ENDON『
MAMA IN CONCERT』『
THROUGH THE MIRROR』や那倉太一(ENDON)主宰「
GGRR」のコンピレーション『
TOKYODIONYSOS』、Bedouin RecordsからのRyo Murakami『Esto』、
Ryo Murakami主宰「
Depth Of Decay」よりリリースされたShohei Takata『Electric Live jam』などのカヴァー・アートで知られる画家 / ペインター“
MA”が、皇居から程近い東京・平河町のギャラリー「
ANAGRA」にて個展〈SAPIENCE IN TOKYO IN 2018〉を3月20日(火)より開催。
昨年6月に行われた東京・幡ヶ谷「
MEM HATAGAYA COFFEE BAR」での展示〈PAINTINGS〉に続いて開催される本展は、2012年の初個展〈BORN IN JAPAN(F*** you, I wonʼt do what you tell me)〉から6年を経て「ようやく納得できる見せ方ができる」と作家自身が語る集大成とも言うべき内容。ラディカルな視点で描かれる実物の迫力を、間近で体感できるまたとない機会となっています。会期は28日(水)まで。入場無料。
オフィシャル・サイトには、 文筆家としても気を吐く那倉悦生(ENDON)が一文を寄せています。
なお、3月24日(土)18:00より同地にて開催されるオープニング・レセプション(入場料 500円 + ドリンク代)では、『Esto』『Electric Live jam』でMAとタッグを組んだデザイナーとしてのみならず、かの独ベルリン名門「
Berghain」でのスピン経験を持つ真壁昂士 aka ZodiakがDJを担当。来場者にはステッカーのプレゼントも用意されています。
作家MAはホモサピエンスとして生を得、この33年間を進んできた。20万年前に東アフリカで誕生したホモサピエンスの末裔である彼がアートの基底的主題として特権的に採用するのは「東京」「資本主義」「人間」という種の概念についてである。2018年、現在のこの国において、“いま・ここ”において生起するあらゆる社会現象の、不可欠の条件として列挙されるこれらの主題たちは、それぞれ歴史的偶有物でありながら、普遍性の“ツラ”をして、万人の不文律として機能する。そのような受容を、主体に強いる。願わくば、すべての主体=臣下がそれを自ら欲望するように。悪的であるから、という理由で対象から距離を置くのが、臆病なアーティスト、一般アーティストである。 MAが彼の人格的嗜好としてそれを悪とするのか、それは不明だ。ともかくそれを対象化し、「それにしても現代はどうなっているのだ」というラディカルな問いに対して現状の構造をダイアグラム=図式化し、再び絵画という支持体に現勢化させる。厄介な現代世界の欲望の略式図を美的配列=アレンジメントに転移する。社会の本質は欲望のダイアグラムに現れる。それは力の拮抗、反発、摩擦、混淆を、線の勾配や色彩や角度、順列、関係性で描くことであり、そもそもそれこそ絵画の本性でなかったか。すぐれた絵画は欲望のせめぎ合い、つまり離脱と降下と硬化……を表現する。現代であれば、資本と人間と地政である。この主題にとらわれない天然系の天才は、一発当たるのを無人島で待つべきだ。
本展のメインとなる、最新シリーズ作品[The Reconstruction of Identity (アイデンティティの再構築)](2017-2018) は、「解体」「建築」を繰り返し、その外観を絶え間ない変容に晒し続ける東京の街を、美容整形被施術者の身体と重ねている。身体(=街)と主体の内容、詰め物としてのアイデンティティは相互作用の関係にあり、身体(=街)は美容整形被施術者のアイデンティティを変容させる契機となりえるし、その逆の運動関係もまた、当然、日々生起している。主観が対象に触発を受けるように、主観は対象に触発と変容を授ける。 美容整形被施術者の身体(=街)を得た女性が、「明るい性格になれた」とあっけらかんとしたコラージュ作品としての顔貌を用いて美しい表情で言うのだ。アイデンティティの再構築の過程で生まれる『身体の内世界を構成する「細胞」たちの「蠢き」』といった多数・複数の部分が奏でる不協和音や、その音楽の露悪的であり、それゆえ却って、蒐集し耳奪われずにおれない、という引き裂かれた欲望の動機物体の提示。 バブル景気崩壊の末に生まれた廃墟をテーマに描いたシリーズ作品[UNCLEAR COLLAPSE(緩やかな崩壊)](2016)、消費とメディア広告/無機質な都市と人をテーマに20枚に及ぶシリーズ作品[SPECIAL CAPTAL(特別な首都)](2013-2015) ……あくまで作家のアティチュードが対象とするのは“いま・ここ”を支配する「偽-普遍」である。
MAの作品は、ホモ・サピエンスである我々の社会が規定した価値観に無自覚に囚われていることへの警告文でありながら、この醜く浅はかな露悪の炸裂、こういうのが好きなんだろ、くだらないと知りながら、気づけばズブズブに弛緩してしまうのだろう……そう、それも手だよ、必ずしも悪手とは言わないーーという扇情的な誘いでもある。“鑑賞者による多様な解釈”という甘言はもうよい、それは前時代の失敗の象徴タームだ。MAは選択を迫る。選択肢はない。問いは一つ。選択肢を買うのか、選択肢を生産する生き物に生成変化するのか。――校閲・編集 那倉悦生(ENDON)