高音質放送i-dio HQ SELECTIONのランキング紹介番組『「NOW」supported by e-onkyo music』(毎日 22:00〜23:00)にて、この連載で取り上げたアルバムから牧野さんが選んだ1曲を放送します。今月の放送は11月26日(火)の「JAZZ NOW」から。
こちらハイレゾ商會
第73回 上原ひろみの『Spectrum』はソロ・ピアノでも圧倒的パフォーマンス
ジャズ・ピアニストの上原ひろみが10年ぶりのソロ・ピアノ・アルバム『Spectrum』をリリースした。2019年、カリフォルニアのスカイウォーカー・サウンド・ステージでの録音。ハイレゾでもflacとMQA(どちらも88.2kHz/24bit)で配信されている。
上原ひろみと言えば、2003年のファースト・アルバム『Another Mind』でジャズ・ファンのみならず、ロック・ファンまでも虜にしたピアニストである。以後チック・コリアやスタンリー・クラークら大物アーティストと共演、自身のコンボでも活動するなど世界を股にかけて活躍してきた。
またオーディオ・ファンにも特別な存在だ。昔から上原ひろみのアルバムは高音質と同義として聴いているオーディオ・ファンも多いことだろう。『Another Mind』をはじめいくつかの名作をハイレゾで聴くことができる。
『Spectrum』はその上原ひろみの新作なのだから、音楽と音質の両面で楽しめるのは間違いないと思っていたが、1曲目の「カレイドスコープ」から、“ソロ・ピアノでもここまでやるか!?”というくらいの白熱のプレイ。これには一応オーディオ・マニアである僕も音質は横に置いて音楽に圧倒されてしまった。いまだにソロ・ピアノと言えば、キース・ジャレットやビル・エヴァンスが頭にある僕は、ちょうど『Another Mind』を聴いた時のような衝撃を受けた。
左手は怒涛のベースラインを刻み、右手はコードをまるで単音のように操ってゆく。その右手がインプロヴィゼーションに切り替わるや、思いきりキレのよい早弾きとなる。ただの超高速プレイならコンピュータの自動演奏と同じであるが、一音一音がキレまくっているからエモーショナルである。まるでバンド演奏のように圧倒的なパフォーマンスで、腕は2本、指は10本しかないのに、よくこんな演奏ができるものだと感心してしまう。
もちろん躍動的な曲ばかりではない。2曲目の「ホワイトアウト」では一転して、穏やかな大洋のような世界を紡ぎ出す。「イエロー・ワーリッツァー・ブルース」ではブルース・ピアノ。ビートルズのカヴァー「ブラックバード」はレノン&マッカートニーというより、キース・ジャレットに接近したメロウなピアニズムであろうか。
「ラプソディ・イン・ヴァリアス・シェイズ・オブ・ブルー」は、ジョージ・ガーシュウィンのおなじみの名曲にジョン・コルトレーン「ブルー・トレイン」、ザ・フー「ビハインド・ブルー・アイズ」を組み入れた22分にもおよぶ大曲。LPの時代なら片面全部を収めた盤面の溝を見て息を呑み、“聴くぞ〜”と気合を入れて針を落としたであろう曲である。しかしハイレゾではここまでの7曲に圧倒され、そのまま一気に聴いてしまった。
ラストは心安らかになる「セピア・エフェクト」。終わってみれば『Spectrum』はソロ・ピアノとは言いながら、相変わらず限界を超えようとする挑戦的なアルバムだった。加えてデビュー16年目ならではの叙情的で繊細な表現も聴きどころだ。上原ひろみのオリジナル曲の素晴らしさについても一言書き添えておきたい。
音楽のことばかり書いて音質のことが後になってしまったが、音場はフロント右に低音が位置し、フロント左に向けて高音になっていく。さしずめ上原ひろみがリスナーに向かってグランドピアノを弾いている格好だ。
低音の重心の低さ、打鍵の強さ、音のキレ、倍音を含んだ和音などが聴きどころだろう。ハイレゾではお約束の粒立ちのいい音は、怒涛の早弾きをさらに磨き上げる。リスナーのシステムでそれぞれに楽しめるハイレゾな気がした。