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感情の渦をすくい上げるバッティストーニ&東フィル文/長谷川教通
まぎれもなく20世紀を代表するヴァイオリニストの一人、ヘンリク・シェリングの録音がいっきに96kHz/24bitのハイレゾ音源で配信された。これは嬉しい。彼が得意としていたバッハからモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスといった独墺系はもちろん、ヴィエニャフスキ、シマノフスキ、バルトーク、ラロ、サン=サーンス、パガニーニ、ヴィヴァルディなど、彼の弾いた録音は名演揃い。
それらの中でもヘルムート・ヴァルヒャと組んだバッハの『ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ集』は、生涯をかけてバッハを追い求めた2人の音楽家が到達した究極の境地と言っていいのではないだろうか。1969年の録音だ。当時はモダン楽器とチェンバロによる録音は珍しいことではなく、スークやコーガン、グリュミオーといった名手たちが録音していたが、シェリングとヴァルヒャの演奏は峻厳さで際立っている。あまりに禁欲的で堅苦しいなどと言われたりもするが、たしかに遊びの要素はほとんどないし、とくにヴァルヒャがほかの演奏家と共演した録音はこれが唯一だとされ、彼のバッハ観が反映されているのは確かだろうと思う。
ただ、ハイレゾ音源で聴いてあらためて気がついたことがある。厳格で内省的なチェンバロに対し、シェリングの弾く音色のなんと美しく繊細なことか。15kHz以上まで倍音が伸びており、ヴァイオリンの硬質ながら無駄のない節度のある表現がハッキリと再現され、思いのほかニュアンスに富んでいることがわかる。しかもチェンバロの高音域がとてもクリアで、ソロ演奏のときよりも表情が柔和で豊かに聴こえる。これはアナログLPの時代、これほど明確には伝わってこなかった。盲目のチェンバリストにはシェリングの表情こそ見えないけれど、ヴァイオリンが発する多彩なニュアンスを耳と肌で感じとり、心の中で何か呼び覚まされるものがあったに違いない。おそらく相手がシェリングでなかったら演奏しなかったのではないだろうか。幸せな出会いだったのだ。彼らの紡ぎ出す音楽はけっして厳めしくない。それを超えた温かさで聴き手を包み込んでくれる。
アンドレア・バッティストーニと東フィルがスタートさせた“BEYOND THE STANDARD”。クラシックの名曲と日本の作曲家の作品をカップリングさせたアルバムを5枚制作するというシリーズだ。第1弾はドヴォルザークの「新世界より」と伊福部昭の「シンフォニア・タプカーラ」「ゴジラ」のカップリング。そして最新の第2弾がチャイコフスキーの「悲愴」と武満徹の「系図」だ。
どちらもバッティストーニらしく弾けるような勢いのある演奏だ。超有名曲だからといって安全運転で見せかけの完成度を求めるなんて、彼らならあり得ない。作曲家が作品に込めた苦悩や迷い、創作に駆り立てられた感情の起伏を音符の隙間から拾い出し、楽団員のそれぞれが共感し自分の想いを発散させてこそ“BEYOND THE STANDARD”なのだ。そこに生じる感情の渦をすくい上げるバッティストーニの強烈な個性。ときには荒々しく響くかもしれない。もっと整えたほうがいいなんて評される部分があるかもしれない。しかし、東フィルはあくまで感情の渦から吹き出す熱気ある音楽を求める。
「新世界より」や「悲愴」が聴き手にグイグイと切り込んでくる様は、彼らが単なる名曲のスタンダードな演奏で満足することを意図していない証拠。「シンフォニア・カプターラ」の第3楽章でも重量感を意識した土臭いリズムとアタックが、まさに大地を踏みしめる北国の古い踊り。バッティストーニさん、よくぞ下手に洗練などさせずにやってくれました!
