インターネットがきっかけとなるシンデレラ・ストーリーが、クラシック界でも例外なく生まれている。
H.J.リム(H.J.Lim)は韓国出身、25歳のピアニスト。YouTubeにアップされた演奏が話題となり、音楽関係者の目(耳)にとまった。
ラフマニノフと
ショパンの練習曲全曲を見事に弾ききった映像である。そのテクニックも尋常ではないが、情熱的で個性的、迫力あるピアニズムはまさに衝撃的。「自分は作曲家の代弁者だ」と語る彼女だが、作曲家の意図を汲みながらも彼女の思うままに表現されていく作品は、今、そこで生まれたかのように新鮮でもある。
そしてこのたび、いきなり
『ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集』ボックス(輸入盤)での異例のデビュー。名門レーベルEMI CLASSICSも、その活躍におおいに期待する大型新人の登場だ。ジャケット写真ではシャープなイメージがあるが、実際に会うと気さくで笑顔を絶やさない、チャーミングなお嬢さんという印象。頭の回転もすばらしく速く、その演奏のように情熱的で芯の強い女性だ。
――デビューのきっかけはYouTubeにアップされた演奏。クラシック界もYouTubeなしには語れない時代となりました。
H.J.リム(以下、同)「国籍も、住む場所も、年齢も関係なくすべての人に開かれたインターネットですから、見えない聴き手の方々の支持を多く得られたことは、音楽家として活動していくための大きな力となっています」
――コンクールを経ないで世に出てくるアーティストが、今後増えるかもしれません。
「私自身はコンクールは大嫌い。演奏の技術的レベルの到達度なら競えると思うけれど、アートは競争するためにあるものじゃない。コンクールで成功するためには個性を抑え、お手本通りの演奏をしなければならないわけで、これは非音楽的だし、非人間的でもある。賞金や演奏のチャンスを求めて一度受けたんですが、もうニ度と受けたくないですね」
――YouTubeへのアップは、もとは遠く離れた家族に勉強の成果を披露するためだったそうですね。
「ええ、12歳でパリに単身留学したので、とくに両親を心配させないようにと思って。当時は怖いもの知らずでしたし、留学することへの憧れだけで韓国を飛び出しました。パリには母の知り合いがいて、ホスト・ファミリーになってくれたんです」
――憧れのパリはいかがでしたか。
「フランスは自由主義の国ですが、意外にもピアノでは伝統をしっかりと受け継がせる教育でした。先生に与えられるレパートリーを練習しながらも、こっそり
リストや
スクリャービン、ラフマニノフを弾いていたんですよ。作曲家の人生や考えていたことを知りたくて、伝記や書簡など手当たり次第に読んでいました。その中に
ベートーヴェンもあったのです」
――それにしても、デビューがベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集、というのには驚きました。
「録音より前に、全曲コンサートをしていたんです。2010年に8夜連続のリサイタルで全曲を弾きました。会場となったパリのカテドラルも素晴らしく、スピリチュアルな体験でした。それまで勉強してきたことを糧に、プログラムでの作品の組み合わせ方を考え、楽曲解説も書きました。そうした経験から、今回のアルバムができあがったというわけです。演奏の際は、学校でかじった作曲の基礎を思い出しながら、自分がその場で作曲していくような勢いで臨みました」
――完全に自分の音楽になっていて、しかも情熱的で迫力のある演奏は、そういった経験から生まれているのですね。それにしても、8夜連続というのはすごい!
「恋愛している時と同じで、気分が高揚しているから乗り切れてしまう。友人からも言われるんですが、私の日常はノーマルじゃないので、ステージくらいの非日常はまったく問題ないんです(笑)。ベートーヴェンのことは、考えると眠れなくなるほど好きでたまりません。でき得る限りの資料を集め、読み込んで、ベートーヴェンを分析し、自分自身よりも理解したつもりで演奏しています」
――作曲順に並べるのではなく、CD8枚組の全集の1枚ごとにテーマを設けて、それぞれの曲同士を組み合わせていくあり方もユニークです。
「人生にさまざまな現象が起こるのと同様に、ソナタの中に込められたメッセージも多様です。時系列に並べるだけではメッセージがなかなか浮かび上がってこないので、グループを作ることにしたのです。各グループのタイトルは、作品の中にあるテーマを掘り起こしたもの。たとえば1枚目のタイトルは<英雄的思想>ですが、そこに収めた第29番<ハンマークラヴィーア>はプロメテウスの神話にかかわりがある作品、というように。英雄に与えられたミッションを私自身も引き受けて、精神の炎を燃やすつもりで演奏しました」
――今、ベートーヴェンのほかに熱中している作曲家はいますか?
「スピリチュアルなことに傾倒した人生を送ったラヴェルとスクリャービン。その人生から生まれた独特の世界観が好きです。
ラヴェルは子どもの悪夢とか妖精、ファンタジーの世界。スクリャービンは宇宙的で神秘な世界。この組み合わせでリサイタルも開いたのですが、EMIからの最初のオファーはそれでした」
――では次は、その組み合わせのアルバムをぜひ。ありがとうございました。
取材・文/堀江昭朗(2012年6月)