第28回テトゥアン地中海映画祭「コンペティショングランプリ」受賞、第27回ソフィア国際映画祭「審査員特別賞」受賞、そして2022年には東京国際映画祭・アジアの未来部門に出品されるなど、“現代トルコ映画の到達点”として注目を浴びるベキル・ビュルビュル監督が贈る現代社会の寓話、映画『葬送のカーネーション』(原題: Cloves&Carnations)が、2024年1月12日(金)より東京・ヒューマントラストシネマ有楽町、東京・新宿武蔵野館、東京・恵比寿ガーデンシネマ他にて全国順次公開決定。このたび、公開に先駆けてティザー・ヴィジュアル、およびトルコ南東部の“リアル”が切り取られた場面写真が公開されています。
本映画は、亡き妻を葬るため、棺を背負い歩き続ける老人と孫娘が描く、現代社会の寓話。年老いたムサは、亡き妻の遺体を故郷の地に埋葬するという約束を守るため、棺とともに旅をしています。紛争の続く場所へ帰りたくない孫娘のハリメは、親を亡くし、仕方なくムサと“棺”と共に歩いていきますが、旅の途中、彼らは現実と虚像の狭間を生きるさまざまな人たちと遭遇。まるで神の啓示のような“生きる言葉”を授かりながら歩き続け、境界線の先に小さな光を灯す“3人”のおとぎ話を描いていきます。孫娘ハメリを演じるのは、本作が初の演技経験となった、シリアで生まれ戦争のためトルコに移住したシャム・ゼイダン。幼い表情の中にある現代社会の本質を見据えるような強い眼差しが印象的な期待の俳優。年老いたムサを演じるデミル・パルスジャンは、トルコで映画・舞台・TVドラマで活躍する実力派俳優として知られます。
今回公開されたティザー・ヴィジュアルには、ハメルとムサ、そしてもう一人の家族が眠る棺が、おとぎ話のようなイラストで描かれています。「祖父の“想い”を胸に約束の地を目指す」というコピーが語るように、長い旅路を歩き出した彼らが、国境、生と死、過去と未来、自己と他者、祖父と孫娘の融和など、さまざまな境界線に立ち、その先に小さな光を見つけようとしているのが伝わる仕上がりに。リアリズムと虚構(ファンタジー)が交差する物語の舞台は、荒涼とした冬景色のトルコ南東部。公開された場面写真では、果てしなく続くかのように広がる景色の一部も切り取られています。
アッバス・キアロスタミ、
アスガル・ファルハーディーなどイランの監督たちは言うに及ばず、近年の中東映画から目が離せません。トルコではユルマズ・ギュネイの後、
ヌリ・ビルゲ・ジェイランが現れ、その次世代の才能と言われているのが、このベキル・ビュルビュル監督。彼は
小津安二郎を敬愛し、本作で描かれている「死と旅」というテーマについて、「死と旅という題材は、私が常に深く考えてきたテーマであり、小津安二郎監督から受け継いだレガシーでもあります」と語っており、昨年この作品のワールドプレミアに東京国際映画祭を選んでいます。
ベキル・ビュルビュル監督から念願の日本公開へ寄せたメッセージ、そして
深田晃司監督、映画評論家の暉峻創三より作品へのコメントも到着しています。
[コメント]トルコから日本へ、ベキル・ビュルビュル監督より劇場公開決定に寄せて昨年、東京国際映画祭でワールドプレミア上映をしていただき、監督として、とてもエキサイティングな経験をしました。
上映後は、思ってもみなかったお祝いの言葉や評価をいただき、心から感謝しています。
死と旅という題材は、私が常に深く考えてきたテーマであり、小津安二郎監督から受け継いだレガシーでもあります(日本に来てすぐに彼のお墓参りをしました)。
私たちは誰もこの世に属していません。母親の胎内にいるときと同じように、私たちの口、鼻、目は、そのときは何の役にも立たないにもかかわらず、来世への贈り物として与えられる器官です。同様に、私たちはこの世で非現実的な多くの感情や欲望を抱いています(すべてを手に入れたい、永遠に生きたい、鳥のように空を飛びたいなど)。
このような神秘のサイクルを感じながら、私は「葬送のカーネーション」を作りました。この映画を通じて皆さんとつながることができるのは、さらにエキサイティングなことだと感じています。――『葬送のカーネーション』監督: ベキル・ビュルビュル虚飾なき描写の積み重ねの果てに、突如 夢幻的、魔術的とも見える光景が出現する斬新で寓話的な構成。
説明描写を極力避け、挙動や表情、小道具、そして風景の力で多くを語らせる映画的演出。主人公たちの寡黙さとは対照的に、周縁的存在に大多数の台詞を付与する非一般的な脚本美学……。
先鋭的で強烈な作家性を世界に印象付ける一作が登場した。――映画評論家 暉峻創三人間は理不尽に訪れる死を前になすすべもない。
だからこそ、何千年も前からずっとあがき爪痕を残すように、芸術は死を描き続けてきた。
戦争という理不尽に翻弄される少女にとって、死を背負う祖父の切実な歩みもまた理不尽である。
しかし、その理不尽の中でもとにかく足を前に進ませなくてはならないその姿は、生きることそのもののようでもある。
だからこそ、歩みの先にある「越境」の瞬間と、それを目撃する少女の姿に胸を打たれる。
なぜなら、それはいずれ私たちに必ず訪れる未来の予兆でもあるからだ。――映画監督 深田晃司©FilmCode