2013年3月、韓国NO.1のスカ・バンドである
キングストン・ルーディスカ(Kingston Rudieska)のメンバー3人がプライベートで来日した。前年に韓国で競演した
The eskargot milesのメンバーが彼らをサポートし、3月1日には東京・渋谷のクラブでパーティ〈ASIAN UNITE〉が開催。The eskargot milesのメンバーを中心とする日本勢とキングストン・ルーディスカの3人による日韓スカ・セッションも実現した。近年アジア間での交流が盛んになってきているレゲエ / スカ・シーン。韓国代表キングストン・ルーディスカ、日本代表The eskargot milesが育んでいる温かい友情は、アジア・スカ・シーンの輝かしい未来をも予感させるものだ。そんなわけで、今回来日したキングストン・ルーディスカのメンバー3人、ユル(Suk-yuel / ヴォーカル)、チョンソク(Jeong seok / トランペット)、ノッウォン(Nock Won / サックス)にインタヴューをお届けしよう。取材前日に開催された〈ASIAN UNITE〉の余韻が残るなか、彼らの音楽遍歴や音楽観まで細かく話を訊くことができた。
――メンバーみんなソウル生まれなんですか?
チョンソク 「ひとりだけ大邱(テグ)出身のメンバーがいるけど、あとはみんなソウル生まれです。僕は79年生まれ、ユルが83年、ノッウォンが85年生まれで、僕ら3人は全員ソウル出身です」
――3人の音楽遍歴を教えてもらえますか。
ユル 「僕は中学生ぐらいからケーブルTVを通してロックを聴くようになって、高校生になってからはクライング・ナットみたいな韓国のインディ・バンドのライヴに通ってました。それから自分でもパンク・バンドを始めて、音楽の趣味も77年ごろの初期パンク――
セックス・ピストルズや
クラッシュなど――やハードコア、スカ・パンクに寄っていったんです。それがハタチぐらいかな」
――ユルは90年代後半の韓国インディ・ブームに思い切り影響を受けた世代というわけですね。
ユル 「そうです。思春期だったこともあって、社会への反抗や自由のメッセージが心に響いたんでしょうね。衝撃的だったし、すぐに好きになりました。……そうそう、昔の僕はこんな感じだったんですよ(と、スパイキーヘアの写真を見せる)」
――わ、今と全然違いますね(笑)。これがいくつぐらい?
ユル 「20、21歳ぐらいです。このころは
カジュアルティーズ(注1)に憧れてたんですよ。クライング・ナットやノー・ブレインが人気を集め始めた90年代後半、たくさんのパンクスがホンデの町を歩いていたんですけど、その後
ラックス(注2)というバンドがちょっと問題を起こしてしまって、それをきっかけにパンク・シーンが下火になっちゃったんです」
注1:カジュアルティーズ/90年にニューヨークで結成されたパンク・バンド。エクスプロイテッドやGBHなど80年代のハードコア・パンクに影響を受けたサウンドと、天高く突き上げたスパイキーヘア&モヒカンが特徴。
注2:ラックス/90年代後半に活動をスタートさせ、韓国インディ・シーンの爆発と共に人気を獲得するものの、2005年、テレビの生放送中に下半身を露出する事件を起こして社会問題に。リーダーのウォン・ジョンヒは韓国有数のパンク・レーベル、スカンクのオーナーとして重要な足跡を残してきた人物でもある。
左から、チョンソク、ユル、ノッウォン
――ノッウォンはどうですか。
ノッウォン 「高校のときはロックのカヴァー・バンドをやってたんです。
レディオヘッドとか
レイジ(・アゲインスト・ザ・マシーン)、
オジー・オズボーン、
アイアン・メイデンをカヴァーしてて、そのときはヴォーカルをやってました。大学に入ってからは音楽サークルに入部して作曲やピアノを学びました。僕が高校生の頃の韓国ではロックが流行ってたんだけど、大学の頃になるとR&Bやヒップホップ、ソウルみたいなブラック・ミュージックが流行り出して、僕もそちらのほうに傾倒していったんです」
――ブラック・ミュージックが流行り出したのは何かきっかけがあったんですか。
ノッウォン 「うーん、何だったんでしょうね……やっぱりアソト・ユニオン(注3)の〈Think About Chu〉という曲がヒットしたことが大きかったと思います。あと、韓国では音楽学校というとクラシックを専門的に教えるところばかりだったんだけど、90年代になってポップスやロックを教える学校も増えてきたんですね。2000年代以降、そういうミュージシャンが活動を始めるようになって、韓国の音楽シーンそのものの幅が広がったんじゃないかな」
注3:アソト・ユニオン/現在ウィンディ・シティのドラムス&ヴォーカルとして韓国レゲエ・シーンを牽引するキム・バンジャンがかつて参加していたソウル・バンド。〈Think About' Chu〉は2003年に発表された彼ら最大のヒット曲で、メロウなスロウ・ナンバー。
――なるほど、それは面白い話ですね。で、ノッウォンがバンドを始めたのは?