武満の「系図」では語りに『あまちゃん』でブレイクしたのんが起用され、話題となった。彼女らしい浮遊感のある世界がとても印象的だ。あえて作為的に演じるのではなく、淡々と読んでいる声のトーンから醸し出される漂流する現代の家族像……谷川俊太郎の詩が心に沁みる。
このシリーズ、さらに「幻想交響曲」と黛敏郎の「舞楽」、「運命」と吉松隆の「サイバーバード協奏曲」の組み合わせなどが予定されている。期待しよう。
イタリアの“Dynamic”レーベルから注目の弦楽四重奏団。Quartetto Energie Nove、日本語ではエネルジエ・ノーヴェ四重奏団……といっても、知らない音楽ファンが多いのではないだろうか。スイスのルガーノを拠点に活動しており、スイス・イタリア語放送管の首席奏者によって結成されており、その名称は1918年にイタリアで創刊された雑誌からとられたという。その雑誌は政治や文化についての鋭い批評を掲載したことで知られているが、それにならって音楽の在り方を見つめ直し、新しい可能性を追求したいという意気込みが伝わってくる。
すでにプロコフィエフやヤナーチェクの録音で話題となっているが、このスメタナもきわめて刺激的な演奏だ。第1番でのヴィオラの存在感がものすごい。くぐもった色合いとはまったく違う。溌剌としてまさに主役級の活躍ぶり。4人の奏者がみずからの個性を主張し、それをぶつけ合いながら音楽の推進力を生み出していく。第4楽章でも圧倒的な勢いを聴かせる。だからといってスピード感に頼っているわけではない。音を弾ませたりタメを作ったり、細かく変化を与えながら前進していく。第2番の終楽章も、目まぐるしく変化する響きと疾走するプレストにグイグイと引きずり込まれてしまう。48kHz/24bit音源だが、弦の音色が生々しいくらい鮮鋭に録られており、各声部の絡み合いや激しい弓使いがとてもスリリング!
2018年はレナード・バーンスタインの生誕100年のメモリアル・イヤー。ということで、彼が遺した数多くの録音がリマスターされたが、中でも注目されるのがイスラエル・フィルを振ったメンデルスゾーン。「フィンガルの洞窟」と交響曲第3番「スコットランド」が1979年ミュンヘンでのライヴ、交響曲第4番「イタリア」と第5番「宗教改革」が1978年テルアビブでの録音だ。
バーンスタインが振っているんだから、マーラーみたいに濃厚な……そんなイメージがあるかもしれないが、このメンデルゾーンはとっても自然な表情がいい。陰鬱とか憂鬱といった枕詞で語られることが多い「スコットランド」も、けっして暗澹とした音楽ではない。オケの響きはむしろ明快で活き活きとして、とくに弦楽器に艶があってとびきり美しい。「フィンガルの洞窟」も、冬場の凍てつく情景ではなく、爽やかな日差しの中に浮かび上がる雄大な風景を見るようだ。テンポは概してゆっくりめで、伸びやかな響きが流れるように続いていく。「イタリア」はより快活なテンポでダイナミック。ピアニシモも明瞭に描き出される。「宗教改革」も含め、バーンスタイン&イスラエル・フィルによる最高傑作!
これらの名演が192kHz/24bitで配信されたのだ。アナログLP時代から聴き込んできた録音だが、ダイナミックレンジの拡大は当然として、全域にわたってひずみが少なくなっているのが嬉しい。ヴァイオリンの高音域などもストレスなく滑らかに伸びて、なおかつ内声部の明瞭度が劇的に向上している。ぜひハイレゾで聴いてほしい。
美しいピアノ。エレーヌ・グリモーが2017年12月、アリス=紗良・オットが2018年3月、ほとんど同じ時期に感性で勝負する2人のピアニストがアルバムを制作した。グリモーのアルバムは、キエフ生まれの現代作曲家シルヴェストロフによる「バガテル」からスタートするが、この作品はいわゆる現代音楽や前衛音楽とはまったく違い、ノスタルジックで透明なクリスタルのような音色。ドビュッシーの「アラベスク」やサティの「グノシエンヌ」「ジムノペディ」、ショパンの「ノクターン」「ワルツ」など、彼女の震えるような感性のきらめきを聴いているうちに、いつの間にか瞑想の世界への誘われていく。静かに聴きながら「想い出」や「記憶」をたどりながら自分の心を見つめる、そんな時間なのかもしれない。
アリス=紗良・オットはドビュッシーの「夢(夢想)」から弾き始める。夕日が落ちて光と闇が融け合う時間。闇の世界と光の世界の境目がなくなってしまうミスティックな感覚。夢への入り口なのだろうか。「人間にも闇の部分と光の部分があると思う」と彼女は言う。仮面の下に別の顔があったり……そんな感覚をフランスのピアノ曲にオーバーラップさせたプログラム。超有名な曲がズラリと並ぶが、もちろん単なる名曲集ではないし、個性という名の安易な自己主張を押しつけてもいない。彼女の弾くピアノはきれい、音のつながりもきれい。でも一曲一曲を深く見つめて、デリケートな音色の変化やフレージングに反映させている。そこがいい。
録音も注目で、前者では高音域のアンビエントを巧みに取り込んで、ピアノの音色をブリリアントにとらえているし、後者ではタッチの明瞭さは大切にしながらも中低音域の漂うような響きを生かしている。いずれもピアニストの意図をくみ取った音楽的ですばらしい録音だ。あなたはどちらのピアノが好きですか?
