ENDON 2017/01/11掲載(Last Update:17/12/19 12:09)
自らの血液をインクとして用い、等身大の自身をシルクスクリーンでベッドにプリントした作品「自画像“1/1”」や、
BLACK FLAG『
My War』デザインのTシャツを着用し続ける記録写真を
Twitter /
Instagramに連日投稿し、終了を自身の死に設定した作品「MY WAR_YUICHIRO」などで知られる美術家・田巻裕一郎が、3度目の個展となる展覧会〈リトミック〉を2月5日(日)から12日(日)まで東京・小岩
BUSHBASHにて開催します。
本展は、
ENDON・那倉太一が主宰する「G.G.R.R.」との共催で行われるもの。初日の2月5日(日)に実施されるレセプション・イベントでは、ニュー・アルバム『THROUGH THE MIRROR』のリリースを3月に控えるENDONに加え、ノイズ・アクティヴィスト
秋田昌美による
Merzbow、
Ryo Murakami主宰「
Depth of Decay」から昨年末にリリースされた最新ミックス作『Less』が話題のZodiakこと真壁昂士も出演。Zodiakと田巻裕一郎によるコラボレーションも披露される予定となっています。詳しくは
オフィシャル・サイトにてご確認ください。
当局に認可された「正しいアート」が、街からホームレスや泥酔者=ノイズとしての他者を排除する。対して不正なアートは、他者性を非公式な方法で表現し、それ自身、他者=ノイズとして規範を逸脱することを欲望する。この意味で、田巻裕一郎とは不正なアーティスト=テロリストである。
《自画像”1/1”》を見てみよう。
立体的な素材を用いて表現されるのは、希薄な身体性であり、作者自らの血液で描かれるのは生き生きとした田巻の似姿ではなく、それは眠っているというより、死んでいる。そこには一般的な自画像が欲望する、作者の理想的な鏡像としてのイメージはない。自己=描かれる対象と作品との間に自己同一性を見出すのではなく、むしろその表現不可能性を提示していることになるだろう。つまり、田巻はアートの定義に他者を密輸している。アートは鑑賞者の意識に変調をきたす効果を持つとされるが、それは言い換えれば、鑑賞者の意識に他者を介入させることであり、実定法を犯すことなくトリップすること、法を逸脱することである。そこにはリアルな作者の主体性が発揮されているのではなく、リアルな彼の死が横たわっている。絶対的な他者である死を、対象を描くという行為に持ち込むこと。対象を表象=再現するというアートの公式を、一見それに従いながら殺すこと。
救世主というまだ見ぬ者のイメージを描く時、田巻はそれが私たち自身であって欲しいと願っている《第1話『救世主、求ム!』(仮)》。このスローガンは私たちに「他者となれ」というメッセージである。もはや五体満足ですらなく、身体性の希薄さどころか欠損を抱えてすらいるこの救世主は、去勢を想起させる微細な鋲で覆われたジャケットを纏うこととなる。大きな物語の死以降の小さな物語としてのポストモダン的世界の救世主は、もはや強い身体とペニスを有する強者ではなく、複数の器官からなるノイズ=弱者であるのだ。
よって私たちにとって政治とは小さな物語のコレクションであり、取捨選択の可能性を持つ《日本国カードコレクション》。その一つとして、真・日本軍のメンバーの纏うジャケットが、救世主のユニフォームと酷似していることに注目すべきである。私たち自身がナショナリズムに駆られて軍隊となるのか、あるいはユナイトしてナショナリズム的悪魔を追い払うのか。それぞれのカードは、他のどのカードとも接続可能な機械である。私たちは田巻からのこの問いかけに応答しなければならない。ノイズになるか、自己同一性の闇にとどまるか。カードを切る場面が、ついに巡ってきたというわけだ。――ETSUO NAGURA / ENDON1985年生まれ。アーティスト、プリントメーカー。2004 年から“y16o” 名義でアーティスト活動をスタート。Pet Bottole Ningen、ENDONなどミュージシャンへの作品提供や特殊な印刷技術でのマーチ制作まで自身で行っている。現在は田巻裕一郎として、特に一貫したテーマは持たず、身近なことから社会的なことまで絵画、立体、映像、SNS などを使って表現している。yuichiro-t.blogspot.jp