ノッウォン 「21歳のころ、アールズ(Earls)というファンク・バンドがストリートでやってた演奏に衝撃を受けて、彼らがカヴァーしていた
ジェイムス・ブラウンを聴くようになったんですね。そのうちにファンク・バンドをやりたくなってきて、まずはサックスを習いはじめたんです。その後、兵役に就いたんですが、軍隊では軍楽隊に配属されたので、そこではジャズも演奏していました。25歳のとき音楽学校に入って、そこでキム・チョングン(キングストン・ルーディスカのトランペット奏者)と出会い、スカを知りました。
スカタライツ、
ジャズ・ジャマイカ、
ニューヨーク・スカ・ジャズ・アンサンブルはすぐに好きになりましたね」
――チョンソクの音楽遍歴は?
チョンソク 「音楽は小学生の頃から聴いていて、小学校3、4年生ぐらいにはアメリカのビルボード・チャートをチェックするようになったんです。インターネットもない時代だから、AFKN
(注4)や米軍向けラジオ放送のEagle FMなどから情報を得ていました。中学生の頃はパンクとメタルのマニア(笑)。僕にとってはクラッシュが大きかったんですよ。彼らはレゲエをやってたり、他のバンドと違うことをやってたので。クラッシュをきっかけにレゲエを聴くようになり、そのルーツであるスカにも興味を持つようになって。それが高校を卒業したころで、当時流行ってたスカ・パンクも好きでした。
東京スカパラダイスオーケストラや
POTSHOT、
SNAIL RAMPとか。あと、僕のなかで大きいのは、
DETERMINATIONSと
COOL WISE MAN。この2つのバンドからはとても強い影響を受けました」
注4:AFKN/1957年に放送を開始した在韓米軍向けTVチャンネル。現AFN Korea。
――DETERMINATIONSとCOOL WISE MANの音源はどうやって手に入れてたんですか? チョンソク 「友達がくれたテープに入ってたんですよ。でも、バンド名も分からないまま聴いてて。2年前、韓国でCOOL WISE MANと競演させてもらったときは本当に感激しました。なにせ10年以上好きなバンドでしたから。昔は音源を手に入れるのも難しくて、知人とP2P(注5)でデータのやりとりをしていたんです。そうこうするうちに(キングストン・ルーディスカのリーダーである)チェ・チョルウさんと出会って。彼は韓国におけるパンク第一世代の人で、ノー・ブレインやクライング・ナットがホームとしていたライヴハウス、ドラッグの常連でもあったカルメギというパンク・バンドのメンバーだったんです」
注5:P2P/多数のコンピュータ間で通信を行う際の形態のひとつで、それぞれのコンピュータが対等に通信を行なう通信方法。
――へえ、そうなんですか!
チョンソク 「ま、そんなに有名なバンドじゃないんですけどね(笑)。カルメギはちょっと不運なバンドで、ノー・ブレインにせよクライング・ナットにせよ同世代の人たちはすごく人気が出たのに、人気が出はじめたタイミングでメンバーが兵役に行かなくちゃいけなくなって、活動を休止せざるを得なくなったんです。カルメギのメンバーのひとりは今、3号線バタフライ(注6)をやってますよ」
注6:3号線バタフライ/1999年結成のロック・バンド。2012年度の韓国大衆音楽賞で三冠に輝くなど、名実ともに韓国ロック界を代表するバンドと言える。
――じゃあ、チェ・チョルウさんはみんなよりもう少し年上ということ?
チョンソク 「そうですね。僕より2歳年上で、77年生まれです」
――で、キングストン・ルーディスカの話に移りたいんですが、結成したのは何年?
ユル 「メンバーが揃ったのが2003年で、初ライヴは2004年でした」
――韓国にはそれ以前からスカのバンドはいたんですか?
