大谷翔平をはじめ、日本人選手の活躍で目にすることも多いアメリカのメジャー・リーグ・ベースボール(MLB)において、すべての球団の選手が背番号「42」をつけてプレーする光景を見たことがある人も少なくないのではないでしょうか。
1900年以降の近代メジャー・リーグにおいて、1947年から当時のブルックリン・ドジャースでプレーし、白人以外の選手のメジャー・リーグへの道を切り拓いたアフリカ系アメリカ人、
ジャッキー・ロビンソンの功績をたたえ、すべての球団で「42」番が永久欠番(優れた功績を残した栄誉をたたえ、その選手の背番号を永久に他の選手が使用しない)となっています。ロビンソンがメジャー・リーグにデビューした4月15日は、すべての選手や監督、コーチ、審判などが「42」の背番号でプレーする「ジャッキー・ロビンソンデー」として、メジャー・リーグの名物にもなっています。
そのロビンソンの誕生日が、1月31日です。ジャック・ローズヴェルト・ロビンソンとして1919年にジョージア州カイロで生まれ、カリフォルニア州パサディナで育ったロビンソンは、野球のほか、バスケットボール、フットボール、陸上で奨学金を得るほどスポーツの才能にあふれ、第二次世界大戦開戦後は陸軍に従軍。退役後に黒人選手で構成されたニグロリーグのカンザスシティ・モナークスに入団すると、チーム最高打率を記録し、ニグロリーグのオールスターゲームに出場するなど好成績を収め、1945年にブルックリン・ドジャース(現・ロサンゼルス・ドジャース)の会長に誘われて、傘下のマイナー・リーグ、モントリオール・ロイヤルズに入団しました。
そして、1947年4月15日にメジャー・リーグで晴れてデビューすることになりますが、観客やメディアをはじめ、相手選手はおろか、チームメイトからも激しい人種差別を受け続け、本人や家族が命の危険にさらされることもありました。しかしながら、ドジャースの会長から示された「差別を受けてもやり返さない勇気を持て」という言葉を胸に、優れた技術や才能とパーソナリティで、ドジャースをナショナルリーグ優勝6回、ワールドシリーズ優勝1回に導きました。1949年にはナショナルリーグのMVP(最優秀選手賞)を受賞し、オールスターゲームには6度出場するなど、立ちはだかる有色人種を排除する社会の壁を越えて活躍し、野球にとどまらず、有色人種を中心とした多くの人たちに、勇気と希望を与え続けています。
引退後も、公民権運動に積極的に参加するなど人種差別の解消に奔走し、アフリカ系アメリカ人アスリートの指導者としても尽力。1962年に野球殿堂入りを果たすと、1972年には自身の背番号「42」がドジャース初の永久欠番に指定されました。同年10月24日に53歳と若くしてこの世を去りましたが、偉大な功績や影響は今もなお受け継がれ、ロビンソンのメジャーデビュー50年目となる1997年4月15日に、背番号「42」が全球団共通の永久欠番となりました。
ジャッキー・ロビンソンについては、2013年に公開された伝記映画『
42 〜世界を変えた男〜』(写真)でも描かれており、北米(アメリカ、カナダ)では公開3日で約27億円を売り上げて初登場1位を記録するなど、大きな話題を集めました。ジャッキー・ロビンソン役は、その後『
ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男』や『
ブラックパンサー』、『
アベンジャーズ』シリーズ、『マ・レイニーのブラックボトム』などで知られる、
チャドウィック・ボーズマンが務めました。
なお、ボーズマンは癌を患い、2020年8月28日に43歳で夭逝しましたが、その8月28日は、奇しくも2019年のコロナ禍の影響で4月15日から振り替えられていた“ジャッキー・ロビンソン・デー”という不思議な縁もありました。