあるというのに」
――確かにイマジネイティヴな表現が通じにくくなっているところはあるかもしれないですね。テレビを観ていてもテロップだらけだったり。ひとつの表現に対して、いちいちエクスキューズが求められるような風潮がありますよね。
「説明過多になりすぎるあまり、粋な表現が一気に野暮なものに見えてしまったり。あとは正しいか正しくないかが、必要以上に重要視されたり。昔の曲なんて、そんなこといったら矛盾だらけですから。たとえば<コーヒールンバ>なんて、“昔アラブの偉いお坊さんが”って歌いだしから、いきなり間違えてるし(笑)」
――確かに(笑)。
「でも、そこに突っ込むこと自体、僕は野暮だと思うし、特に音楽なんて、あえて突っ込みどころを残すことによって、受け取る側のイマジネーションが膨らんでいくところがあると思うので。とはいえ、そういう世の中にしちゃったのは大人達だし、自分も少なからず責任を感じているんです。だからこそ自分が感じたことは、世の中的に矛盾するところがあったとしても、あえて歌いきりたいし。“昔は良かった”みたいなことを言うつもりはさらさらないけど、こんな時代だからこそ、せめて音楽くらいはおおらかに楽しめるものであってほしいなと思うんです」
取材・文/望月哲(2012年2月)