ユル 「スカ・パンクのバンドはいたけど、オーセンティック・スカのバンドはいなかったと思いますよ。レゲエ・バンドもバス・ライダーズ(注7)とかドクター・レゲエぐらい」
注7:バス・ライダーズ/現ウィンディ・シティのキム・バンジャンが参加していたレゲエ・バンド。
――前から不思議だったんですけど、韓国はダンスホール・レゲエの人気がそんなに高くないですよね。どの国でもだいたいダンスホールのほうが人気があるのに。
チョンソク 「韓国はヒップホップの人気が高くて、アメリカのメインストリーム指向がすごく強いんですよ。それ以外のブラック・ミュージックはそれほど知られていないんです」
ユル 「誰かひとりでもやり始める人がいれば一気に広まると思うんですけどね。ヒップホップのプロデューサーやラッパーが自分のアルバムでダンスホールを採り入れたりすることはあるけど……ダンスホールを掘り下げてるリスナーも韓国にはそんなにいないと思いますし」
――なるほど。ところで、キングストン・ルーディスカが結成された際、どんな音をイメージしていたんですか。
チョンソク 「スカタライツですね。実際に演奏してみたら、パンクみたいに気持ちだけで演奏できる音楽じゃなく、メントやカリプソ、ジャズ、リズム&ブルースに対する深い理解がないとできない音楽だってことが分かりました」
ノッウォン 「メンバー9人が共通して好きなのはスカタライツなんですけど、それぞれ違うものも好きなんですよ。だから、その影響を混ぜ合わせて僕らだけの色を作っていければとは考えてましたね」
――ノッウォンはジャズをバックボーンに持ってるそうですけど、他のメンバーの中にもジャズをやってた人はいるんですか。
チョンソク 「(キム・)チョングンもそうですし、ギターのソ・ジェハも、もともとジャズをやってました」
――韓国国内のスカ・シーンの現状についてはどう思いますか?
ノッウォン 「僕らはオーセンティック・スカをもっと韓国で広めたいので、ルーディ・システムというレーベルをみんなでやってます。仲間は釜山(プサン)のスカ・ウェイカーズと済州島(チェジュ)のサウス・カーニヴァル。彼らももともとはスカ・パンクのバンドで、徐々にオーセンティック・スカ寄りになってきた感じ。他にも、もっとスカのバンドが出てきたらいいんですけどね」
ユル 「ルーディ・システムでは〈スカ・ルールズ〉というイヴェントを主催してて、これまでに10回近くやってるんですよ」
チョンソク 「COOL WISE MANやメルボルンのスカズ、台北の
スカラオケにも出てもらったんです」
――そういった海外のバンドとのコラボレーションについてはどう思います?
チョンソク 「今はFacebookやツイッターがあるので、10年前に比べて海外のミュージシャンや音楽好きとも簡単に交流できるようになりましたよね。スカ・シーンのなかで言えば、“仲良くなりたい”という気持ちが互いにあれば兄弟愛や友情を育んでいくのは難しくないと思います。これまでもフィリピン・スカ・フェスティヴァル(注8)で現地のバンドとも交流してきたけど、やっぱり日本のスカ・シーンと交流してみたいという思いは常に持っていたので。それが今回こういう風にみんなと仲良くなれて……本当に嬉しいですよね」
注8:フィリピン・スカ・フェスティヴァル/2012年12月、フィリピンの3ヵ所で行なわれた大型スカ・フェスティバル。地元バンドが顔を揃えるなか、キングストン・ルーディスカは全日スペシャル・ゲスト扱いで出演した。
ユル 「(The eskargot milesの)ノブさんが僕らを迎え入れてくれて、本当に嬉しかった。日本と韓国のこういう交流は理想的なものだと思うんです。政治の世界もこういう風にいけばいいんだけど……実は韓国で3月1日は“三一節”(注9)という祝日で、独立運動の記念日なんですね。そういう日に日本に来ていいのか迷ったんですけど、来て本当に良かったと思ってます。みんなとジャム・セッションもできたし、同じ音楽を好きな者同士、簡単に話が通じますしね」
注9:三一節/1919年3月1日、日本統治時代の朝鮮で大規模な独立運動が起きた。後にそれは“三・一運動”と呼ばれ、現在韓国では祝日に指定されている。
チョンソク 「“〈Mood For Love〉をやろう!”“いいね、やろう!”っていうだけでセッションの曲が決まっちゃうぐらいですからね(笑)」
ノッウォン 「そうそう。日本語、韓国語という言語じゃなく、“音楽”という共通語で会話ができたのが嬉しかったんです」
――こういう交流が積み重なっていけば、本当に素晴らしい未来が作れるんじゃないかと思うんですよ。
チョンソク 「本当にそうですね。スカタライツのメンバーは何十年もスカを演奏し続けているわけですけど、戦闘的なスタンスではなく、楽しそうにスカをやってますよね。僕はそこに惹かれてるし、そういう風に音楽を続けていきたいんです」
取材・文 / 大石始(2013年3月)
撮影 / ケイコ・K・オオイシ
通訳 / Georgina Jo
協力 / The eskargot miles