2人のこだわり屋が作り上げたケイト・ブッシュのリマスター文/國枝志郎
イギリスのシンガー、ケイト・ブッシュのアルバムがまとめてリマスター! しかもリマスタリングはピンク・フロイドとの仕事で知られるエンジニア、ジェイムス・ガスリー! という情報にどよめいたファンは少なくないだろう。フィジカル・リマスター・アルバムとしては11月に“4つのアナログ・ボックス・セットと2つのCDボックス・セット”が発売されることがアナウンスされており、本稿執筆時(2018年11月20日)にはアナログのボックス・セット2つ、CDボックス・セットひとつがすでにリリースされている。すべてにおいてみずからのコントロールを完璧にしたいアーティストは数多かれど、ケイト・ブッシュほどその度合いが桁外れなアーティストはそうそういないわけで、それはアートワークの凝り方にも表れている。とにかくどのアルバムもまず最初に目に入るジャケットのアートワークが激しく美しいので、間違いなくこれはファンならフィジカル・ボックス、できればアナログのボックスを手に入れたいところだと思うが、しかしここはまずぐっと我慢して、待望の“こだわりまくりのケイト・ブッシュの音楽をハイレゾで聴く”ことから始めたい(財布に余裕がある方はフィジカルも買って手元に置いて眺めながらハイレゾを聴きましょう)。ケイト・ブッシュ監修のもと、ジェイムス・ガスリーのエンジニアリングでおこなわれたリマスター(ハイレゾは44.1kHz/24bit MQA版も同じ)がどのようなサウンドになっているのか……近年これほど期待を持って再生を始めた音源はそうはないと大きな声で言える、というのは大袈裟であろうか。いや、そんなことはない。ケイト・ブッシュもこだわり屋だと思うけど、さらにそれに輪をかけてこだわりまくるのがジェイムス・ガスリーである。こだわり屋とこだわり屋……これちゃんと着地するのか? という危惧すら覚えていたことは紛れもない事実である。おそるおそる試聴開始……すいません。ごめんなさい。最高です。1978年のデビュー・アルバム『The Kick Inside(邦題:天使と小悪魔)』の1曲目から、1993年の『The Red Shoes(邦題:レッド・シューズ)』まで、アナログからデジタルまでを含む15年の時間を統一された音質で楽しむことができるのはマジックというしかない。11月16日にリリースされたのはフィジカルと同内容で、アナログのセットと同じ編成の2セット(『The Kick Inside』から『Lionheart(邦題:ライオンハート)』『Never For Ever(邦題:魔物語)』『The Dreaming(邦題:ドリーミング)』までを収めた『Remastered Pt.I』、そして『Hounds Of Love(邦題:愛のかたち)』『The Sensual World(邦題:センシュアル・ワールド)』『The Red Shoes(邦題:レッド・シューズ)』までを収めた『Remastered Pt.II』)。このあとに控える続編を待って紹介しようと思ったが我慢できませんでした。これは全部持っていたい逸品ぞろい。
ローリング・ストーンズのカタログは当然のことながら非常に多いわけだが、ハイレゾ配信になっているものはとにかくまだまだ数少ない。初期のタイトルを中心に少しずつ出てはいるのだが……ま、永遠のライバルであるビートルズも似たような状況ではあるわけだが、今月(2018年11月)は、両バンドの重要作が相次いでハイレゾでもリリースと相成り、ファンにとってはうれしい秋になったことだろう。ビートルズは名作『ザ・ビートルズ(通称ホワイト・アルバム)』の50周年記念盤をリリースと同時に待望のハイレゾ配信(96kHz/24bit)も実現し、2017年にリリースされた『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の50周年記念盤のハイレゾ(96kHz/24bit)とあわせて2タイトルがハイレゾ化されたわけだが、対するストーンズも、2017年に『サタニック・マジェスティーズ』の50周年記念盤のハイレゾ(こちらはビートルズより豪華な96&192kHz/24bitで発売)が登場したのに続き、この11月にアルバム『ベガーズ・バンケット』のハイレゾ配信も実現したというわけで、今のところ勝負は引き分けか……と思うでしょう。しかし、今回のストーンズ・ハイレゾはちょっと違うのだ。