『
ショート・ターム』で知られる
デスティン・ダニエル・クレットン監督の最新作映画「Just Mercy」が、「黒い司法 0%からの奇跡」の邦題で、2020年2月28日(金)より公開となります。冤罪の死刑囚たちのために闘う弁護士ブライアン・スティーブンソンが起こした奇跡の実話を映画化した本作ですが、ゴスペルを歌うシーンなど、音楽も印象に残る作品です。そんな本作について、ブラック・ミュージックの専門家吉岡正晴が音楽面での注目ポイントを解説したテキストが届きました。
「冒頭でこの事件が1986年のことだと知り驚嘆した。まだほんの34年前、ついこの前のようではないか。公民権運動が大きなうねりとなる前の1950年代や1960年代だったらあり得るが、1986年とは。いくら人種差別が根強く残っていたアメリカ南部といえため息がでた。本作は、実話に基づく実にヘヴィーな映像作品だ。
アメリカのアフリカン・アメリカン(黒人)にとって“人種差別されることは当たり前のこと”“黒人に生まれたことが悲劇”という認識は強い。そんな彼らにとって音楽はひとつの救いの手段だ。ブルーズは黒人の日常生活の愚痴や悩みを語り、ゴスペルは希望と未来を歌う。ブルーズは日常の男と女の愛と憎しみや刹那を歌い、ゴスペルは神の愛、普遍的な愛と施しを歌う。黒人にとってブルーズとゴスペルは日常生活の中にある音楽の両輪だ。そして多くの黒人は毎週日曜日、地元の教会に通い、牧師の話に耳を傾け、ゴスペルを大きな声で歌う。親は子供が歩く前から教会に連れて行きその教会に親しませるので、5〜6歳になる頃にはゴスペルの曲をふつうにしっかり歌えるようになる。多くのソウル・シンガーの基礎がその教会にあることは、長い歴史が物語っている。つまり教会で幼いころからゴスペルを歌ってきたことが、基本的な歌唱力を鍛えているわけだ。だから極論すれば教会である程度ゴスペルを歌ってきた者はみな歌がうまい。ゴスペル=教会は、ほとんどの黒人にとって生活の基盤であり、基礎教養であり、近所付き合いの原点でもある。そしてかつては教会音楽(ゴスペル)出身のシンガーが世俗音楽(ソウル・ミュージックやR&B)などに転向すると、それだけで非難された。今でこそこの2つの音楽を行き来することが比較的楽に可能になったが、それこそ1970年代くらいまでは一度世俗への橋を渡ってしまったら、もう2度と神の音楽には戻れないので、不退転の決意が必要だったほどだ。
ウォルター(ジェイミー・フォックス)の隣の独房の死刑囚ハーブ・リチャードソン(ロブ・モーガン)の物語も印象的だ。ヴェトナム戦争の後遺症に悩まされ爆弾を作り、それが過って少女を殺してしまい、結果死刑囚となった。彼にも正しい弁護人がいれば、おそらく死刑にはならずに済んだのでは?と思われる人物だ。そんな、悩まされているハーブに遂に死刑執行日が告げられ、その執行の瞬間に流してほしい曲はあるかと尋ねられる。彼は「ジ・オールド・ラゲッド・クロス」という昔からある讃美歌、ゴスペルの曲を指定する。この曲には〈丘に立てる荒削りの十字架〉〈古びた粗末な十字架〉などの邦題もついているが、300以上のヴァージョンがあるといわれるよく知られた曲だ。
もともとオハイオ州出身の伝道師でもあったジョージ・べナード(1873年〜1958年)がキリストがはりつけられた十字架とはどんな意味があったのかに思いを馳せ1912年に書き上げた作品だった。映画の中では1967年に録音されたエラ・フィッツジェラルドのものが静かに流れる。
ハーブが独房から電気椅子が置かれた執行室まで行き、死刑が執行されるまでずっと流れているこの「ジ・オールド・ラゲッド・クロス」。髪の毛を切られ、ひげを剃られ、牧師と最後の会話を交わし、電気椅子に座らされ、ベルトを締められていくこのシーンは俳優ロブ・モーガンの刻一刻と死に迫る恐怖の演技が筆舌に尽くしがたいほど素晴らしい。
本編の中でも音楽、この楽曲と映画のシーンがどんぴしゃにはまった奇跡のシーンだ。ぜひ映画を見る前に、このエラ・フィッツジェラルドの「ジ・オールド・ラゲッド・クロス」を何度か聞いて行かれることをお勧めする。このシーンにおけるこの曲が持つ十字架への思慕は実に重い」