なんと今回は、PCM(96&192kHz/24bit)に加えて! DSD(2.8MHz)が! あるんですよそこの人! 思わず興奮してしまったのだが、これは画期的でしょう。ビートルズにはないDSDがあるという時点で優勝決定(気が早すぎ)。すいません。DSDだけがハイレゾじゃないよとおっしゃる方もおられましょうが、DSD推しとしてはやはりこれ重要なんですよ……。じつはこの『ベガーズ・バンケット』50周年記念盤はボブ・ラディックによるリマスターが施されているが、2002年にも同じボブ・ラディックによるDSDマスタリングが行なわれていて、そのときのマスターを使ったハイレゾ配信(88.2&176.4&192kHz/24bit)も2012年と2014年に行なわれていたのである。それももちろん素晴らしい出来栄えではあったが、16年後の新たなDSDマスタリングでよみがえった『ベガーズ・バンケット』、ことDSDに関してはやはり音響的にも未踏の境地を聴き取ることができるだろう。ビートルズと違って、50周年記念盤とはいえ追加曲はないけれど、ストーンズをDSDで聴くという贅沢の前ではたいした問題ではない。ちなみにフィジカル盤は限定でSACDも入手可能です(嬉)。
気が付いたらロサンゼルスのレーベル、ブレインフィーダーからのハイレゾ・リリースがけっこうなタイトル数になっているのにちょっと驚いている。レーベルの総帥、フライング・ロータスがLAでブレインフィーダーを始めたのは2007年。フライング・ロータス自身はその前年の2006年に同じLAのレーベルPlug Researchからアルバム『1983』でデビュー、2008年にはイギリスの電子音楽レーベルの代表格といえるシェフィールドのWARPと契約してセカンド『ロス・アンジェルス』をリリース。ブレインフィーダーがあるのになぜWARPと契約? とも思わせたが、LAのビート・ミュージック・シーンをよりいっそう先に進めようとするフライング・ロータスの強い信念が、LAの、そしてひいてはLAだけではなくワールドワイドな新しいビート・ミュージックのアーティストの才能の発掘の拠点となるレーベルを作らせたのである。その狙いは10年を経過した今、素晴らしい結果を生み出していることはブレインフィーダーからリリースされた多くの作品の先鋭的で幅広い音楽性を聴けば、すぐ理解されることだろう。当初ヒップホップ由来のビート・ミュージックのリリースから始まったレーベルだが、オースティン・ペラルタ、サンダーキャットらによるエレクトリック・ジャズがレーベルの一側面を担うようになり、その流れが2015年のカマシ・ワシントンによる壮大な『ザ・エピック』に結実していくのである。今もっとも熱いレーベルの10周年を記念したコンピレーション・アルバムが本作だ。前述したオースティン・ペラルタ(故人)のトラックがひとつも含まれていないのはちょっと残念ではあるが、しかしサンダーキャットをはじめカマシ・ワシントン・バンドのキーボーディストであるブランドン・コールマン、ウィーン生まれのドリアン・コンセプト、南ロンドン出身のハウス・プロデューサー、ロス・フロム・フレンズ、サンダーキャットへの曲提供も話題のドラマー、ルイス・コールをはじめ、おそろしく幅広い才能が集った36曲が収録されている。しかもこれはただの過去を振り返る作品ではなく、36曲中初出し音源が22曲を占めるという特異な構成からもわかるように、むしろレーベルの未来を示唆する作品となっているのである。総帥フライング・ロータスのすごみを感じさせるとも言えるこの作品は、ローファイではなくハイファイなハイレゾ(44.1kHz/24bit)で聴くべき“攻めた”アルバムなのだ。
これ、最初は単なるオーケストラによるインスト・カヴァー・アルバムかなと思ってスルーしてしまっていたのだが、1曲目に“Bowie”“Nile Rogers”とあって、え? これって……と思って聴いてみたところ、見事にはまってしまったのだ。なんせ冒頭から「レッツ・ダンス」なのである。トニー・ヴィスコンティから離れ、ダンス系のナイル・ロジャースと組んで1983年に発表した、ボウイの大ヒット・アルバムに収録されたダンサブルなファースト・シングル・カット曲だが、豪華なストリングスがめちゃくちゃハマっているのだ。クレジットを見てみると、ナイル・ロジャース自身がストリングス・アレンジをしているというからそのハマり具合も頷けるのだが、その曲だけ「Nile Rogers' String Version」とクレジットされ、それ以降はすべて曲のタイトルの後に「Symphonic Version」とクレジットされている。収録されているナンバーはa〜ha「テイク・オン・ミー」、シンプル・マインズ「アライヴ・アンド・キッキング」、ウルトラヴォックス「ヴィエナ」、エコー&ザ・バニーメン「キリング・ムーン」、ブロンスキ・ビート「スモールタウン・ボーイ」、ハワード・ジョーンズ「ホワット・イズ・ラヴ?」、ティナ・ターナー「ホワッツ・ラヴ・ゴット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット」、シンプリー・レッド「ホールディング・バック・ザ・イヤーズ」、クリス・レア「ジョセフィーン」、シカゴ「忘れ得ぬ君に」、ロクセット「イット・マスト・ハブ・ビーン・ラブ」、フォリナー「アイ・ウォナ・ノウ」、カーズ「ドライヴ」、プリテンダーズ「2000マイルズ」……レーベルはワーナー/EMI系がメインだが、80年代のヒットとしてはかなり幅広いジャンルにわたっていて、好きなトラックだけ聴いてみても面白いかも。このアルバムのトータル・プロデュースはアンディ・ライト(Andy Wright)、アレンジはサム・スワロー(Sam Swallow)。ともにイギリスのベテランである。こういうストリングス・アレンジものはともするとBGMみたいに聞こえてしまうことも多々あるのだが、これはレコード会社がちゃんとオリジナル・ヴォーカルを生かして、真面目にゴージャスなストリングスを丁寧にミックスしているので、名曲の意外な側面を見せてくれるという意味でも楽しめる作品だ。ことストリングスは名スタジオ、アビイ・ロードで、ロンドンの腕っこきのミュージシャンたちを集めたオーケストラでレコーディングされており、ハイレゾ(44.1kHz/24bit)にふさわしい豪奢な響きを堪能できる。
このアルバムは2016年にCDで発売されていたもののハイレゾ(96kHz/24bit)リリースである。当時これを僕はCDショップの試聴機で聴いて興味を惹かれ購入したのだが、買おうとしてCDを手に取って思わず取り落としそうになったことを覚えている。1枚のCDとは思えないほどずっしりと重いのだ。わ、なんだこれ……。なんと、ディスクのトレイが鋼鉄(?)でできているのだった。収録されている音楽は、ピアノだけで作られているとショップのPOPに書いてあったが、にわかには信じがたいものだった。松本氏のHPに飛んでみると、このアルバムについて「本作は楽曲ごとに12種類の全く異なる作曲技法を試みたピアノ前奏曲集であり、ピアノ以外の楽器は一切使用していない純粋なピアノ音楽です」とある。全12トラックの曲タイトルを見れば「Feedback and Volume Pedal」「Pulse」「Reverse Schenkerian Analysis」……なるほど、そういうことかと。文字はあるが、ほぼ真っ黒な鋼鉄の重さを持つピアノ(なのにピアノとは思えない響きもある)・アルバム。まあバッハやショパンを期待してこれを買う人がいるとも思えないけど(間違って買っちゃったらそれはそれでおもしろい……かも)、坂本龍一が書いている「これは21世紀ならではのピアノ前奏曲集だ」というコメントは、この半ば電子音楽に聞こえるピアノ・アルバムをより多くの人に聴かせる契機になっているかもしれないし、僕もとても楽しく聴いたのだ。当時からこれはCDの16bitの足枷を外してあげたら最高だけどなあと考えていたので、2年たってハイレゾ(96kHz/24bit)で聴くことができるようになったのは僥倖だ。なお、今回のこのアルバムのハイレゾ化と同時に「2016年のアルバム『Preludes for Piano Book 1』の波形データを独自開発のプログラムによって時間的空間的に解体し作曲でも編曲でもない新たな生成音楽に進化させた作品」(本人のHPより)という『Preludes for Piano Transcription』という約40分1トラックのアルバムも同スペックのハイレゾでリリースされているので、ぜひそれもあわせて聴いてみていただきたい。そのほか、ライヴ・トラック『Modular Live Set @ CHANNEL#16 / SuperDeluxe Tokyo』と、別ユニットらしいquelltll名義での作品「unravel」「Heavy Tar EP」もハイレゾ(96kHz/24bit)で配信されているので、本作を聴いて気になったらぜひ。